思考の道場

答えのない、問いのまわりをぐるぐると。

内向的・外向的のちがいは刺激に対する反応のちがい。『内向型人間のすごい力』感想とレビュー

アニメ映画やマンガ、小説のレビューは書いているんですが、いわゆるノンフィクションの作品レビューは書いていませんでした。本を読むときはフィクションを読むことの方が多いから。でもこの間Glocal Lifeさんのブログで『内向型人間のすごい力』がおすすめされていて、気になって読んでみたら目からうろこだったので、私も紹介していきたいと思います。

www.glocallife.net

 

内向型人間の時代 社会を変える静かな人の力

内向型人間の時代 社会を変える静かな人の力

 

 

外向的(extravert)か内向的(introvert)かというのは、今まで自分がどっちなのかって意識したことがなかったのですが、この本を読んで自分は内向的よりだということがはっきりわかりました。勿論人のパーソナリティを簡単に二分することはできないけれど、革新的か保守的か、おしゃべりか聞き役かなど、いくつもの二分要素の軸を持っていると自分やまわりの人のマッピングができるので、持っておくことに越したことはないですね。

 

さて内向的人間について読んで何が目からうろこだったかというと、「人によって刺激に対する反応の大きさがちがう」ということです。

 

刺激に対する反応が大きければ内向的、小さければ外向的

 

刺激に対する反応の話に入る前に、そもそも外向的・内向的とは何ぞや?という話をしましょう。この本で述べられている外向的な人の特徴は

 

・すばやく行動・決定する

・一度に複数のことをこなす

・お金や地位などの報酬を求める

・仲間を強く求める

 

であり、内向的な人の特徴は

 

・ゆっくりと慎重に行動する

・ひとつの作業に集中するのを好む

・少人数でのおしゃべりを好む

・ひとりの時間を楽しむ

 

などです。(本の中では自分が外向的か内向的かを確かめる簡単なチェックリストもあります)

 

そして外向的か内向的かということに、刺激に対する反応の大きさが関わってきている。刺激というのは日光や電気など光の刺激、騒音といった物理的なものもそうだし、初対面の人に会うときの緊張やわくわく、大勢の前で話すときの不安や高揚感といった心理的な刺激も含む。

 

あれ、一見すると外向的な人の方がこういった刺激に対する反応が大きい気がしません?でも実は逆なんです。刺激に対する反応が大きくないから、刺激の大きいものー大勢の前で話したり、パーティーでたくさんの人としゃべったり、スカイダイビングとかギャンブルとかアドレナリンがどばーっと出そうなアクティビティーを好む。

 

一方刺激に対する反応が大きいから、外向的な人が好むこういった刺激の強いことは刺激が大きすぎるゆえに疲れてしまい、逆に読書や一人での時間など、刺激の少ないことを心地いいと感じるのです。

そして、人は自分がちょうどいいと感じる刺激の量を求めるんだそう。

 

これは脳レベルで違うらしくて、赤ちゃんでも同じ大きさの音で泣いてしまう子もいれば、あんまり反応しない子もいるという実験があり、刺激に対する反応の大きさは生まれたときから違うということが示唆されています。

 

私はこれを読んで目からうろこでした。私は初めての人に会うのは、楽しみわくわくというよりは不安とかどきどきの方が多くて、会う前なんかはいやだなあ、会いたくないなあと思ってしまいます。人前で話すのは必要に応じてやりますが、元々好むかというとそうではありません。家の中で退屈することはなくて、むしろ家の中でやることいっぱい、本を読んだりブログ書いたり掃除したり瞑想したりhtml勉強したりとたくさんあります。

 

「人が一番恐れていることは退屈することだ」といわれることがありますが、私はあまりぴんとくることがありませんでした。それはこの本を読んで謎が解けました。

そっか、刺激に対する反応が大きくて、少しの刺激、他の人だったら退屈だと思う量の刺激も「楽しめる」んだと。

 

逆に不安を感じやすくてしんどいなあと思っていたのですが、これは小さい刺激にも反応してしまうからなんですね。

退屈は感じないが不安を感じやすいのは、自分が後からつくりあげたような、つまり後天的なものだと思ってて、特に不安を感じやすいのとか変えたいなあと思っていたのですが、この本によるとそれは元々持っている、一つの個性みたいです。

 

比べたってしょうがない

 

新しい環境や新しい人との出会いを楽しめる人、飲み会とかパーティーを楽しめる人がうらやましくて、私もそんな人になりたいなあと思っていました。なりたいというか、そういった人にわくわくした人にならなきゃと思っていました。

私のまわりはわくわくしてる人、社交的な人が多いので。

 

