思考の道場

答えのない、問いのまわりをぐるぐると。

「そうであったかもしれない自分」と、物語。

あなたが小さいころ、好きだったことって何ですか?

たまに子どもの頃の友人に会って昔話をするときって、何であんなに楽しいんでしょう。今よりもずっと、何も考えずに遊んでいた。もちろんその時々でつらいことはあったんでしょうけれど、人間都合いいことしか覚えていないようにできているみたいで。

私は小説読んだり、リカちゃん人形で遊んだり、ハム太郎ごっこしたり(とっとこハム太郎懐かしい。)思えば物語のなかで遊ぶことが多かった気がします。一日中リカちゃん人形で遊んで腰痛くなっていました。

そんなこんななので、もちろん読書=小説という図式が頭のなかにあったのですが、読書=小説を読むことではない、と改めて認識し、この世には小説を一切読まない人がいるんだということにはっきり気付いたのが、大学入ってからです。我ながら気付くの遅くて飽きれますが、思い込みって恐ろしい。

そんなことを認識してからというのも、小説を読んで何の役に立つの?という疑問が存在することに勝手に胸を痛めています。小説を読むことは一般的には趣味の一つなので、流れゆく言葉がもたらす愉悦とか、物語に入り込んでしまうことの快感とか、私ももちろんそういうところに惹かれますが、趣味を超えた小説の存在意義、みたいなものをぐるぐる考えてしまうのも確か。

 

 

今日はそんな話をしたいと思います。

 

★★★

物語というのはいつも誰か、具体的な人についての物語ですね。たとえ名前がKであったり少年Aであったりしてもそこには生々しく、血の通った人が出てくる。そこで語られるのは私の物語ではなく、誰かの物語。

にもかかわらず私たちが物語に入り込んでしまうとき、その物語にどっぷりつかってからふと現実に戻ってきたとき、「私はもしかしたらこの物語の主人公でありえたかもしれない」と思うことがあります。どんなに共感を抱きづらい登場人物であったとしても、何かしら一つや二つ、共通点を見出してしまうことってありませんか?

私はかつて東野圭吾の「手紙」や角田光代の「八日目の蝉」、山本文緒の「恋愛中毒」を読んだことがあるのですが、読み終わったあとはいつも背筋がぞぞぞとしてしまいます。それは私がこの小説の主人公足りえる、主人公でありえたかもしれない、と思うからです。

普段生活している中では実感しづらい、「そうであったかもしれない自分」に出会うのが、物語を読むとき。

 

話は少し飛んでしまいますが、「○○のために~」という慈善事業は続かない、と言われることがあります。またそう思っていたとしても、本当のところは「そうすることによって感謝されたい」という思いがあったりして、上手くいかないこともあります。自分のことに、自分が生きることに必死だから全てのことが自分に関係する、当事者としていられるなんてそんなことはできません。私ももちろんそうです。

かといって「私には関係ないから」と済ませてばっかりだと、残るのは切り詰められた社会と、切り詰められた私です。子どもじゃないから、お年寄りではないから、そこの国の人ではないから、男性じゃないから、女性じゃないから、私には関係ない、と切り捨てるのは、例えば「子どもであった自分」や「やがて老いる自分」を切り捨てるのと同じではないでしょうか。社会がなるだけ多様な人を内包するものであってほしいと私が思うのは、私自身が「その人であったかもしれない」と思うからであり、「その人でありえる自分」を自分の中に残しておきたいからでもあるのです。その人のためや社会のためだけじゃなく、多様でありうる自分、という可能性をも残しておきたいからです。

 

そう、私はもしかしたらその人であったかもしれない、というある種の想像力は、社会という共同体だけじゃなくて、自分自身の「あらゆる可能性」を内包するものでもあります。その内包性が、結果的に社会を「生きやすい」ものにするといいなと願いながら。

そして物語を紡ぐ小説の一つの可能性は、その想像力を涵養するところにあるんじゃないでしょうか。

 

★★★

 

手紙 (文春文庫)

手紙 (文春文庫)

 

 

 

八日目の蝉 (中公文庫)

