思考の道場

答えのない、問いのまわりをぐるぐると。

溜まっていくことでよさがわかるもの

クリスマスの季節がやってきますね。クリスマスといえば、数年前に「くるみ割り人形」のバレエを見に行きました。あの有名な童話の舞台です。クリスマスバレエの定番だそう。

 

私にとっては初のバレエ鑑賞でした。でも正直言って、つまらなかったんですね。まあ安い席で間近で見られなかったというのも大きいでしょうが、何を見たらいいのかいまいちわからず、そしてダンサーがジャンプして着地するときの「ダンッ」って音が気になって、というかそれが印象に残ってしまった鑑賞でした。

 

さてドイツに行って始めたことの一つに、オペラ鑑賞があります。日本じゃ手が出せないイメージがあったオペラが、トラムで数分行ったところに、しかも学生だと10ユーロで見れるのです。上手くいけば最前列で見れることも。これは行かない手はありません。

 

オペラハウスでは、定期的にバレエの講演が行われていました。私は先述した初バレエ鑑賞が上手くいかなかったので、最初のうちは行かないようにしていたのですが、知っている演目のバレエがあったので、ダメ元で見てみることに。

 

2回目見たときも、やっぱりどこを見ればいいかよくわかりませんでした。でも3回目か4回目に、比較的前の席で見ることができたんです。そうしたら、衝撃を受けました。バレエダンサーの指先の、なんと美しいこと。指先がまわりの空気をやわらかく振動させ、指先が空気に溶けていく。空気も身体も、もとは同じものでできているんだ、と思わせられる。バレエがこんなに快感をもたらすなんて、このとき初めて知りました。

 

私は美術館に行くのが好きなのですが、そもそも大学に入るまでは全くといっていいほどアート鑑賞なんてしませんでした。それがちょくちょく行くようになり、わからないからつまんないと思っていた現代アートも、今ではその「わからなさ」求めて見に行くようになりました。

 

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コップにそおっと水を入れていくと、あるところで水が溢れだします。何かの良さや面白さがわかるのって、この現象に似ているんじゃないか。思えば私が文章を好きなのも、小さいころから絵本を読んでもらっていて、活字にふれる環境が大きかったからなのかもしれません。

 

好きなことを見つけたい、趣味が欲しい。好きなことは、自分が生きていく上で支えになることだってあります。でも好きなことって、見つけようと思って見つかるものでもないんですよね。そして、1回ふれたからといって見つかるものでもない。

 

最初はつまらなくても、何回か接しているうちにその良さに気付く。それにはするめみたいな味わい深さがあります。逆に中毒性の高いもの、すぐにおもしろいと思えるものは、それが一時的になってしまうことも往々にしてあります。

 

息の長い趣味や好きなことを見つけたいんだったら、コップに水をためる時間も必要になる。私はこれが、まだ上手く言えないけれど教育や文化の発展に繋がっていると思っています。

 

 

簡単じゃないけれど、わかりやすい文章とは

 

多かれ少なかれ、書くのが好きな人はどのように文章を書くかというのに悩まれているに違いない。書くっていうのはそれほど、骨の折れることだ。私も仕事でも趣味でも本業でも何かしら書いているので、なんだかんだ「書く」ということについて考えている。

 

難しい内容を難しく書くのは簡単だ。卒論を書くときには難しいかんじのおかたい本を読みながら書くので、書いている内容もそれに合わせてかたくなる。先生はともかく、その専門じゃない友達に見せると「?」っていう顔をされることがある。

 

私はその度に、これじゃだめだなあと思う。論文はそれを専門とする人に読んでもらう傾向が強いけれど、私は専門へと進むわけじゃないのもあって、専門じゃない人にもわかるように書きたいと思っている。人文学を勉強していて、面白いけれどなんだか内向きというか、わかる人の中で閉じているかんじがしたからだ。

 

情報が簡単に手に入る世の中になった。でも、情報はそこにあっても、それを手に取る人がいるかどうかは、また別なのである。専門用語や難しい言葉を多用することで、それを解さない人を退けている情報はゴマンとある。

 

かといって、誰にでも伝わるように内容を薄くして簡単に書けばいいってものでもない。そこが文章の難しいところであり、同時に面白いところである。

 

専門用語は説明を付け加えること、他の言葉に置き換えること。専門の人には当たり前のことでも、論理の道筋を丁寧に描くこと。大事なことは繰り返し書くこと。具体例を挙げること。読んでくれる人を頭に思い浮かべること。

