【Webエッセイ】本の匂いにつつまれて
私の大学の図書館は主に地下に書架があって、階段をとんとん降りて地下二階に行くと、ふわ~と本の匂いが鼻をくすぐる。その瞬間私はなんだかくすぐったい気持ちになる。つんとした古い、紙の匂い。
ドイツに留学してたときの授業のない時間は、大体学校の図書館に行っていた。ドイツ人とドイツ語に囲まれた授業が終わった後図書館に入ると、ほっとしていたのを思い出す。ここでは誰も私も傷つけるものはない―大げさだけれど、そういう表現が当てはまるような安心感だった。本の背表紙にずらっと囲まれていると、圧迫感を感じる人もいるだろうけれど、私は守られているなんていう安心感を抱いてしまう。
でも書いたけれど、そういう安心できる場所、自分の家以外に安心できる場所があるって大事だ。今風の言葉(って言い方が今風ではないけれど)だとサードプレイスって言うんだろうか。私の場合はたぶん図書館か本屋、まあつまり本に囲まれた空間である。
図書館は安心できるだけじゃなくて、集中できる場所でもある。いい意味で俗世間から離れたような大学の図書館の背表紙(「パフォーマンスの美学」とか「在と不在のパラドックス」とか「カフカの手紙」とか)を見ていると、目線が遠くなって私はけっこう楽になる。これは新刊がばんばん入ってくる、時代とともに走っている書店にはない良さである。
サードプレイスとか居場所とか言うとなんだか難しそうというか見つけるのが大変そうだけれど、要はほっとできる場所のことだ。そういう場所、持てるだけじゃなくて、つくりたいななんて思ったりする。「静かな声が聴こえる」場所を。
【Webエッセイ】走ることのドラマ性
ハチ公のハリウッド映画版を見た。そう、たぶん日本一有名なあの犬についての映画である。結構ハチ公の視点で描かれているからか、素直に見て思わず泣いてしまった。何と言ってもハチ公が迷いなく飼い主であるリチャードギア(役名忘れた)のもとに走って行くのがいい。
大人になってからとんと走らなくなった。約束に遅れそうなときか、電車が来てるときくらいしか走っていない。情けないかぎりである。身体も重くなっているから走るときもどたどたと騒がしい。情けないかぎりである。
しっぽを振りながら一目散に走っていく映画のハチ公(ところでどうやって犬を撮影するんだろう)を見て、ドラマチックだなあと感じた。あれ、ハチ公が歩いてリチャードギアを追いかけたり、リチャードギアを迎えに行ったりしてたら、あんなに泣けなかっただろう。走るって、かなり感情を現す人間、いやこの場合は動物の行動みたいである。
今年は今までよりよくアニメを見たんだけれど、アニメの主人公って大体が高校生だ。青春、友情、恋、部活、彼らは走る、走る。前回書いた映画「たまこラブストーリー」でも、最後にたまこは走る、走る。
何で人は走るんだろう。焦り、不安、恋しい想い、悔しさ、心配、嬉しさ、悲しさ。感情があふれ出して、人を突き動かす。走りたくなるというより、感情に足が突き動かされる。感情があふれ出して立ち止まっていると苦しいから、身体を動かして発散させる。どきどきした心臓が身体を突き抜けて飛び出していきそうだから、そうしまいと必死に身体も、前へと動かす。
走る描写とか演出ってベタだなあとか思いつつ、でもやっぱり私たちの心をうつものがある。走ることでしか表現できない想いがあるから。
私が好きな走る描写は、「聲の形」「たまこラブストーリー」をやっている山田監督の(すっかりファン)「響けユーフォニアム」というアニメで、主人公が悔しくて悔しくて走り出すシーン。吹奏楽部でユーフォニアムが上手く吹けなくて「悔しくて死にそう」という気持ちに気付くんだけれど、彼女が走り出すシーンはその悔しさにこちらまで胸が苦しくなってくる。
でも走り出さずにはいられないほど悔しいってそれだけ何かに懸けてたってことだから、すごく希望に満ちたシーンでもあった。走る、走る、走る。走るシーンだけを集めた映画特集みたいなのってないのかな。
走ることについて書いていたら、何だか走りたくなってきた。でもランニングとは、また違うんだよね。思わず走りたくなったら、それは後から振り返ると尊い時間なんだきっと。
変化への、一歩を。「たまこラブストーリー」映画感想/考察