八日目の蝉 (中公文庫)

 

 

 

恋愛中毒 (角川文庫)

恋愛中毒 (角川文庫)

 

 

 

 

 

 

それは痛みを伴うけれど。/ 自分と他人を分けて考えてみよう。

って書きましたが、別にそっち系の話ではありません…ってこのブログを読んでくれている方なら察しがつきます…はず。

 

ところで性にまつわる話を下品になりすぎず、学術的になりすぎずにさらっと書くには器量がいる気がします。

文学史と言われるリストに名を連ねている作家も、どうやってそのシーンをやり過ごすのか、いろいろ考えあぐねていたんでしょうか。

ちなみに最近読んだフィッツジェラルドの「夜はやさし」では「……」でもってやり過ごされていました。そういえば19世紀のドイツリアリズム作家、フォンターネによる「エフィ・ブリ―スト」でも同じく「……」で流れてゆきます。まあ時代のせいもあるんでしょうが、この小説をドイツ語の授業でやって、ここの「……」の意味するところは何かという質問が教授から出たときは、ぱっとは答えられないくらいさりげなく差し挟まれた「……」でした。

 

「……」。はしょるなよって思うのか、さりとてスムーズだなと思うのか、あなたはどっちですか?

夜はやさし(上) (角川文庫)

夜はやさし(上) (角川文庫)

 

 

罪なき罪―エフィ・ブリースト (上) (岩波文庫)

罪なき罪―エフィ・ブリースト (上) (岩波文庫)

 

 

★★★

前置きが長くなってしまいましたが、さてなんでこんなタイトルにしたのかというと、「割り切れないけれど割り切りたい」ものについて書きたいなあと思ったからです。

そう、「自分」と「自分以外の人」について。

 

「喜びは2倍に、悲しみは半分に」とよく言いますが、自分のことのように喜んだり悲しんだりできる人がいることは幸せな一方で、苦しみもまたもたらします。

 物語を読む際の愉悦もどこからやってくるのかというと、「主人公との同一視による、感情移入」です。どれだけ登場人物がつくりこまれているかにもよるし、自分の共感能力にもよりますが。「魔女の宅急便」のキキを見て、まるで自分が空を飛べたかのようにわくわくし、まるで自分がスランプに陥ったかのように、飛べなくなったキキとともに落ち込む。物語に入り込んでしまう。

 

じゃあ逆に、自分以外の誰かにシンパシーを感じてしまうことの苦しみってなんでしょうか。

私はけっこう共感能力が高いほうなので、身近な人が元気なうちはいいんですが、落ち込んでしまうとずるずるとこっちも引きずられてしまいます。それで、その人のことをなんとかしなきゃなんて思ってしまう。でも落ち込んでいるのは当たり前ですが自分ではないし、最終的に元気になるのも、その人自身しかできない。逆に自分が落ち込んでいて、そのつらさを周りの人に理解してもらいたいなんていう思いがむくむく出てきたりすることがあるのですが、共感や理解を求めてしまうと、それはどこかのタイミングで必ず裏切られる。純度100パーセントの理解は不可能だからです。当たり前のことなんですが、この人は「わかってくれる」という前提でいると、その人に怒りや孤独感といった負のエネルギーが追加でわいてきてしまう。

 

理解されないし理解できないけれど - 思考の道場

 

だから、ふと自分と「自分以外の人」を混同したり近づけたりしすぎたときは、目をつぶって、そっと、私とあなたを分けてみる。

そう、湿ってくっついたのりを、ぺりぺりはがすように。

それは痛みを伴うかもしれませんが、元々別個のものだったのだから。

ちなみにここドイツでは、のりが湿らないくらいからっとしているのでちょっと懐かしいです、じめじめしたのり。

 

でもユング集合的無意識じゃないけれど、深いところには同じ地下水脈が通っていると思っています。のりが四角く切られる前に、どろどろした同じ流体であったように。そのユング心理学者の河合隼雄氏も、地球は丸いから人間も深いところまで掘っていけばそこでは交わっていると言っていましたしね。だから孤独なときは、逆に地下を掘っていきます。少しずつ、そっと、ゆっくりと。