これは『内向型人間~』の本の中でも言われているんですが、今の社会においては外向的人間の方が良しとされているんですね。だから、内向的な人は自分を変えなきゃと思いやすい。

 

でも上で話したように、そもそも心地よいと感じる刺激の量が違うんだったら、外向的な人の活動レベルに合わせたところで楽しくも快適だとも感じないことがわかる。

だから、飲み会を楽しまなきゃ、とか、新しい人に会うのに積極的にならなきゃ、って無理に思わなくていいんです。

 

外向的な人と比べたって、そもそもが違うんだから意味がない。それよりも、自分が心地よいと感じる環境を大事にしていく、構築していくことの方が大事になっていきます。

特に今は、そしてこれからますますネットが発達してきて、前に出たくない、目立ちたくない人も発信できることができるようになってきているから。

 

もちろん「自分は内向的だから」って決めつけて、これを言い訳のようにして積極的に外へ出ていくことをやめちゃうのはもったいないことだとは思います。

ただまわりは外に出ていくことに、新しい人に出会うことに楽しみを覚えている中で、自分も楽しまなきゃって思う必要はないということ。

 

必要に応じて外に出ていくことはするけれど、その分自分の心地いいところでしっかり休むこと。内向的だということを悪いってとらえないようになるだけ、一つの個性だと捉えるだけで、こんなに生きやすくなるんだなあと思った次第です。

 

周りは楽しんでいるのに、一般的に楽しいといわれていることなのに、自分はあんまり楽しめてないな...ってことがある人、積極的に外へ出ていく人が億劫な人、そういった自分があんまり好きではない人には、おすすめしたい本です。

これは他にも内向的人間の長所をいくつも挙げているので。

 

もし、あなたが内向型ならば、持って生まれた能力を使ってフローを見つけよう。内向型は、持続力や問題を解決するためのねばり強さ、思いがけない危険を避ける明敏さを持っている。財産や社会的地位といった表面的なものに対する執着はあまりない。それどころか、最大の目標は自分自身の持てる力を最大限に利用することだったりする。......だから、いつも自分らしくしていよう。ゆっくりとしたペースで着実に物事を進めたいのなら、周囲に流されて競争しなければと焦らないように心がけよう。

 

スーザンケイン著、『内向型人間のすごい力 静かな人が世界を変える』(講談社+α文庫)

 

すごく勇気の出る著者のメッセージ。ペースを乱されそうになったとき、焦ったとき、不安になったときに見返したいですね。

私の今年の目標は「競争しない、比較しない」なのですが、それはこの本を読んだからでもあります。

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このように自分(また周りの人)がどんな性格や傾向にあるのかを知っていくのは、自分の生き方を決める上でもすごく参考になりそうです。

 

それでは、また。

2016年によく読まれた記事たち

去年書いた記事の振り返りをしていなかったので、年が明けちゃったけれど振り返りたいと思います。google analyticsは2か月くらいしか使っていないので正確ではないのですが、以下のような記事がよく読まれました。それではどうぞ。

 

chikichiki303.hatenablog.com

 一番読まれた記事は、マンガ「orange」の考察記事。オレンジはストーリーよりも装丁に惹かれて読んでいたんですが、読んでいくうちにけっこう考察しがいがあるかも?と思って書きました。後悔のある人生はあるのか?という話。シリアスさとギャグっぽさのバランスがよい作品です。

 

chikichiki303.hatenablog.com

 後悔についてはこっちの記事でも触れています。こちらもよく読まれました。

 

chikichiki303.hatenablog.com

 

私の大好きな京都アニメーション山田尚子監督作品。彼女の作品はアニメーション映画を見るきっかけともなりました。「聲の形」は障害というテーマに真っ向から取り組んでいる一方、主人公が「顔を上げる」ようになるまでの青春物語でもあります。障害を個性の一つとして描いている意欲作。

 

 

chikichiki303.hatenablog.com

 じわじわと読まれている記事。ヨーロッパにいると壁の落書きがそこらじゅうにあります。たいていは名前を記載しているもおなんだけれど、ときどきはっとするような絵に出合います。街歩きが楽しいですね。チェコの有名な「ジョンレノンの壁」についても紹介しています。

 

 

chikichiki303.hatenablog.com

 美術館によく行くので、その楽しみ方を書きました。知識を得るというよりは、ぴんとくる絵に出合いに行くんです。美術館に行くとぐったり疲れるので、省エネモードでのまわり方なんかについても書いています。アートに関する記事は今年増やしていきたい。

 