不安、不安、不安。何が不安かって言うより、不安というその感情自体がキライ。
今の時代は、先行きが不透明で不安になりやすい時代だと言われています。先行きが不透明ということは、この先どうなるかわからないと言うこと。つまり、今までと同じじゃなくて、変化していくということ。
そう、変化が不安を呼び起こすのです。
変化そのものが怖い、というのは人間の普遍的な感情で、私もご多分に漏れずそのうちの一人です。これまでだって環境が変わったことなんてたくさんあって、その度になんとかやってきたはずなのに、それでもやっぱり変化する手前って、怖いんですよね。
そんな変化が怖いなあってときに、見たくなる作品があります。それがアニメーション映画の「たまこラブストーリー」。この作品については以前少し触れましたが、詳しくは触れていないので今日はたまこラブストーリーのどこがそんなに好きなのか語っていきたいと思います。あらすじは下の記事で説明しています。
ちなみに同じ監督の作品は、この秋公開された「聲の形」。
あとからじわじわくる作品
高校生のたまこが、幼馴染のもち蔵(最初二人の名前ギャグかと思った)に告白されて、彼を意識し始めて返事をする、というど直球なお話。だから初見はふーんというか、さらっと見てしまった。でもなぜか、後からじわじわくるというか、見返したくなったんですよね。なんでだろうと思って書いているのが、この記事であったりもします。
タイトルからいくとたまこともち蔵をめぐる恋物語なのですが、私はこの映画を成長物語として見ています。もちろん物語において主人公が全く成長しなかったり、変化しなかったりというものの方が少ないかとは思いますが、この映画は特に主人公の成長を丁寧に描いています。
たまこが年相応になるために変化する物語、なんですね。
たまこラブストーリーは、元の作品「たまこまーけっと」があって、そちらを見ればよりわかるようにはなっていますが、たまこには母親がいません。小さいときに亡くなってしまったのです。母亡き後、母親役をつとめるのがたまこという女の子なんです。
映画冒頭では、そういうたまこの「アンバランス」なところが上手に描かれている。商店街で買い物して、ごはんつくって、お店のお手伝いして、新作のお餅づくり(たまこの家はお餅やさん)に余念がなくて…と、高校生とは思えないくらいの働きぶりや、成熟したところがあります。優しくて、どこか目線が遠い。
そんな母性溢れるかんじかと思いきや、性のこととかにすごく無頓着。思春期の頃にあるひねくれたところや、うがったところ、不安や揺らぎ、陰りみたいなところを一切感じません。一方ですごく子供っぽいんですよね。
映画ではそんなたまこが幼馴染のもち蔵の告白をきっかけにして、年相応に成長する(させられる)物語。たまこはもち蔵に告白される前、あったかくて、ふわふわしていて、柔らかくて、みんなを幸せにする、そんなお母さんになりたいと言っています。つまり、母親役じゃなくて、亡きお母さんのようになりたいと焦っている。でも成長の過程をすっとばしても、お母さんみたいにはなれないわけで。「もち蔵ショック」じゃないけれど、告白をきっかけとして年相応に恋に悩み、将来に不安を覚え、変化することにとまどいを覚えます。
映画において、たまこはもち蔵の気持ちに答えることで何らかの変化が訪れることを恐れます。それは、お母さんが亡くなったときに、日常が変わってしまうことの恐怖を経験したからで、以来たまこはずっと商店街の日常を守ってきました。「たまこまーけっと」はいわゆる日常系アニメですが、たまこ的世界(うさぎ山商店街)では変わらないこと、今の日常を守ることが「善」なのです。
変化を恐れるたまこが、変化を迫られ、どう変わっていくのか。この映画はそれにつきるでしょう。自分が望んだはずの変化ですら、いざ目の前にやってくると怖くなります。
たまこも映画の中で、妹のあんこに、「あんこはさ、変わるの怖い?急に今までとちがう世界になっちゃうようなかんじ」と聞いています。
たまこと母親の関係
ではそんなたまこが変わることへと踏み出すきっかけは、何なのでしょうか。
それは、たまこのお母さんです。