 

こうやって書くと、驚くほど当たり前で、フツーで、誰にでもできそうなのに、いざそれをしようとすると結構なエネルギーを使う。ついつい忘れてしまう。わかりやすい文章は、難しい文章よりもムズカシイのだ。

 

情理を尽くして、書く。文章は中身の入れ物でも、手段でもなく、伝えたいことそのものだから。

 

 

 

ハリポタファンは必見。父と子をめぐる物語―「ハリー・ポッターと呪いの子」感想/考察

ハリーポッター最新作、8番目の物語、「ハリー・ポッターと呪いの子」を読みました。脚本形式だしスピンオフというか、後日談というか、まあそんな期待してなかったんですが、読み進めるとぐいぐい魔法界へと引き込まれていきました。ハリーポッターを読んできた・見てきた人、ハリポタファンなら必見です。あんまりこんな言い方しないけれど、でも本当に読まなきゃ損です。

 

面白かった~だけで終わらせるにはもったいない小説(スクリプト)なので、以下印象に残ったところを書いていこうと思います。

主なテーマは、3組の父と子の関係性と、セドリック・ディゴリーの死の意味について。

思いっきりネタバレしているので、まだ読んでいない方はぜひ読んでから見てみてくださいね。脚本なので従来よりもさらっと読めます。

 

三組の父子とは?

読み終わってまず印象に残ったのは、父と子をめぐる話だったということ。この話には三組の父と子が出てくると思っています。一つはハリーと二番目の息子アルバス。二つ目はヴォルデモートとなんとびっくりその娘デルフィー。何でもベラトリックス・レストレンジとの子なのだとか...。そして三組目は、ダンブルドアとハリーだと思っています。

 

ハリーとアルバスは上手く行っていません。アルバスは、ハリーの息子として見られること、比べられることにプレッシャーを感じています。また、ハリーに認められたい、という想いを持っています。でもハリーは、上手くその想いをくみ取ってあげることができていない。大事は思っているものの、どうもぎくしゃくしてしまう。ちょうど思春期の子どもと親の関係のよう。

 

ヴォルデモートの娘デルフィーは、父に会ったことがありません。そんな父に会いたい一心で、(というと誇張表現かもしれませんが)、逆転時計で過去に戻り、ヴォルデモートに会おうとします

結局会うことはできないのですが、ヴォルデモートに扮したハリーと会話する中で、デルフィーがどれほど父に会いたく、そして認められたく思っているかがわかります。

 

さて、この二組の父子を見てふと思ったのが、ダンブルドアとハリーって父と息子みたいな関係だったんじゃないかということ。ハリーはダンブルドアを尊敬し、信頼し、時には恐れ、自分を頼ってくれない、何も教えてくれず命じることだけはすることに怒り...と、様々な態度を見せます。実の父親ジェームズよりも、名付け親シリウスよりも、ダンブルドアとの関係の方がたくさん描かれている。

7巻の「ホグワーツの戦い」で、ハリーが一度死んだとき、キングスクロス駅で出会うのはジェームズでもシリウスでもリリーでもなく、ダンブルドアなのです。

 

ハリーは今回の「呪いの子」において、アルバスとの関係を探りながら、実はダンブルドアとの関係性を振り返っているんじゃないか。それを踏まえてから、アルバスとの関係を築いていくんじゃないか。それが読み終わって私が思ったことです。

そういえば、アルバスの名前はダンブルドアから取ってつけられたんですよね。ハリーとの関係性が描かれるのが長男のジェームズではなく、このアルバスだというところにも、暗にダンブルドアとハリーの関係が意識されているんじゃないか...なんて思ってしまいます。

 

大人になったハリーの世界にはダンブルドアはいないのですが、肖像画を通じて、ハリーは今回もダンブルドアと話をしています。この話においてダンブルドアと話すのは2回。

一回目にハリーは、アルバスをどうしたら危険から救えるか、というのをダンブルドアに聞いています。ダンブルドアの答えは「ハリーはこの子(アルバス)への愛でものごとが見えなくなっている」(P.148)とのこと。

 

さて二回目に話すときに、ダンブルドアは、自分こそ「愛で目が曇っていた」と言います。ハリーは、アルバスを愛しているのにもかかわらず、愛のないところにおきざりにし、孤独にさせました。