 

chikichiki303.hatenablog.com

ちょうど一年前くらいに活字が読めなくなって、そのときに何をしたかを綴った記事。落ち込んだときや、好きなことから離れたくなったときに覚えておきたいことを書きました。

 

chikichiki303.hatenablog.com

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 それぞれマンガと小説のレビュー記事。どちらも家族というテーマについて触れています。いわゆる純文学の考察は人文学っておもしろい?でしていますが、マンガとか児童文学とか、やわらかい作品について考察するのも好きです。(純文学と違ってぐぐってもレビューが少ないから、自分で書きたくなるのもある)

 

 

chikichiki303.hatenablog.com

 こちらも山田尚子監督の映画。「たまこラブストーリー」は、新しいことを始めるとき、環境が変わるとき、不安になるときに見ています。ドストレートのラブストーリーですが、見るとじんわり一歩踏み出す勇気が出ます。演出が実写映画みたいなので、アニメ苦手な人にもおすすめしたい作品。

 

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 こちらはよく読まれたというわけではないんですが、個人的に気に入っている記事です。静かにたんたんと語ることの大事さというか、そういう声が聴こえる場所をつくっていきたい。声高に叫ばれる極端な「答え」よりも、静かに発せられる「問い」に耳を傾けていきたい。そういった意味で自分の原点にかえる記事でもあります。

 

よく読まれた記事9つと、お気に入り記事1つを選んでみました。お気に入りの記事みたいな記事をあんまり書いていないことに気付いたので、今年は多様性とか、問いの共有とか、アートの意味とかについてもっと触れていきます。もちろん作品レビューは引き続き。(何か取り上げてほしい作品の募集もしたいです)

 

あらためて今年もよろしくお願いします。

 

 

 

今年のブログに関するお知らせ

あけましておめでとうございます。2020年まであと3年というのがとっても不思議。オリンピックはあっという間にやってくるのでしょうか。

 

去年の頭からブログをメモから「見てもらうブログ」に変えて、早一年くらいが経ちました。細々と続けてこれたので、今年はもうちょい更新頻度を上げていこうかと思います。

 

ブログのテーマも特になく、書きたいことをその都度書いてきた形でしたが、これからはエッセイをここじゃなくてgoatブログに書いていくことにしました。ここで書いていたwebエッセイに加え、個人的なことも書いていきます。ツイッターに更新情報を載せていくので、エッセイを読んでくれていた方はそちらもフォローしてくれると嬉しいです。

 

https://shikounodoujyou.goat.me/

 

https://mobile.twitter.com/sophieagermany

 

はてなブログでは小説、アニメ映画レビュー、アートや美術館、多様性やこれからの時代の生き方などを引き続き書いていきます。

 

またnoteでは小説を、人文学ブログでは友人と小説を考察する対談を載せています。

 

https://note.mu/chikichiki303

http://jinbungaku.hatenadiary.com/

 

今年はGoatは月曜〜金曜、はてなブログは土日の更新にしようかと思います。更新時間は夜8時。どうぞよろしくお願いします。

憧れの克服と、一歩踏み出した久美子の成長と―『響けユーフォニアム』1期&2期10話までの感想・考察

 

『響けユーフォニアム』は京都アニメーションの今季作品であり、かつ私が何回か触れてきた『聲の形』『たまこラブストーリー』の山田尚子監督が演出をしているアニメ。

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一期を見たときに衝撃をうけてからというもの、2期を楽しみにしていました。(最近よく衝撃をうけている気がする、アニメに。)高校の吹奏楽部が全国を目指すというストーリーで、汗と青春とスポ魂と感動か...ちがうな...と思っていたのですが、その思い込みは良い方向で裏切られました。

もちろん全国を目指すというところにブレはないんですが、人間関係とかそういうのにもっと焦点が当たっているんですよね。なんだろう、もちろんアニメらしく、というか物語らしくきれいにまとまってはいるんだけれど、どうしようもない人間関係の生々しさが描かれている。それが演出と構成によって、ダイレクトには伝えられないものの、丁寧に掬い上げられている。

 

2期においてもそれは変わらず。ドラマとしてはテンポが遅く、淡々と話が進んでいく回が多いものの、クライマックスになった回の盛り上がりに効いてくる。個人的にそれが2期の10話だったので、1期も併せてレビューを書きます。『響けユーフォニアム』における私のテーマは「姉との関係性」です。

 

ちなみに劇場版もあるので、予告でアニメの雰囲気だけでもどうぞ。


『劇場版 響け!ユーフォニアム~北宇治高校吹奏楽部へようこそ~』予告

 

憧れの克服

 