そういえば、自分のお母さんって生まれたときからお母さんって感じがしません?私も小さい頃は特にそうでした。私も自分が母になりうる年齢に近づくにつれ、お母さんも、最初からお母さんではなく、お母さんになっていったんだ、とまあそんな当たり前のことがやっと腑に落ちました。
たまこは偶然、高校生のときのお母さんがお父さんにあてたメッセージ(告白への返事)を聞くことになるのですが、これが、たまこが変わることを受け入れるきっかけとなりました。たまこはこのとき、「お母さんの代わり」から、「等身大のたまこ」へと変わろうと決意したんだと思います。それは、お母さんにも自分と似たような時期(告白されて思わず逃げてしまうような時期)があったと気づいたからでもあります。お母さんがつくっていた日常を壊す=抜け出すという構図は、親離れという構図でもあります。
うさぎ山商店街の喫茶店のマスターが、「若さとは急ぐこと。スプーン一杯の砂糖が溶けるのも、待てないくらい。」と言いますが、たまこはある意味焦っていたんじゃないでしょうか。お母さんみたいになりたい、と。でも母の代役のままでは、お母さんにはなれないんですね。焦らず成長していかないと、一見面倒くさい過程を経ないといけない。変化しないといけない。
焦って変化の過程をすっ飛ばそうとするのと、変化を恐れて動かない、というのは、違うように見えて実はコインの裏表なのかもしれません。変化は怖いけれど、どんな小さな変化でも一歩踏み出す、そんな普遍的な勇気を、この映画は感じさせてくれます。
ところで、どうしてたまこの成長、変化を描くのに恋愛が設定されたのでしょうか。誰かと始めて付き合う、というのは高校生らしい変化でもある。というのと、あとは、たまこが進路で悩めないからでしょう。餅やを継ぐと決めているたまこには、進路において決定的に変化するチャンスが与えられません。だからこそ、恋愛が設定されたのだと。
この映画におけるたまこの成長とは、(もち蔵の)想いを受け取ること。それはたまこの部活であるバトン、そしてもち蔵としている糸電話をキャッチすることという二つのものを通じて表現されています。一方裏側?の成長は、たまこが母親の代わりであることをやめて、たまことして生きること、です。
お母さんが高校生だったときのメッセージを聞いて、たまこは変化へと踏み出していきますが、その直後の画面が真っ暗、暗転します。たまこが新たなところへ行くということの演出でもありますね。
日常を守る映画が「たまこまーけっと」だとすれば、日常を壊す映画が「たまこラブストーリー」。この二つはセットで見るときれいな対比になっています。
画面の余白
この映画は絵がきれいというか、構図がきれい。そして文字通り、画面の余白が多い映画です。人物が真ん中に、真正面に全部写ることが少ない。右端や画面の下の方に人物が映ると、画面の余白が大きいですよね。そして、この映画台詞が多いように見えて、肝心の部分はあんまり語られていない。画面の余白も、台詞の余白も多い映画なんです。
でも人物にフォーカスが当たっていて、つまり背景がぼやけていて、あと画面のはじの方も黒っぽい。余白の多い映画は、まあ個人的な好みかもしれませんが、美しいです。足だけ、手だけうつる描写も多い。それで人物の思いを伝えるっていう演出も好きです。あと、もち蔵がたまこに「あの告白は忘れてくれ」というシーンは、二人は同じ画面に映ることがありません。二人が同じ場所、気持ちにいないという演出だと思います。
そういえば、山田尚子監督が影響を受けた監督の中に小津安二郎が挙げられています。画面や台詞の余白から人物の関係性を描いているという点で、共通しているなあと感じました。
アニメはちょっと...と思わずに、騙されたと思って一度見てみてほしい作品です。良い意味で実写っぽくて、私のアニメに対する苦手意識、みたいなものを一気に吹き飛ばしてくれた作品でもあります。
そういえば映画の細かい演出などの考察は、ここを読めばすべて載っている!くらいにまとまっているサイトがあります。私も楽しませてもらいました。
★★★
すぐそばに、あるもの。生死をめぐる「海街diary」漫画考察(&「ノルウェイの森」)
漫画のレビューが続きます。今回取り上げるのは、吉田秋生「海街diary」。
「死」はどこにある