ハリーはダンブルドアに、あなたも僕を同じようにしたー10年間もバーノン家のところに放っておいたーと責めます。(P.336)ダンブルドアは自分がハリーを愛しているということを、認めようとはしませんでした。

 

ダンブルドアは公平であろうとし、また、自分が愛すると必ず傷つけてしまうからと、ハリーを(息子のように)愛していたことを認めようとしてこなかったのです。

ハリーもまた、アルバスだけでなくみんなに優しいとジニーに指摘されます。でもアルバスはそれゆえに、孤独を感じてしまう。かつてダンブルドアがハリーにしたことを、今度はハリーがアルバスにしているのです。


愛の問題点について

今作ではダンブルドアを通じて、愛するがゆえに生じる問題を描いています。先ほど述べた「愛ゆえに目が曇る」です。

ハリポタシリーズにおいては、愛の重要性がことのほか強調されてきました。ハリーが生き残ったのもリリーの愛による魔法ですし、ヴォルデモートが持っていなくてハリーが持っているものは愛だと、ダンブルドアは繰り返しハリーに言っています。


でも現実世界では、愛ゆえの悲劇はさまざま。「あなたのためを思って〜」というのが悲劇の素になることは往々にしてあります。今回ダンブルドアは、愛ゆえに、ハリーを守ろうとして、孤独なところに置き去りにしたことを認めたのです。

そしてハリーも、アルバスへの愛ゆえに、アルバスを守ろうとして、親友のスコーピウスから引き離そうとします。


ダンブルドアは愛ゆえにハリーを孤独にしたことを謝り、そしてハリーを愛していたことを伝えます。ハリーもまた「私もあなたを愛していました」と伝える。

ダンブルドアを許し、愛していたと伝えることで、ハリーはアルバスに向き合ううようになります。


このよいにこの物語は、ダンブルドア→ハリー→アルバスという、父と子をめぐる構造になっています。


なぜセドリックなのか

さて「呪いの子」で一番意外だったのが、4巻のセドリック・ディゴリーをめぐる物語であること。彼は4巻の三校対抗試合で、ヴォルデモートに「意味もなく」殺されてしまいます。そんな彼は、ヴォルデモートに「よけいな者」と言われました。

 

ハリーの息子アルバスと、ドラコの息子スコーピウスは、ハリーのせいで殺されたセドリックを助けようと過去に戻ります。


でも、なぜセドリックだったんでしょう?物語内ではセドリックのお父さんが出てくることでその理由は示されますが、メタ的に見ると、ハリーの周りで亡くなった人は大勢いるので、「なぜセドリックなのか」という疑問は残ります。

なぜなら、セドリックよりも印象的なーメジャーなー亡くなったキャラクターはたくさんいるからです。スネイプ、ダンブルドア、ハリーの両親、ルーピンにトンクス…。

 

それでも4巻でしか出てこなかったセドリックに焦点があたったのは、何か意味があったんじゃないか。

私が思ったのは、「名もない人の死」を弔うということ。作中でメインキャラクターでなかったセドリックの死は、そのときは大変ショックだったけれど(私はセドリックの死以降、ハリポタのトーンが変わった、シリアスになってい、ったように感じた)、巻数を経るごとに忘れられていきます。少なくとも私はそうでした。

 

でも「呪いの子」で出てきたセドリックのお父さんのように、ハリー達の側ー読者側ーはあまり覚えていなかったとしても、その死をずっとひきずっている人はいます。

 

現実世界でも、災害や戦争、テロにおいて、名もなき人達ー一般市民ーがたくさん亡くなることがあります。でも彼らの名前は、表に出てくることはない。70人や110人、5000人と言った数字にひっくるめられる。次の大きな被害があったら、その人たちは、忘れられてしまう。

次の大きな死ーシリウスとかダンブルドアとかスネイプとかーがあったあとに、セドリックの印象が薄れたように。

 

でも、「名もない人」も誰かにとっては忘れられない人であるし、世界のほとんどの人は、この「名もない人」だ。そして平和は、名もない人たちが、つまり私たちが、日々を無事に暮らせるように願うものだ。「名もない人」の死は他人事にしがちだけれど、広い文脈では自分事のはずだ。

 

だから最後、アルバスとハリーがともにセドリックのお墓参りに行くシーンで終わる。セドリックを悼むために。その死を、「名もない人」の死を弔うために。マグル界の私たちもそういった人たちの死を忘れず、弔うように。

 

呪いの子って誰のこと?