私は一期のテーマを憧れの克服と見ています。姉、麻美子に憧れて始めた吹奏楽。本当はお姉ちゃんと同じトロンボーンがやりたかった久美子。でもなんとなく、勧められるがままにユーフォニアムを手に取ります。それを小学校高学年から、高校まで続けてきた。でも姉の麻美子はその間に、受験をきっかけにトロンボーンを辞めてしまいました。久美子は流されるまま、高校でも吹奏楽部に入り、部の雰囲気に乗っかるような形で全国大会を目指します。

 

そんな久美子が変わったのは、麗奈に出会い、「特別でありたい」という彼女の気持ちを受けとめてから。熱に浮かされたように久美子は「上手くなりたい」という思いにとりつかれます。ここで久美子は、ユーフォニアムを頑張って吹いている意味を明確に見出したかのように見えます。麗奈のように特別でありたい、特別であるために、私も麗奈みたいに上手くなりたい、と。

でもこれって、トロンボーンを吹いていた姉に憧れていた小学生の久美子と、動機はそんなに変わらないんですよね。憧れの対象が姉→麗奈に変わっただけで。

 

「特別になりたい」「上手くなりたい」というそんな思いを挫くかのように、顧問の滝先生から、練習していた難しいパートのところは本番で吹くな、と言われてしまう。

ここで初めて、久美子は「悔しくて死にそう」という中学校のときの麗奈の気持ちを理解します。久美子が麗奈に「追いついた」瞬間です。

その後、父の後を継いで、父に「勧められて」吹奏楽部の顧問になったという滝先生との会話をふまえて、久美子は姉麻美子に「ユーフォ続けてなんか意味あんの?」という問いに対して「だってユーフォ好きだもん」と答えます。憧れの対象であった姉、ユーフォをやっている理由だった姉に「ユーフォをやる意味・理由」を伝えることで、久美子は憧れを克服し、自分なりの理由を見つけます。

 

誰かに憧れて何かをする、というのは、何かを始めるきっかけになったり自分を成長させる機会になるけれど、憧れの対象を失った久美子がなんとなくユーフォを続けていたように、そして新たに麗奈という憧れの対象を手に入れた久美子が、自分のペースを乱していったように、モチベーションが他者に左右されるという危険をはらんでいます。

そういった憧れを乗り越え、より強固な、しっかりとした「ユーフォが好き」という気持ちに気付いたシーンには、久美子の成長がよく表れています。誰のせいにも、誰のおかげでもなく、自分のためにユーフォを吹くと決めた久美子は、京都府大会に臨みます。

 

自分の本音をぶつける、一歩踏み出した久美子

さて、1期の「ユーフォが好き」と姉に宣言したのをふまえて、私は姉・麻美子と久美子の関係は一区切りついたものと思っていました。ところがどっこい、麻美子は2期の方がじゃんじゃか出てくるではありませんか。

 

久美子と麻美子は決して仲がいい方ではありません。そんな二人が和解するのがやっとの2期10話。焦げた味噌汁の鍋(なぜ焦げる?)を洗い落としながら、そして隣で久美子が料理をしながらの会話。

「自分で決めてこなかった」「吹奏楽を辞めたことを後悔している」「大人ぶってわかったふりして、自分の本心をおさえて、賢く振る舞ったつもりだった」ということを久美子に語ります。鍋の焦げ目が取れていくにつれ、二人の間のわだかまりも消えていきます。

 

そしてこのシーンの意味が効いてくるのが、というか姉・麻美子との関係がなぜ描かれてきたのか、というのが畳みかけるようにわかるのがこの10話後半、ユーフォのあすか先輩との対決です。

 

あすか先輩は1期~2期を通じて、よくわからない人物として描かれてきました。言うなればラスボスのような存在。あすかは母に反対され、全国大会を目前に吹奏楽を辞めようとします。「戻ってきてください」という久美子に対し、あすかはノーと言う。理由は「部のためにならないから」。

久美子は「みんな戻ってきてほしいって言っている」と伝えますが、あすかに「ほんとにそうなの?」と聞き返され、「傷つかないように、いつも人に踏み込まないようにしている」という、久美子の弱点を指摘します。

 

ちなみにこのとき、二人の顔は影半分、光が当たっているところ半分と、くっきり分かれています。何でだろう、と思っていたのですが、これは二人が本音で話していないことを表しているのではないかと。そして本音で話さない限り、あすかを説得できないというのが、蜘蛛の巣にひっかかった蝶の奥に描かれる久美子を通じて、示唆されています。

 