 

こころの処方箋

こころの処方箋

 

 

 

 

 

 

 

【Webエッセイ】 視野なんて広がらないのだから。

すいか、花火、下駄響き。

風鈴の音色に、日暮れのそよ風。

夏はどうも、ノスタルジックな匂いがする。

 

夏の空は高い。この辺には高い建物なんてないから、ふと顔を上げて腰を上げて目線を上げると、そこには私の視界を超えた空が広がっている。

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下ばっかり向いて手と頭を動かしていると、ふとその空の広さに面食らう。

知らない間に、視野が狭くなっていることに気づく。

 

青空につられて、散歩に出る。空が青いだけでなんとかなるかな、なんて思えるから。

 

留学もあと少し。海外に出ると真っ先に「視野が広がる」と言われるけれど、私はぴんときたことがない。視野が広がるなんて嘘。自分の視野がどれだけ狭いか気づいて、気づいて、気づいて、うんざりするほどその視野の狭さを実感することの、繰り返しでしかない。

広がるのは視野じゃなくて、頭の中の白地図という名をした、空白。

 

だから人は空を見上げるんだろう。どこにいたって、どんなに高いビルや天井に囲まれていたって、見上げれば空の欠片くらい見つけられるから。

自分がどれくらいちっぽけで、「瞬き一つの間の一生」を生きているかをすぐ

忘れてしまうくらい、愚かな生きものなのだから。

 

 

 

 

 

 

 

【旅行エッセイ】 北欧の、夏じかん。

夜が、みじかい。
11時くらいにやっとくらくなったと思いきや、早日付が変わった3時には朝がやって来る。

あんなに冬の夜長にうんざりしていたのに、眠りが浅くなって夜が恋しく思えるのだから、つくづく人って(それとも私だけ?)って勝手だ。

北欧、デンマークスウェーデンにやってきた。肌寒いほど涼しくて、真夏に帰国する自分がすごおおく馬鹿らしく思えてくる。このまま一夏をここで過ごせたら、きっと私は夏に恋をする。



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ストックホルム、水辺の街。アフターファイブになるとレストランやカフェが混雑し始める。スーツ姿のまま、片手にグラス。束の間の夏を少しでも味わおうとするのか、皆オープンテラスで語り合う。公園には家族連れ。休日でもないのに、そこはさながらピクニック会場。噴水で、小さな男の子がすっぽんぽんで泳ぎ回っている。お父さんは時折気にかけるように、その子に視線をそそぐ。

きっと、ここの人たちは世界一夏の楽しみ方を、知っているのだ。



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シンプルなストーリーの細部に宿るもの。「フラニーとズーイ」と「たまこラブストーリー」

友人の万葉ちゃんがサリンジャーの「フラニーとズーイ」についてつぶやいていたので、私も再読したくなって手に取った。

 

 

読むのは2回目。私はそんなに読むのが速い方ではないんですが、再読ということもあり一気に読んでしまった。

村上春樹が後書き、というか本に差し込まれた文章で触れていたのだけれど、ぐいぐい引き込む文体なんですね。

話してるのは主に抽象的な宗教的談話で決して読みやすくないのに、話し手ズーイ(25歳の美青年)の口にのると、ギアチェンジしたかのようにすいーっと進んでしまう。理解したにせよ、理解していないにせよ。

 

フラニーとズーイ」についてさらっと語れる技量を私は持ち合わせていないのですが、あらすじ、というかストーリーの流れをざっくり言うと、「お兄ちゃんが妹を救う話」。これだけ書くとなんだか萌え系みたいですね。

 

周囲の人間のエゴにうんざりし、そして自分もそんなエゴを持ち合わせていることに絶望して内に閉じこもり宗教に救いを求めようとするのが妹の女子大生フラニー。「ライ麦畑でつかまえて」もそうですが、サリンジャーはこう、だれもが一度は経験するものを掬いあげるのが本当に上手いなあと思います。