「呪いの子」の原題は「the cursed child」で、意味としては「呪われた子」です。この呪われた子って誰のことなんでしょう?

ハリーポッターという「魔法界のヒーロー」の息子である、重圧を感じているアルバスかもしれないし、ヴォルデモートの子だと噂されているスコーピウスかもしれないし、ヴォルデモートの実の子であるデルフィーかもしれないし、過酷な運命を背負ったハリー自身かもしれません。

私は誰でもあり得るかなと思っています。「Harry Potter and the cursed Child」というタイトルを素直に受け取ったら、アルバスかなという感じです。

 

そういえば、今回の話ではドラコとジニ―の意外な関係がわかります。ドラコは、ハリーたち三人の友情がいつもうらやましかったとハリーに言います(P.179)。それを受けて、ジニ―は「私もそうだった」と。

また、ドラコもヴォルデモートも、孤独だった、だから暗い方へと引き寄せられていった、そしてジニー自身もそうだったと認めるような発言をしています。ジニーも「秘密の部屋」でヴォルデモートにのっとられたことがありますね。二人を描くことで、ハリーたち3人の友情がどれだけ強固なものだったのか、ハリーが暗い方向へ行かなかったのは、ハーマイオニーとロンがいたからだということが、間接的にわかります。

 ★★★

ハリーポッターは初めて手にとって以来もう10年以上は経ちますが、今だに小さいころと同じように、ハリポタ界に引き込まれます。つらいときにハリポタがあって助かったことも、シリウスの死が哀しくて号泣したこともよく覚えています。


この引き込まれる力こそがハリーポッターの魔法だなあなんて、小さいころは、そして今でもそう思っています。

★★★

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ハリー・ポッターシリーズ全巻セット

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【Webエッセイ】本の匂いにつつまれて

私の大学の図書館は主に地下に書架があって、階段をとんとん降りて地下二階に行くと、ふわ~と本の匂いが鼻をくすぐる。その瞬間私はなんだかくすぐったい気持ちになる。つんとした古い、紙の匂い。

 

ドイツに留学してたときの授業のない時間は、大体学校の図書館に行っていた。ドイツ人とドイツ語に囲まれた授業が終わった後図書館に入ると、ほっとしていたのを思い出す。ここでは誰も私も傷つけるものはない―大げさだけれど、そういう表現が当てはまるような安心感だった。本の背表紙にずらっと囲まれていると、圧迫感を感じる人もいるだろうけれど、私は守られているなんていう安心感を抱いてしまう。

shikounodoujyou.goat.me

 

でも書いたけれど、そういう安心できる場所、自分の家以外に安心できる場所があるって大事だ。今風の言葉(って言い方が今風ではないけれど)だとサードプレイスって言うんだろうか。私の場合はたぶん図書館か本屋、まあつまり本に囲まれた空間である。

 

図書館は安心できるだけじゃなくて、集中できる場所でもある。いい意味で俗世間から離れたような大学の図書館の背表紙(「パフォーマンスの美学」とか「在と不在のパラドックス」とか「カフカの手紙」とか)を見ていると、目線が遠くなって私はけっこう楽になる。これは新刊がばんばん入ってくる、時代とともに走っている書店にはない良さである。

 

サードプレイスとか居場所とか言うとなんだか難しそうというか見つけるのが大変そうだけれど、要はほっとできる場所のことだ。そういう場所、持てるだけじゃなくて、つくりたいななんて思ったりする。「静かな声が聴こえる」場所を。

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【Webエッセイ】走ることのドラマ性

ハチ公のハリウッド映画版を見た。そう、たぶん日本一有名なあの犬についての映画である。結構ハチ公の視点で描かれているからか、素直に見て思わず泣いてしまった。何と言ってもハチ公が迷いなく飼い主であるリチャードギア(役名忘れた)のもとに走って行くのがいい。

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大人になってからとんと走らなくなった。約束に遅れそうなときか、電車が来てるときくらいしか走っていない。情けないかぎりである。身体も重くなっているから走るときもどたどたと騒がしい。情けないかぎりである。

 