綾瀬はるかや広瀬すずらが主演の映画作品もあるから、知ってる人も多そうな作品。映画は「かもめ食堂」や無印良品、オーガニック野菜などと相性よさそうなものに仕上がってましたが、漫画の方が家族関係をもっとどろどろ描いていたり、古典的なギャグ描写があったりと濃いです。
主人公は、鎌倉に住む4姉妹。彼女たちを中心に、家族や地域社会、仕事や恋愛、部活と言った誰もが通る普遍的な問題を描いています。その中でもけっこう描かれているのが、人の生死。4姉妹の父の死を発端とした物語は、姉妹の長女幸が看護師をやっていることもあり、この物語を貫いているテーマでもあります。
最新刊の7巻では、次女佳乃の上司にまつわる生死の話が出てきます。勤め先の銀行で借金を抱えた人のために奔走し、なんとか返済のめどがたち、感謝された。なのに、その矢先に、ふっと自分から死なれてしまう。返済のめどがたって、さあこれからというときだったのに、なぜーという疑問を抱え込んでしまった上司(であり好きな人)に、佳乃は言います。
「死は生きることの先にあるのではなく、影みたいにいつもそばにある」と。
朝起きたときはそんなこと思ってなかったけれど、たまたま線路の前に行ったとき、ふっと影が濃くなった。
「ノルウェイの森」との関連
私はこれを読んで、村上春樹の「ノルウェイの森」を思い出しました。冒頭部、「僕」の回想の中でも、太字で強調されている「死は生の対極としてではなく、その一部として存在している」という、あの言葉を。
周りの人に自ら死なれてしまったとき、問いざるをえない「なぜ」。でも死ぬことがいつも生きることのそばにあるんだったら、ふっとあちら側に行ってしまうことも、起こり得る。
それは一つの真理であり、また残された人がその人の死を受けとめるための、一つの知恵であるのだろう。
★★★
ドイツに行っていた間、たくさんのテロが起こった。パリ、ベルギー、ニース、ミュンヘン、ぱっと浮かぶものだけでもこれくらいはある。人はいつ死ぬかわからないという当たり前のことを、初めて肌が知ったときだった。「死」はありありと、すぐ手の届くところにあった。
「すぐそば」に、「すぐ隣」にあることは怖いことなんじゃなくて、当たり前のことだった。だからこそ、この「海街diary」の言葉は、ある意味勇気づけてくれる言葉でもあるのかもしれない。
★★★
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食卓は、家族の象徴で。「Bread&Butter」漫画感想と考察(ネタバレ有)
最近、ごはん漫画?グルメ漫画?って多いですよね。TSUTAYAの漫画にも、グルメ漫画コーナーって言って一角できているし。
私は現実世界では全然グルメではないけれど、食に関する文章は好きで、そちらの方が食指が動く。というわけで、グルメ漫画にも手を伸ばしてみた。
手に取ったのは芦原妃名子の「Bread&Butter」。ついこの間5巻が出ました(以下、ネタバレはあらすじに書かれていたり、本筋でないもののみになっています)。
かの有名な「砂時計」の作者で、私もかつて「砂時計」が好きだったので彼女の最新作を手に取ってみました。ちなみに「砂時計」については前に触れています。
家族とごはん
「砂時計」や「piece」と大きく変わっている作品。主人公は女子高生じゃなくて30代半ばの女性だし、テーマもだから仕事や結婚が出てくる。かつての作品ほど過去志向で重くはなくて、パンをきっかけに紡がれていく、主人公の周りにいる人の物語。
主人公の柚季はひょんなことからパンをつくっている洋一にプロポーズ。パンが人を繋いでいくから、読む方もほんわかした気持ちになります。やっぱりごはん、食べ物って、ささくれだった心の棘を取ってくれる。山型食パン、パン・オ・ショコラ、シュトレン、バゲット...いつの時代も、どんな時も、人と人との間を繋いでくれる。
でもほんわかパングルメだけじゃないのが、芦原妃名子。彼女の過去作品がそうだったように、様々な家族がここでも描かれます。ごはんを作ってくれず、その後絶縁状態にあった父と息子、同じくごはんは作らず、家もごちゃごちゃのままな母と娘、三食健康的な食事が出てくるのに、関係は冷え切っている夫婦とその娘、などなど。
生死が関わるほどの問題は出てこない分、どこかそのへんにいそうな夫婦関係、親子関係が出てくるからこそ、どこか背中がぞっとします。