出世欲だとか、誰かに認められたい承認欲求だとかそういうのを見て、物事を純粋に突きつめる人はいないのかとうんざりし、でも自分だってそんな欲求から決して決別できてなどいない…あれ、これ自分のこと?なんてなってしまいます(私だけ、じゃないはず…)。

 

そんなフラニーを怒涛の気の利いた会話で救うのが兄のズーイなんですが、会話と書いたように、そう、この小説時間にすると多分数時間、出てくる場所もほぼグラス家のみという、動きという動きがなく、とてもあっさりしている。会話も母とズーイ、ズーイとフラニーの間のものが大よそを占める。

物語はズーイが「太ったおばさんのために靴を磨くんだよ」と言うところでフラニーが閉じこもっていた殻が破られ、クライマックスを迎えるんですが、そこまでの過程ーズーイと母の言い合い、ズーイとフラニーの極めて宗教くさい会話や子供時代、兄たちの話ーと言った細部の積み重ねがないと、ここまでたどり着くことはできません。

そう、そこだけ見せたって意味を持たないんですね。私は上記で「太ったおばさん」だけを取り上げましたが、ここだけ取り上げると何のこと?となってしまう。

 

★★★

ストーリー的にはシンプルだからこそ、細部に意識が向くし、テーマは普遍性を帯びてくる。というかメッセージやテーマは普遍的であればあるほど、シンプルなものになっていくんじゃないか。

 とすると、後はそれをどう表現するか。何を表現するかではなく、どう表現するかが重要になってくる。

 

愛が大切、平和が大事、家族や友情は尊いなんて言われてもそんな当たり前のことわざわざ言われなくてもわかっているし、そしてそれだけを伝えるだけならまわりくどい物語、という手法を取らなくてもいい。

でもわかりきったことそれだけををぽん、と手の盆にのせられても、全然それは実感を伴わないし説得力もない。

じゃあ実感や説得力はどこからやってくるのかというと、それは具体的な顔をもった人が織りなす物語であり、その具体性は細部によってできている、と私は思っています。

そう、大学受験や就職活動や転職活動の志望理由に、具体的なエピソードが求められるように。 

 

★★★

全然ジャンルも時代も違うのですが、私が好きなアニメーション映画に「たまこラブストーリー」があります。タイトルからしてシンプルなその中身は、「幼馴染の男の子に告白された女の子が返事をするまでの話」。

 


映画『たまこラブストーリー』予告編

 

高校生の割には「母性」のようなものを強く感じさせる女の子・たまこが、幼馴染の告白をきっかけにどう変わっていくのか。「特別な想い」を受け入れるために、恐れていた変化へとどうやって一歩踏み出すようになるのか、それをひたすら丁寧に描いています。台詞で描くというよりは、瞳の揺れや足の動き、ずらした視線や風にたなびく髪といった、些細なことの積み重ねでできている。

 

★★★

ストーリーがシンプルだと一見地味、というか衝撃は少ないのですが、後からじわじわ来て、何度も読みたくなる、見返したくなる。それは細部が効いているからだと思います。次どうなるのかなんとなく予想がついたり、結末を予期できるからこそ、細部を楽しむ余裕が出てくる。そして細部を味わうのには、時間が必要とされる。

 

あらゆる作品にそれに連なる系譜やオマージュがあるように、テーマが同じでもどう表現するかが違う作品は古今東西たくさんあります。

最近私は過去の作品ー古典的作品ーだけじゃなくて、同時代の作品も評価していかなくちゃなあなんて思っているのですが、それはたとえテーマやメッセージが同じだとしても、伝え方が違うだけで、受け手に響くかどうか、というのも全く変わってくるからだと思います。

作品が多種多様なのは、どんな作品がその人の中にまで食い込んでくるのかという問題が、限りなく個別的であるから。

「言ってること同じじゃん」だとしても、作品一つ一つはそれぞれ別個の、個人の物語であり、それを味わう受け手も、その人しか持ちえない文脈と物語を持っている。

どの「架空の物語」と、自分の「実際的な物語」が響き合うのかは、一般化できないはずだから。

 