しっぽを振りながら一目散に走っていく映画のハチ公(ところでどうやって犬を撮影するんだろう)を見て、ドラマチックだなあと感じた。あれ、ハチ公が歩いてリチャードギアを追いかけたり、リチャードギアを迎えに行ったりしてたら、あんなに泣けなかっただろう。走るって、かなり感情を現す人間、いやこの場合は動物の行動みたいである。

 

今年は今までよりよくアニメを見たんだけれど、アニメの主人公って大体が高校生だ。青春、友情、恋、部活、彼らは走る、走る。前回書いた映画「たまこラブストーリー」でも、最後にたまこは走る、走る。

 

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 何で人は走るんだろう。焦り、不安、恋しい想い、悔しさ、心配、嬉しさ、悲しさ。感情があふれ出して、人を突き動かす。走りたくなるというより、感情に足が突き動かされる。感情があふれ出して立ち止まっていると苦しいから、身体を動かして発散させる。どきどきした心臓が身体を突き抜けて飛び出していきそうだから、そうしまいと必死に身体も、前へと動かす。

 

走る描写とか演出ってベタだなあとか思いつつ、でもやっぱり私たちの心をうつものがある。走ることでしか表現できない想いがあるから。

 

私が好きな走る描写は、「聲の形」「たまこラブストーリー」をやっている山田監督の(すっかりファン)「響けユーフォニアム」というアニメで、主人公が悔しくて悔しくて走り出すシーン。吹奏楽部でユーフォニアムが上手く吹けなくて「悔しくて死にそう」という気持ちに気付くんだけれど、彼女が走り出すシーンはその悔しさにこちらまで胸が苦しくなってくる。

でも走り出さずにはいられないほど悔しいってそれだけ何かに懸けてたってことだから、すごく希望に満ちたシーンでもあった。走る、走る、走る。走るシーンだけを集めた映画特集みたいなのってないのかな。

 

走ることについて書いていたら、何だか走りたくなってきた。でもランニングとは、また違うんだよね。思わず走りたくなったら、それは後から振り返ると尊い時間なんだきっと。

 

 

 

 

 

 

変化への、一歩を。「たまこラブストーリー」映画感想/考察

不安、不安、不安。何が不安かって言うより、不安というその感情自体がキライ。

今の時代は、先行きが不透明で不安になりやすい時代だと言われています。先行きが不透明ということは、この先どうなるかわからないと言うこと。つまり、今までと同じじゃなくて、変化していくということ。

そう、変化が不安を呼び起こすのです。

 

変化そのものが怖い、というのは人間の普遍的な感情で、私もご多分に漏れずそのうちの一人です。これまでだって環境が変わったことなんてたくさんあって、その度になんとかやってきたはずなのに、それでもやっぱり変化する手前って、怖いんですよね。

 

そんな変化が怖いなあってときに、見たくなる作品があります。それがアニメーション映画の「たまこラブストーリー」。この作品については以前少し触れましたが、詳しくは触れていないので今日はたまこラブストーリーのどこがそんなに好きなのか語っていきたいと思います。あらすじは下の記事で説明しています。

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ちなみに同じ監督の作品は、この秋公開された「聲の形」。

 

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あとからじわじわくる作品

高校生のたまこが、幼馴染のもち蔵(最初二人の名前ギャグかと思った)に告白されて、彼を意識し始めて返事をする、というど直球なお話。だから初見はふーんというか、さらっと見てしまった。でもなぜか、後からじわじわくるというか、見返したくなったんですよね。なんでだろうと思って書いているのが、この記事であったりもします。

 

タイトルからいくとたまこともち蔵をめぐる恋物語なのですが、私はこの映画を成長物語として見ています。もちろん物語において主人公が全く成長しなかったり、変化しなかったりというものの方が少ないかとは思いますが、この映画は特に主人公の成長を丁寧に描いています。

 たまこが年相応になるために変化する物語、なんですね。

 

たまこラブストーリーは、元の作品「たまこまーけっと」があって、そちらを見ればよりわかるようにはなっていますが、たまこには母親がいません。小さいときに亡くなってしまったのです。母亡き後、母親役をつとめるのがたまこという女の子なんです。

 

映画冒頭では、そういうたまこの「アンバランス」なところが上手に描かれている。商店街で買い物して、ごはんつくって、お店のお手伝いして、新作のお餅づくり(たまこの家はお餅やさん)に余念がなくて…と、高校生とは思えないくらいの働きぶりや、成熟したところがあります。優しくて、どこか目線が遠い。