でも久美子は、前日の麻美子との会話ー「後悔のないようにしなさいよ」ーを思い出し、あすかに想いを伝えます。「私はあすか先輩と一緒に吹きたい」「あすか先輩と舞台に立ちたい」と。「みんな」でも「誰か」がでもなく、「私が」と久美子は伝えることで、一歩踏み出す。

自分の想いを伝えることは傷つくことの危険性を常にはらんでいるけれど、久美子は後悔しないために、そして、「わかったふりして、大人ぶって」自分のやりたいことを貫かなかった麻美子と同じ道をあすかに選ばせないために、自分の気持ちを伝えます。

 

ちなみに、「自分の」気持ちを伝える前の久美子は画面の左側、下手にいて、あすかは画面の右側、上手にいます。このときの会話はあすかが優位に立っているので、それが演出にも表れていますね。

その後、あすかが左側に去ろうとしているのを久美子が止める形で、二人の立ち位置は逆転、今度は久美子が画面右側、上手に来ます。そして演出どおり、久美子の説得がインパクトをもたらします。

また、二人を捉える画面も、ここで二人を斜めに切り取っています。顔もアップになり、画面もダイナミックに切り替わる。普段は「あつくない」久美子が声を荒げ、泣き叫ぶこのシーンのダイナミックさを、二人を映す角度で伝えているんじゃないかと思います。

 

このように、人の感情やシーンを言葉で表すんじゃなく、細かい演出や構図で表しているのがこのアニメが優れているところだと思います。

 

「私があすか先輩と一緒に吹きたいんです」というこの台詞は、かつて吹奏楽を辞めようとしていた麻美子に、伝えることのなかった久美子の気持ちです。「お姉ちゃんと一緒に吹きたい」と久美子は思っていた、でもそれを、素直に伝えることができなかった。お姉ちゃんが辞めるのを、止めることができなかった。この後悔を、姉と和解した久美子が今度はあすかに伝えることによって、久美子は後悔を乗り越え、傷つくリスクを抱え込んだ上で、一歩踏み出すことに成功しました。紛れもなく、久美子が成長した名シーンでしょう。そして、1期から描かれてきた「姉との関係性」が、ここに来て完成された、言うなれば姉を乗り越えたシーンでもあるでしょう。

 

細かい演出

響けユーフォニアムは人の感情や人間関係、状況を、画面の構図や細かい演出で表しているのが面白いです。上記のほかにも、例えば1期では水道の蛇口をきゅっと閉めるシーン、靴紐を結ぶシーン、髪をしばるシーンなどが出てくるんですが、これは吹奏楽の演奏の前など、緊張が高まるシーンのその緊張を、上手く表していると思います。

 

また人間関係でいうと、2期の9話ではあすかの友人香織と、あすか、久美子の三人で歩くシーンが出てきます。久美子・あすかと、香織の間には、階段の手すりが映っている。これは、香織とあすかは一線を隔てていること、また、久美子はあすかと同じ側にいるので、これからあすかの領域に踏み込める、ということを示唆しているシーンでもあります(実際このあと久美子はあすかの自宅へ行き、あすかの本音を聞きます)。

 

細かい演出が多いから、何度も見たくなってしまう。そして何より、背景も人物も抜かりない細やかさ。久美子の声はだるそうで、家族に対しては一オクターブ低くて、それが何とも現実的で生々しい。彼女たちの生を、「今」を、こんなにも「つくりもの」の代表である「絵」で表現できているのは(ボキャブラリーに乏しいですが)すごいとしか言いようがありません。

アニメアニメしているわけでもないので、アニメ特有の仕草や演出が苦手な人にもおすすめです。スポ魂が苦手な人も大丈夫です。久々に作品レビューであつくなってしまいました。

溜まっていくことでよさがわかるもの

クリスマスの季節がやってきますね。クリスマスといえば、数年前に「くるみ割り人形」のバレエを見に行きました。あの有名な童話の舞台です。クリスマスバレエの定番だそう。

 

私にとっては初のバレエ鑑賞でした。でも正直言って、つまらなかったんですね。まあ安い席で間近で見られなかったというのも大きいでしょうが、何を見たらいいのかいまいちわからず、そしてダンサーがジャンプして着地するときの「ダンッ」って音が気になって、というかそれが印象に残ってしまった鑑賞でした。

 

さてドイツに行って始めたことの一つに、オペラ鑑賞があります。日本じゃ手が出せないイメージがあったオペラが、トラムで数分行ったところに、しかも学生だと10ユーロで見れるのです。上手くいけば最前列で見れることも。これは行かない手はありません。

 

オペラハウスでは、定期的にバレエの講演が行われていました。私は先述した初バレエ鑑賞が上手くいかなかったので、最初のうちは行かないようにしていたのですが、知っている演目のバレエがあったので、ダメ元で見てみることに。