★★★

ちなみに「フラニーとズーイ」で個人的に印象的だったシーンはこちら。

「なんで結婚しないんだい?」

「僕は列車に乗って旅行をするのがとても好きなんだ。結婚すると窓際の席に座れなくなってしまう」

 

フラニーとズーイ」(村上春樹訳・新潮文庫) P.155

 

母に尋ねられて答えたズーイの台詞。

うーん私が今まで聞いた結婚に対するエクスキューズの中で、最も気が利いたものなんじゃないだろうか。

誰が窓際に座るのか、というのは家族内におけるけっこう普遍的な問題だということに気がつきました。(因みに我が家では母及び末っ子が窓際優先権を有しています。これは一般的かなあと思ってるのですが、いかがしょうか。)

 

このズーイのエクスキューズが人口に膾炙するころには、もう少し結婚に関するあれやこれやという問題が和らいでる…はず。

 

★★★

フラニーとズーイ (新潮文庫)

フラニーとズーイ (新潮文庫)

 

 

 

 

 

 

【旅行エッセイ】 ただ、そこに存在している。ブルガリアの教会

前回の旅行:

chikichiki303.hatenablog.com

 

マケドニアからバスで国境を越え、ブルガリアの首都ソフィアへ。

ところでブルガリアって、知名度抜群だけど行った人が少ない国ランキングをつくったらきっと上位に食い込むと思う。

 

ブルガリアと言えばヨーグルト。ということでヨーグルトスープと、飲むヨーグルトに手を出しました。飲むヨーグルトはともかく、ヨーグルトスープはレストランの前菜メニューに載ってたので、きっとヨーグルトがベースのアレンジされたスープなんだわ、どんな味かしらとわくわくしてたんだけれど、出てきたのは飲むヨーグルトと全く同じで、それにスプーンがついてきただけでした。あれ、拍子抜け。

 

まあでもブルガリア=ヨーグルトというのはこちらの勝手な方程式でしかないみたいで、ブルガリアの国民としてはバラをおしているみたいです。確かにお土産屋さんには、バラの香水バラのハンドクリームバラのハンカチバラのはちみつ(!)と、バラずくし。ソフィアじゃないけれど、バラ祭りなるものも行われている模様。

 

まあでも、ソフィアの旅のハイライトはヨーグルトでもバラでもなくて、教会だったんですけれどね。

 

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ブルガリアブルガリア正教、ということで東方教会。(写真はロシア正教の教会ですが)

東方教会といえば、そう、イコン。教会のそばにあるイコン博物館にも行ってきたので、目にするのはしゃちほこばった、聖母マリアと子イエス。イコンイコンイコン。

イコンってすごくぎこちないんですね。平面的だし表情ないし、身体はぎこちなく固そうだし、みんな同じポーズだし。だから最初は見てるこっちもぎくしゃくするんですが、大量に見ているうちに見慣れてきたのか、気付いたらすーっとした静けさに包まれた。

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そこには遠近法とか、ルーベンスの絵みたいな派手な動きは一切見られなくて、彼らはただ、そこに存在しています。なんだろう、イコンをたくさん見ていると、そういった画面の奥行やら動きやらが余計なものに感じられてくる。ただそこに描かれているからこそ、存在することの重み、みたいなものがひしひしと伝わってきました。

 

ブルガリアではないんですが、テッサロニキにはビザンチン文化博物館があって、そこではイコンだけじゃなくてモザイク画も見れます。

 

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美術館の標識がさりげなくモザイク。こういう細部への遊び心でその美術館の印象が一気に跳ね上がります。

 

東方教会ってどうもぱっとしないなあなんて私は勝手に思ってたのですが、東欧に行ってイメージはがらっと変わりました。あと旅行で抱いた印象にすぎないと言えばすぎないのですが、結構地元の人が熱心にお祈りしているところが多かったです、東方教会

祈りの仕方もカトリックプロテスタントと違うのか、十字架をきったあと、イコンに顔を近づけてキスするんですよね。初めて見たときはちょっとびっくりしましたが、世界にはいろんな祈りの仕方があるものです。物理的な距離が近いと、神様の存在を精神的にも身近に感じるような気がするからかな。