そんな母性溢れるかんじかと思いきや、性のこととかにすごく無頓着。思春期の頃にあるひねくれたところや、うがったところ、不安や揺らぎ、陰りみたいなところを一切感じません。一方ですごく子供っぽいんですよね。

 

映画ではそんなたまこが幼馴染のもち蔵の告白をきっかけにして、年相応に成長する(させられる)物語。たまこはもち蔵に告白される前、あったかくて、ふわふわしていて、柔らかくて、みんなを幸せにする、そんなお母さんになりたいと言っています。つまり、母親役じゃなくて、亡きお母さんのようになりたいと焦っている。でも成長の過程をすっとばしても、お母さんみたいにはなれないわけで。「もち蔵ショック」じゃないけれど、告白をきっかけとして年相応に恋に悩み、将来に不安を覚え、変化することにとまどいを覚えます。

 

映画において、たまこはもち蔵の気持ちに答えることで何らかの変化が訪れることを恐れます。それは、お母さんが亡くなったときに、日常が変わってしまうことの恐怖を経験したからで、以来たまこはずっと商店街の日常を守ってきました。「たまこまーけっと」はいわゆる日常系アニメですが、たまこ的世界(うさぎ山商店街)では変わらないこと、今の日常を守ることが「善」なのです。

 

変化を恐れるたまこが、変化を迫られ、どう変わっていくのか。この映画はそれにつきるでしょう。自分が望んだはずの変化ですら、いざ目の前にやってくると怖くなります。

たまこも映画の中で、妹のあんこに、「あんこはさ、変わるの怖い?急に今までとちがう世界になっちゃうようなかんじ」と聞いています。

 

たまこと母親の関係

ではそんなたまこが変わることへと踏み出すきっかけは、何なのでしょうか。

それは、たまこのお母さんです。

 

そういえば、自分のお母さんって生まれたときからお母さんって感じがしません?私も小さい頃は特にそうでした。私も自分が母になりうる年齢に近づくにつれ、お母さんも、最初からお母さんではなく、お母さんになっていったんだ、とまあそんな当たり前のことがやっと腑に落ちました。

 

たまこは偶然、高校生のときのお母さんがお父さんにあてたメッセージ(告白への返事)を聞くことになるのですが、これが、たまこが変わることを受け入れるきっかけとなりました。たまこはこのとき、「お母さんの代わり」から、「等身大のたまこ」へと変わろうと決意したんだと思います。それは、お母さんにも自分と似たような時期(告白されて思わず逃げてしまうような時期)があったと気づいたからでもあります。お母さんがつくっていた日常を壊す=抜け出すという構図は、親離れという構図でもあります。

 

うさぎ山商店街の喫茶店のマスターが、「若さとは急ぐこと。スプーン一杯の砂糖が溶けるのも、待てないくらい。」と言いますが、たまこはある意味焦っていたんじゃないでしょうか。お母さんみたいになりたい、と。でも母の代役のままでは、お母さんにはなれないんですね。焦らず成長していかないと、一見面倒くさい過程を経ないといけない。変化しないといけない。

 

焦って変化の過程をすっ飛ばそうとするのと、変化を恐れて動かない、というのは、違うように見えて実はコインの裏表なのかもしれません。変化は怖いけれど、どんな小さな変化でも一歩踏み出す、そんな普遍的な勇気を、この映画は感じさせてくれます。

 

ところで、どうしてたまこの成長、変化を描くのに恋愛が設定されたのでしょうか。誰かと始めて付き合う、というのは高校生らしい変化でもある。というのと、あとは、たまこが進路で悩めないからでしょう。餅やを継ぐと決めているたまこには、進路において決定的に変化するチャンスが与えられません。だからこそ、恋愛が設定されたのだと。

 

この映画におけるたまこの成長とは、(もち蔵の)想いを受け取ること。それはたまこの部活であるバトン、そしてもち蔵としている糸電話をキャッチすることという二つのものを通じて表現されています。一方裏側?の成長は、たまこが母親の代わりであることをやめて、たまことして生きること、です。

お母さんが高校生だったときのメッセージを聞いて、たまこは変化へと踏み出していきますが、その直後の画面が真っ暗、暗転します。たまこが新たなところへ行くということの演出でもありますね。

 

日常を守る映画が「たまこまーけっと」だとすれば、日常を壊す映画が「たまこラブストーリー」。この二つはセットで見るときれいな対比になっています。

 