 

2回目見たときも、やっぱりどこを見ればいいかよくわかりませんでした。でも3回目か4回目に、比較的前の席で見ることができたんです。そうしたら、衝撃を受けました。バレエダンサーの指先の、なんと美しいこと。指先がまわりの空気をやわらかく振動させ、指先が空気に溶けていく。空気も身体も、もとは同じものでできているんだ、と思わせられる。バレエがこんなに快感をもたらすなんて、このとき初めて知りました。

 

私は美術館に行くのが好きなのですが、そもそも大学に入るまでは全くといっていいほどアート鑑賞なんてしませんでした。それがちょくちょく行くようになり、わからないからつまんないと思っていた現代アートも、今ではその「わからなさ」求めて見に行くようになりました。

 

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コップにそおっと水を入れていくと、あるところで水が溢れだします。何かの良さや面白さがわかるのって、この現象に似ているんじゃないか。思えば私が文章を好きなのも、小さいころから絵本を読んでもらっていて、活字にふれる環境が大きかったからなのかもしれません。

 

好きなことを見つけたい、趣味が欲しい。好きなことは、自分が生きていく上で支えになることだってあります。でも好きなことって、見つけようと思って見つかるものでもないんですよね。そして、1回ふれたからといって見つかるものでもない。

 

最初はつまらなくても、何回か接しているうちにその良さに気付く。それにはするめみたいな味わい深さがあります。逆に中毒性の高いもの、すぐにおもしろいと思えるものは、それが一時的になってしまうことも往々にしてあります。

 

息の長い趣味や好きなことを見つけたいんだったら、コップに水をためる時間も必要になる。私はこれが、まだ上手く言えないけれど教育や文化の発展に繋がっていると思っています。

 

 

簡単じゃないけれど、わかりやすい文章とは

 

多かれ少なかれ、書くのが好きな人はどのように文章を書くかというのに悩まれているに違いない。書くっていうのはそれほど、骨の折れることだ。私も仕事でも趣味でも本業でも何かしら書いているので、なんだかんだ「書く」ということについて考えている。

 

難しい内容を難しく書くのは簡単だ。卒論を書くときには難しいかんじのおかたい本を読みながら書くので、書いている内容もそれに合わせてかたくなる。先生はともかく、その専門じゃない友達に見せると「?」っていう顔をされることがある。

 

私はその度に、これじゃだめだなあと思う。論文はそれを専門とする人に読んでもらう傾向が強いけれど、私は専門へと進むわけじゃないのもあって、専門じゃない人にもわかるように書きたいと思っている。人文学を勉強していて、面白いけれどなんだか内向きというか、わかる人の中で閉じているかんじがしたからだ。

 

情報が簡単に手に入る世の中になった。でも、情報はそこにあっても、それを手に取る人がいるかどうかは、また別なのである。専門用語や難しい言葉を多用することで、それを解さない人を退けている情報はゴマンとある。

 

かといって、誰にでも伝わるように内容を薄くして簡単に書けばいいってものでもない。そこが文章の難しいところであり、同時に面白いところである。

 

専門用語は説明を付け加えること、他の言葉に置き換えること。専門の人には当たり前のことでも、論理の道筋を丁寧に描くこと。大事なことは繰り返し書くこと。具体例を挙げること。読んでくれる人を頭に思い浮かべること。

 

こうやって書くと、驚くほど当たり前で、フツーで、誰にでもできそうなのに、いざそれをしようとすると結構なエネルギーを使う。ついつい忘れてしまう。わかりやすい文章は、難しい文章よりもムズカシイのだ。

 

情理を尽くして、書く。文章は中身の入れ物でも、手段でもなく、伝えたいことそのものだから。

 

 

 

ハリポタファンは必見。父と子をめぐる物語―「ハリー・ポッターと呪いの子」感想/考察

ハリーポッター最新作、8番目の物語、「ハリー・ポッターと呪いの子」を読みました。脚本形式だしスピンオフというか、後日談というか、まあそんな期待してなかったんですが、読み進めるとぐいぐい魔法界へと引き込まれていきました。ハリーポッターを読んできた・見てきた人、ハリポタファンなら必見です。あんまりこんな言い方しないけれど、でも本当に読まなきゃ損です。

 

面白かった~だけで終わらせるにはもったいない小説(スクリプト)なので、以下印象に残ったところを書いていこうと思います。

主なテーマは、3組の父と子の関係性と、セドリック・ディゴリーの死の意味について。

思いっきりネタバレしているので、まだ読んでいない方はぜひ読んでから見てみてくださいね。脚本なので従来よりもさらっと読めます。

 

三組の父子とは?

