思考の道場

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「聲の形」映画感想/考察と、監督インタビュー集-「顔を上げる」ということ

 

少し前になっちゃうのですが、映画「聲の形」を鑑賞してきました。前回までの山田監督映画「けいおん!」や「たまこラブストーリー」とはうって変わって、ずっしりとのしかかる映画に仕上がっていました。勿論それは悪いことではなくて、よりリアルに感じられるということでもある。映画を見て感じたこと、思ったことをつらつら書いていきます。※ネタバレありです。

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賛否両論の映画

公開日に見に行って思ったのが、きっと賛否両論の映画になるだろうということ。というのも焦点があたっているのが、耳の不自由な硝子をいじめていた将也なんですね。将也を中心に話は進んでいくので、見ようによっては硝子が都合よく描かれているように感じる。将也と友達になりたがったり、再会して許したり、好きになったり。

硝子の内面の葛藤も描かれていなくはないですが、映画がそこにフォーカスしていくわけでもないし、いじめていた人たちが反省する映画でもない。道徳的教育的見地から見ると、批判もあると思います。

 

でも監督がインタビューで言っているように*1、この映画は将也の物語。将也がどうやって最終的に「顔を上げるか」という話で、そこにフォーカスすると、とても丁寧に描かれた映画のように感じました。元々原作がある映画なので省略された部分はたくさんあると思います。その中で主人公の将也に焦点を当てたということに注目した上で、この映画を評価しています。

 

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「顔を上げる」ということ

この映画は文字通り、というか画面通り、将也に始まり将也で終わります。将也が橋から飛び降りようとしているシーンに始まり、彼が顔を上げて、周りの世界の美しさに気付くシーンで締めくくられます。将也に絞るとこの映画は、前回の「たまこラブストーリー」と同じく、シンプルなストーリーを基に進みます。「自分を許し、受け入れ、そして他者や世界を受け入れる」という話。とまとめちゃうととてもシンプルですが、シンプルなものほど実際に行うのはとても難しい。

 

将也は小学生のときに硝子をいじめたことがきっかけで、今度は自分がいじめられるようになります。その経験を経て、「自分は生きているに値しない」と思うように。その後高校生になって、硝子に再会しにいくところから、話は始まります。

将也の周りの人たちの顔には、大きくバッテン印がついています。そして学校の廊下を歩くとき、耳を塞いだり、顔を下に向けたりしている。他者が怖く、向き合えていないということを視覚的に表しています。そんな彼は硝子に再会しにいったことをきっかけに、小学校の頃の同級生と会い、今の自分がこうなった原因である過去に向き合うようになります。

 

将也は硝子にたいして罪悪感を持っているのですが、硝子だって彼に罪悪感を抱いているんですよね。そもそも硝子は小学生のころの将也にも、「友だちになりたい」と伝えています。将也はそもそもどういう子だったかというと、退屈しやすい子だったんですね。クラスのリーダー格だったから、ある意味自分の世界では、いろいろと思い通りに進む。ゲームが簡単だとつまらないように、思い通りになる環境は退屈しやすい。 

だからこそ硝子が転校してしたとき、ラスボス!というゲームのシーンがありますが、あれには将也が彼女に興味を持ったきっかけが端的に表されている。単純な興味と好奇心だったはずなのに、彼はそれを上手く硝子に伝えることができずに、いじわるする形になってしまう。小学生の男の子が好きな女の子をからかうとはよく言いますが、将也の硝子に対する接し方も、それに近かったのではないでしょうか。

 

「あなたのこともっと知りたい」と将也は思っていますが、硝子もいやがらせに対して怒るわけでも、立ち向かっていくわけでもありません。将也にしては「のれんに腕押し」状態だったかもしれない。

そんな硝子に対してだんだんといらだっている描写もあり、遂に放課後の教室で取っ組み合いにもなります。この取っ組み合いが、将也と硝子が初めてぶつかったシーンだと思います。そして硝子にとっては、初めて自分の気持ちをぶつけられた他者なんじゃないでしょうか。だからこそ硝子は、将也のことを忘れてはいませんでした。硝子にとっては、将也は不器用でネガティブな形であれ、自分に対して向かってきた相手だったんだと思います。

 