画面の余白

この映画は絵がきれいというか、構図がきれい。そして文字通り、画面の余白が多い映画です。人物が真ん中に、真正面に全部写ることが少ない。右端や画面の下の方に人物が映ると、画面の余白が大きいですよね。そして、この映画台詞が多いように見えて、肝心の部分はあんまり語られていない。画面の余白も、台詞の余白も多い映画なんです。

 でも人物にフォーカスが当たっていて、つまり背景がぼやけていて、あと画面のはじの方も黒っぽい。余白の多い映画は、まあ個人的な好みかもしれませんが、美しいです。足だけ、手だけうつる描写も多い。それで人物の思いを伝えるっていう演出も好きです。あと、もち蔵がたまこに「あの告白は忘れてくれ」というシーンは、二人は同じ画面に映ることがありません。二人が同じ場所、気持ちにいないという演出だと思います。

 

そういえば、山田尚子監督が影響を受けた監督の中に小津安二郎が挙げられています。画面や台詞の余白から人物の関係性を描いているという点で、共通しているなあと感じました。

 

アニメはちょっと...と思わずに、騙されたと思って一度見てみてほしい作品です。良い意味で実写っぽくて、私のアニメに対する苦手意識、みたいなものを一気に吹き飛ばしてくれた作品でもあります。

 

そういえば映画の細かい演出などの考察は、ここを読めばすべて載っている!くらいにまとまっているサイトがあります。私も楽しませてもらいました。

超記憶術ブログ@K-ON!! たまこラブストーリー

 

★★★

 

 

 

 

すぐそばに、あるもの。生死をめぐる「海街diary」漫画考察(&「ノルウェイの森」)

漫画のレビューが続きます。今回取り上げるのは、吉田秋生海街diary」。

 

海街diary 7 あの日の青空 (フラワーコミックス)
 

 「死」はどこにある

綾瀬はるか広瀬すずらが主演の映画作品もあるから、知ってる人も多そうな作品。映画は「かもめ食堂」や無印良品、オーガニック野菜などと相性よさそうなものに仕上がってましたが、漫画の方が家族関係をもっとどろどろ描いていたり、古典的なギャグ描写があったりと濃いです。

 

主人公は、鎌倉に住む4姉妹。彼女たちを中心に、家族や地域社会、仕事や恋愛、部活と言った誰もが通る普遍的な問題を描いています。その中でもけっこう描かれているのが、人の生死。4姉妹の父の死を発端とした物語は、姉妹の長女幸が看護師をやっていることもあり、この物語を貫いているテーマでもあります。

 

最新刊の7巻では、次女佳乃の上司にまつわる生死の話が出てきます。勤め先の銀行で借金を抱えた人のために奔走し、なんとか返済のめどがたち、感謝された。なのに、その矢先に、ふっと自分から死なれてしまう。返済のめどがたって、さあこれからというときだったのに、なぜーという疑問を抱え込んでしまった上司(であり好きな人)に、佳乃は言います。

「死は生きることの先にあるのではなく、影みたいにいつもそばにある」と。

 

朝起きたときはそんなこと思ってなかったけれど、たまたま線路の前に行ったとき、ふっと影が濃くなった。

 

ノルウェイの森」との関連

私はこれを読んで、村上春樹の「ノルウェイの森」を思い出しました。冒頭部、「僕」の回想の中でも、太字で強調されている「死は生の対極としてではなく、その一部として存在している」という、あの言葉を。

 

周りの人に自ら死なれてしまったとき、問いざるをえない「なぜ」。でも死ぬことがいつも生きることのそばにあるんだったら、ふっとあちら側に行ってしまうことも、起こり得る。

 

それは一つの真理であり、また残された人がその人の死を受けとめるための、一つの知恵であるのだろう。

 

★★★

ドイツに行っていた間、たくさんのテロが起こった。パリ、ベルギー、ニース、ミュンヘン、ぱっと浮かぶものだけでもこれくらいはある。人はいつ死ぬかわからないという当たり前のことを、初めて肌が知ったときだった。「死」はありありと、すぐ手の届くところにあった。

「すぐそば」に、「すぐ隣」にあることは怖いことなんじゃなくて、当たり前のことだった。だからこそ、この「海街diary」の言葉は、ある意味勇気づけてくれる言葉でもあるのかもしれない。

 

★★★

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