読み終わってまず印象に残ったのは、父と子をめぐる話だったということ。この話には三組の父と子が出てくると思っています。一つはハリーと二番目の息子アルバス。二つ目はヴォルデモートとなんとびっくりその娘デルフィー。何でもベラトリックス・レストレンジとの子なのだとか...。そして三組目は、ダンブルドアとハリーだと思っています。

 

ハリーとアルバスは上手く行っていません。アルバスは、ハリーの息子として見られること、比べられることにプレッシャーを感じています。また、ハリーに認められたい、という想いを持っています。でもハリーは、上手くその想いをくみ取ってあげることができていない。大事は思っているものの、どうもぎくしゃくしてしまう。ちょうど思春期の子どもと親の関係のよう。

 

ヴォルデモートの娘デルフィーは、父に会ったことがありません。そんな父に会いたい一心で、(というと誇張表現かもしれませんが)、逆転時計で過去に戻り、ヴォルデモートに会おうとします

結局会うことはできないのですが、ヴォルデモートに扮したハリーと会話する中で、デルフィーがどれほど父に会いたく、そして認められたく思っているかがわかります。

 

さて、この二組の父子を見てふと思ったのが、ダンブルドアとハリーって父と息子みたいな関係だったんじゃないかということ。ハリーはダンブルドアを尊敬し、信頼し、時には恐れ、自分を頼ってくれない、何も教えてくれず命じることだけはすることに怒り...と、様々な態度を見せます。実の父親ジェームズよりも、名付け親シリウスよりも、ダンブルドアとの関係の方がたくさん描かれている。

7巻の「ホグワーツの戦い」で、ハリーが一度死んだとき、キングスクロス駅で出会うのはジェームズでもシリウスでもリリーでもなく、ダンブルドアなのです。

 

ハリーは今回の「呪いの子」において、アルバスとの関係を探りながら、実はダンブルドアとの関係性を振り返っているんじゃないか。それを踏まえてから、アルバスとの関係を築いていくんじゃないか。それが読み終わって私が思ったことです。

そういえば、アルバスの名前はダンブルドアから取ってつけられたんですよね。ハリーとの関係性が描かれるのが長男のジェームズではなく、このアルバスだというところにも、暗にダンブルドアとハリーの関係が意識されているんじゃないか...なんて思ってしまいます。

 

大人になったハリーの世界にはダンブルドアはいないのですが、肖像画を通じて、ハリーは今回もダンブルドアと話をしています。この話においてダンブルドアと話すのは2回。

一回目にハリーは、アルバスをどうしたら危険から救えるか、というのをダンブルドアに聞いています。ダンブルドアの答えは「ハリーはこの子(アルバス)への愛でものごとが見えなくなっている」(P.148)とのこと。

 

さて二回目に話すときに、ダンブルドアは、自分こそ「愛で目が曇っていた」と言います。ハリーは、アルバスを愛しているのにもかかわらず、愛のないところにおきざりにし、孤独にさせました。

ハリーはダンブルドアに、あなたも僕を同じようにしたー10年間もバーノン家のところに放っておいたーと責めます。(P.336)ダンブルドアは自分がハリーを愛しているということを、認めようとはしませんでした。

 

ダンブルドアは公平であろうとし、また、自分が愛すると必ず傷つけてしまうからと、ハリーを(息子のように)愛していたことを認めようとしてこなかったのです。

ハリーもまた、アルバスだけでなくみんなに優しいとジニーに指摘されます。でもアルバスはそれゆえに、孤独を感じてしまう。かつてダンブルドアがハリーにしたことを、今度はハリーがアルバスにしているのです。


愛の問題点について

今作ではダンブルドアを通じて、愛するがゆえに生じる問題を描いています。先ほど述べた「愛ゆえに目が曇る」です。

ハリポタシリーズにおいては、愛の重要性がことのほか強調されてきました。ハリーが生き残ったのもリリーの愛による魔法ですし、ヴォルデモートが持っていなくてハリーが持っているものは愛だと、ダンブルドアは繰り返しハリーに言っています。


でも現実世界では、愛ゆえの悲劇はさまざま。「あなたのためを思って〜」というのが悲劇の素になることは往々にしてあります。今回ダンブルドアは、愛ゆえに、ハリーを守ろうとして、孤独なところに置き去りにしたことを認めたのです。