人間関係を巧みに表す演出
ただのほんわかグルメ漫画じゃないのは、そういった家族関係の演出?描写?に拠っています。食卓に並べられたごはんを囲む、笑顔のお父さんお母さん子どもというのを、背景を真っ黒、人物を白抜きで描くことで、ああこの家族は演じてるんだな、幻想なんだな、ということが一目でわかります。
「この人と結婚することで、少なくとも周りからは幸せに見えると思った」という台詞は4巻あたりで出てきますが、こういうの、自分だってどっかでしてるんじゃないかなと思ってぞわぞわします。幸せって自分で決めるもんだって頭ではわかっているのに、どっかで「幸せって思われたい」って思ってる、それ、捨てきれないーなんて、登場人物の細かい台詞がいちいち自分に跳ね返ってくる。
芦原妃名子は、多くの人が持っている、普段は見ないようにしている些細な感情を掬い上げるのが本当に上手い。そして家族というテーマを扱う作者にとっては、グルメ漫画とは相性がいい。
家族になって、最も一緒にするようになることって、家の食卓を囲むことだと思うんですよね。目玉焼きにはソースをかける、焼きそばは大皿で真ん中にどんと出す、お味噌汁の具はたっぷり、などなど、食卓に一番その家族の個性だって出る。インスタント焼きそばばかり出る食卓も、三食出汁がきちんととってあって塩分控えめな味噌汁が出る食卓も、それぞれ何かしらの問題は抱えているわけで。その問題に向き合って、ほぐしていくのが、柚季たちが焼くパンの役割です。家族を描くときに、その象徴である食卓に焦点を当てるのは、だからなのか...と納得する次第です。
というわけで、ほんわかパン漫画だ~と思って手に取ると、思ったより胸が痛む漫画なのでお気を付けください。特に結婚した人とか、結婚する予定の人にとっては。でもオムニバス形式というか、比較的短いスパンで解決というか、希望が見える終わり方になっているので、そういった意味では読みやすいです。かの有名な「タラレバ娘」は怖くて読めない...という方にはおすすめです(かく言う私も怖くて途中で挫折した)。
そして私はこの漫画を読んで、今度パンを作りに行くことになりました。本当にごはん活字に弱いようです。パンの発酵を待つ柚季が「待つ」ことについて語っていて、それがよかったんです。
「レッドタートル」映画考察-あなただけのために、存在する映画
映画レッドタートル鑑賞。本当に台詞が無かった。誰が見てもわかる話で、それをそのまま受け取るのかそうじゃないのか、受け取り方をすごく考えさせられる作品。静かで美しい映画のはずなのに、どこかぞっとするほど不気味なのはなぜだろう。観客に委ねられているという点ですごく芸術的な作品でした。
— 沙妃 (chikichiki303) (@sophieagermany) October 13, 2016
レッドタートル、見てきました。一応ジブリ作品なのにびっくりするくらい?話題になっていないみたいで。ヒットしている「君の名は。」とは対照的な、静かで地味な映画だからでしょうか。それもそのはず、何となくは聞いていたけれど、本当に台詞が一つもなかった。見終わった後、どう捉えていいか何とも考えてしまう映画でした。でもあえてこの映画は、他の考察やレビューを全く見ない上で書いていきたいと思います。
(※ネタバレ含みます。が、シンプルなストーリーだし解釈も多様なのでネタバレしても、というか知ってからの方が楽しめる映画かもしれません。)
見たままなのか、その奥があるのか
無人島に流れ着いた男(名前すらない)が、その島でレッドタートルと出会い、生きていく物語。映画の前半は、男はいかだを作って何度も島を脱出しようと試みます。でもなぜだか、毎回いかだが壊れる。そんなとき現れた赤い亀、レッドタートル。いかだが壊れたのはレッドタートルの仕業だと思った男は、懲らしめます。死んだかと思いきや、そこには人間の女の姿が。男は島の外に出るのを諦め、島で女と生きていく決心をします。月日は流れ、彼らには一人息子も出き、三人で仲良く暮らします。津波に襲われたり、息子が島から出ていくのを見送ったりしながら、彼はやがてゆっくりと老いていき、人生の幕を閉じる。女は彼を看取ったあと、再び亀の姿で海へと帰ってゆく。