 

★★★

chikichiki303.hatenablog.com

 

今回の旅行はギリシャマケドニアブルガリアとまわったのですが、私が暮らすドイツ圏とは勝手が違うので疲れる旅でした。空気は汚く、街はごちゃごちゃ、バスの椅子は固く、ブルガリアではなぜか改札のシステムが左右逆(左手で切符を入れて右手で改札のバーをおす)で入れないと言ったらおばちゃんにきれられ、とまあたいしたことないことの積み重ねで旅行的疲労はたまっていくものですが、終わってみるとそれが懐かしく思えるもの。

留学に来る前は「ヨーロッパ」とひとくくりにされていた白地図が、いろんなところに赴くことによって少しずつ色味を帯び、多彩なものになってくる。そしてそれは、ガイドブック的観光名所じゃなくて、上記に述べたような些細な具体的な疲労を帯びた事実によって色付いていく。

 

疲れるのにそれでもまた旅行に出たくなるのは、そんなざらついた手触りのある具体的事実の感触を掴みたい、それを通して自分が知らない世界を垣間見たい、からかもしれません。

 

あなたが旅に出たくなるのは、どんなときですか?

 

 

 

 

 

【旅行エッセイ】 キッチュな街、スコピエ。

テッサロニキからバスで北上して、マケドニアスコピエに向かう。 

 
マケドニアに入ってからは、ひたすら山道。首都スコピエも背後に高い山がそびえている。山に囲まれた景色にほっとするのは、おばあちゃんちの景色に似ているからかな。 
 
スコピエは1963年に大きな地震があって、その後の都市計画は日本人の丹下健三がたてたんだよと開口早々にairbnbのホストが教えてくれました。  
でも計画通りに行ったのはその内の30%みたいで、だから今この街はとってもキッチュ。計画通りに行ってたら今頃スコピエはリトルトーキョーだったのに、やれやれ。とのこと。 
 
リトルトーキョー?キッチュ?と事前情報をいただいたので、わくわくしながら街へくりだしました。 
 
街を歩いていて東京のとの字も浮かばなかったけど、キッチュなのは確かかもしれない。  
なんだろう、こうちぐはぐなんですね。大きすぎる銅像、やたら新しいヨーロッパ風の建物、かと思えば手を付けていないようなビル。 
 

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でも前の記事で書いたスロバキアブラチスラバも同じようにごちゃごちゃしてたのに、そちらはちぐはぐな感じはしなかった。 
 きっとスコピエ銅像とか、新しすぎるヨーロッパ風建物とか、「つくりました感」がありすぎるのかもしれない。 
生活感がないと言い換えてもいいかもしれません。 
そういえばすごく気に入ったリスボンは生活感に満ち満ちたわけで、私は生活感が漂う街に惹かれるのかなあとぼんやりと思う。
なんだろう、生活がある街にはどっしりとした質感が横たわっている。決して綺麗じゃない路地裏に、死を含んだ生の香りが漂う。人の気配にほっとし、同時に見えない人影に不安になる。私の知らない人の物語が一本一本網目になって街を包み込んでいる。
綺麗じゃない街は、でもいつも美しい。
 
一方つくりました感満載のスコピエ的ちぐはぐさを面白い、と思うのもまた事実で。 スコピエは「あと一声、いや三声!」と妙に応援したくなる街でした。 
 
 ★★★ 
 
スコピエマケドニアの人口の3分の1が住んでいるのに、とってもこぢんまりした街。 
半日と経たずに市内観光が終わってしまったので、スコピエの観光ランキング一位の湖に向かう。 
こちらはちぐはぐな感じはせず、れっきとした観光名所。
 

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帰りのバスは45分遅れで来て、14人が待ったバスのドアは開いたまま走りつづけた。
 
スコピエのバスの運転手はドアの開閉を待てないまま、停まりそして走り出します。
ルーズなのか、せっかちなのか。こういうところに市民生?国民性?が出たりして、なんて思い、私のマケドニアに対するイメージとなってしまいました。
 
次に向かうは、ブルガリア