そしてハリーも、アルバスへの愛ゆえに、アルバスを守ろうとして、親友のスコーピウスから引き離そうとします。


ダンブルドアは愛ゆえにハリーを孤独にしたことを謝り、そしてハリーを愛していたことを伝えます。ハリーもまた「私もあなたを愛していました」と伝える。

ダンブルドアを許し、愛していたと伝えることで、ハリーはアルバスに向き合ううようになります。


このよいにこの物語は、ダンブルドア→ハリー→アルバスという、父と子をめぐる構造になっています。


なぜセドリックなのか

さて「呪いの子」で一番意外だったのが、4巻のセドリック・ディゴリーをめぐる物語であること。彼は4巻の三校対抗試合で、ヴォルデモートに「意味もなく」殺されてしまいます。そんな彼は、ヴォルデモートに「よけいな者」と言われました。

 

ハリーの息子アルバスと、ドラコの息子スコーピウスは、ハリーのせいで殺されたセドリックを助けようと過去に戻ります。


でも、なぜセドリックだったんでしょう?物語内ではセドリックのお父さんが出てくることでその理由は示されますが、メタ的に見ると、ハリーの周りで亡くなった人は大勢いるので、「なぜセドリックなのか」という疑問は残ります。

なぜなら、セドリックよりも印象的なーメジャーなー亡くなったキャラクターはたくさんいるからです。スネイプ、ダンブルドア、ハリーの両親、ルーピンにトンクス…。

 

それでも4巻でしか出てこなかったセドリックに焦点があたったのは、何か意味があったんじゃないか。

私が思ったのは、「名もない人の死」を弔うということ。作中でメインキャラクターでなかったセドリックの死は、そのときは大変ショックだったけれど(私はセドリックの死以降、ハリポタのトーンが変わった、シリアスになってい、ったように感じた)、巻数を経るごとに忘れられていきます。少なくとも私はそうでした。

 

でも「呪いの子」で出てきたセドリックのお父さんのように、ハリー達の側ー読者側ーはあまり覚えていなかったとしても、その死をずっとひきずっている人はいます。

 

現実世界でも、災害や戦争、テロにおいて、名もなき人達ー一般市民ーがたくさん亡くなることがあります。でも彼らの名前は、表に出てくることはない。70人や110人、5000人と言った数字にひっくるめられる。次の大きな被害があったら、その人たちは、忘れられてしまう。

次の大きな死ーシリウスとかダンブルドアとかスネイプとかーがあったあとに、セドリックの印象が薄れたように。

 

でも、「名もない人」も誰かにとっては忘れられない人であるし、世界のほとんどの人は、この「名もない人」だ。そして平和は、名もない人たちが、つまり私たちが、日々を無事に暮らせるように願うものだ。「名もない人」の死は他人事にしがちだけれど、広い文脈では自分事のはずだ。

 

だから最後、アルバスとハリーがともにセドリックのお墓参りに行くシーンで終わる。セドリックを悼むために。その死を、「名もない人」の死を弔うために。マグル界の私たちもそういった人たちの死を忘れず、弔うように。

 

呪いの子って誰のこと?

「呪いの子」の原題は「the cursed child」で、意味としては「呪われた子」です。この呪われた子って誰のことなんでしょう?

ハリーポッターという「魔法界のヒーロー」の息子である、重圧を感じているアルバスかもしれないし、ヴォルデモートの子だと噂されているスコーピウスかもしれないし、ヴォルデモートの実の子であるデルフィーかもしれないし、過酷な運命を背負ったハリー自身かもしれません。

私は誰でもあり得るかなと思っています。「Harry Potter and the cursed Child」というタイトルを素直に受け取ったら、アルバスかなという感じです。

 

そういえば、今回の話ではドラコとジニ―の意外な関係がわかります。ドラコは、ハリーたち三人の友情がいつもうらやましかったとハリーに言います(P.179)。それを受けて、ジニ―は「私もそうだった」と。

また、ドラコもヴォルデモートも、孤独だった、だから暗い方へと引き寄せられていった、そしてジニー自身もそうだったと認めるような発言をしています。ジニーも「秘密の部屋」でヴォルデモートにのっとられたことがありますね。二人を描くことで、ハリーたち3人の友情がどれだけ強固なものだったのか、ハリーが暗い方向へ行かなかったのは、ハーマイオニーとロンがいたからだということが、間接的にわかります。

 ★★★

ハリーポッターは初めて手にとって以来もう10年以上は経ちますが、今だに小さいころと同じように、ハリポタ界に引き込まれます。つらいときにハリポタがあって助かったことも、シリウスの死が哀しくて号泣したこともよく覚えています。


この引き込まれる力こそがハリーポッターの魔法だなあなんて、小さいころは、そして今でもそう思っています。

★★★

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