台詞がなくても、登場人物は少ないし、場所は同じだし、動きや表情も簡素なので物語についていくことは容易でした。でも容易だからこそ、そのまま物語を受け取ればいいのか、その奥に行けばいいのか、わからない。わからないからこそ、ずっと考えてしまう。そういう意味でとても受け手に委ねられている作品です。
物語がシンプルかつ、台詞がないので、解釈は幅広い。私はというと、そのまんまと言えばそのまんまなのですが、人の一生を感じました。主人公?である男は、ある日突然嵐に遭って、無人島にやってきます。そしてそこで死ぬまで過ごします。私たちもこの地球に、ある日突然放り込まれるような形で、やってきます。なぜ生まれてきたのか何のために生きているのかよくわからないまま、それでも毎日あくせく働いたり、誰かを想って泣いたり笑ったりしながら一生を終えます。映画の男がなぜ船に乗っていたのか、どこに向かおうとしていたのか、どうやって無人島にたどり着いたのか、それらは一切語られないし、明かされません。でも彼は生きるために日々、魚を採ったり木の実を集めたり寝床をつくったりします。訳がわからないまま、それでも生きようとし、そして訳がわからないまま死ぬ。一見不条理な、全く訳のわからない人間の生を、この映画はそれでも温かく、丁寧に紡ぎ出していると思いました。
ある種の不気味さ
このように「レッドタートル」は島での家族の営みを丁寧に描きだしていますが、私は同時に不気味さを感じました。まず、彼らの顔がすごく簡素なんですよね。文字通りの意味で、目鼻口が黒い点で描かれています。彼らを取り囲む無人島の自然や海、星空は丁寧に描かれているからこそ、その異様に簡素な顔が際立って見えます。
簡素な顔では、そこから感情を読み取るのも難しい。普段人間に囲まれて、というか特定の人たちに囲まれている私たちは、街路樹なんかより遥かに多い情報を、誰かの顔から読み取っています。この映画では、それが禁止されている。自然と私たちは、彼らの行動や、彼らにはたらきかける周りの自然に目が行きます。ある程度の都会で人間に囲まれて過ごしていると、まるで人間がこの世のすべてのように感じてしまうけれど(というか意識するのは人のことばっかりになってしまうけれど)、人間も自然の一部でしかない。その当たり前なんだけれど、普段忘れている事実を目の当たりにするからでしょうか、この映画の不気味さというのは。
そういえばフロイトの「不気味なもの」という本では、不気味なものは自分が知らない、得たいの知れないものじゃなくて、既に知っているけれど忘れているものが回帰してくるから、不気味なのである、と書いてあった気がする。「人間も自然の一部でしかない」という忘れている事実が回帰してきたから、この映画を「不気味」に思ったのかなと書いてて思います。
あと不気味だったのは、色合い。なんとなく月光に照らされた海岸が赤かったり、レッドタートルの赤色が淡い色合いの中で際立ったりして、どことなく不気味でした。赤って血や火を連想させるからか、すごく原始的で、それも普段見なかったり、忘れたりしているからかな。
解消されない謎
一見明快なストーリーなんですが、細かく見ていくとけっこう疑問点が残ります。なぜ亀は赤いのか。そもそも人間なのか、亀なのか。男のいかだはなぜ毎回壊れたのか、それはレッドタートルによる仕業だったのか。成長した息子は、なぜ島を出ていったのか。そもそも彼は人間だったのか、彼も亀なのか。女は男を看取った後、なぜ亀になり島を離れたのか。
などなど。私はこれらの謎にあまり納得いく答えを見つけられていません。見つけて納得するとすっきりするけれど、解決された謎って、忘れちゃうんですよね。だから解消されない謎がある映画は、その人の中に残る。また見たいと思わせる。そういう意味で、この映画は見た人の心に一石を投げる映画です。
台詞とかフクザツな表情とか人間関係とか、そういうのをそぎ落とした映画は、あなたに委ねられているんだと思います。すぐに見返したくはならないけれど、数年後、また見たくなる。あなたが変化した分だけ、この映画の意味も、変化していく。全く万人受けしないけれど、よくわからないけれど、そんな「居心地の悪い」映画もたまには見たく、なるものだから。