将也が自分を許し受け入れていく大きな契機って何だったのかなと思っていたのですが、私は飛び降りようとした硝子を助けたときなんじゃないかと考えています。あの時の将也は無我夢中で硝子に駆け寄り、初めて下の名前で「しょうこ」と呼ぶ。

二人とも助かったあと、将也は硝子に「君に生きるのを手伝ってほしい」と伝えます。将也はこのことをきっかけにして、初めて自分から能動的に他者を求めた(求めていると気づいた)のではないでしょうか。「あなたが必要です」と伝えることは、その相手にとっても希望になりえます。

 

自分を許したり、受け入れるのって、他者が必要なんじゃないか。そんなのどうでもよくなるくらい、「あなたに生きていてほしい」と思えるということは、それくらい他者を受け入れているということです。「自分を許す→受け入れる→他者を受け入れる」という順番かと思っていたけれど、「他者を受け入れる→他者を受け入れた自分を受け入れる」ということもあり得るんじゃないか。

自分を受け入れられないと他者も受け入れられないように感じますが、そんなの飛び越えるくらい、誰かを大切に思う、必要とするということがある。将也にとって硝子はもう、罪悪感を抱く相手でも、謝らなければいけない相手でもなく、生きていくのに必要な相手なんだと。

 

でも将也が自分自身を受け入れられたと実感できたシーンは、ラスト学校の文化祭で顔を上げるところだと思います。このシーン、将也の周りの世界はとても美しく描かれている。みんなの雑多な笑い声、色とりどりの飾りつけ、笑顔。将也は初めて、世界がこんなに美しかったということに気付いたのではないでしょうか。

でも思えば、この映画では終始風景や背景はとても美しく描かれているんですよね。そう、世界はすでに将也を受け入れている。美しく包んでいる。でも自分が顔を上げないと、そのことに気付けない。どんな人にだって、「世界は既に美しく存在している」という事実は、私たちを支えてくれます。たぶん自分を受け入れるということは、世界に支えられていることに気付く、ということでもある気がします。

 

顔を上げるのも自分を受け入れるのも許すのも難しいけれど、世界はそこに存在している。将也がこのことに気付くラストシーンは、一番の見どころ、というか、今までのシーンが全てここに向かっていったように感じました。

 

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耳が不自由という「個性」

この映画では硝子の聴覚障害を「個性」として描こうと試みているのではないでしょうか。だからこそ、この話は障害やいじめといったテーマに終始しているわけではない。

それを一番描いているのは、同じく小学校のときの同級生、植野のシーンです。彼女は硝子の障害のために、硝子を慮ったり、優しくしたり、彼女に配慮するということがありません。それは傍から見ていると「やなやつ」なんですが、その分真っすぐ硝子にぶつかっていきます。「あなたが大嫌い」と真正面から言える人なんて、この世界でどれほどいるでしょう。そんなにいないんじゃないんでしょうか。

 

植野は硝子を、自分と同じ土俵にいる一人の女の子として見て、言わば将也を挟んでライバルになり得る相手として、対等に接します。だからこそ、転校生で耳が不自由という、将也の興味を惹く硝子がうとましいし、妬ましく感じます。また、将也と植野がぎくしゃくし出した原因として硝子を見て、嫌いになります。

でも硝子はそう言われても、冷たくされても、植野にぶつかっていくことができません。「私が悪いから」「私は私が嫌い」と自分を責めます。自分を責めるというのは一見反省していてよいことに見えつつも、目線が自分に向かっていて、相手に向いていないんですよね。そのことを嫌い、「私に向かってきて」と伝えられたのが、植野なんだと思います。硝子と将也が「好き」という感情でぶつかっていくように、硝子と植野は「嫌い」という感情でぶつかっていく素地があるのです。

 

よく好きの反対は嫌いじゃなくて無関心と言いますが、「嫌い」という感情は「好き」と同じくらい、場合によってはそれ以上のエネルギーを使います。「嫌い」と伝えることは同時に、「あなたのことそれだけ関心を持っている」と伝えることでもあります。

 

ラストの方で植野が硝子に手話で「ばか」と伝え、それに対して硝子が「ばか」と返すシーンがあります。植野は手話で伝えることで「あなたともっと話したい」というメタ・メッセージを送り、硝子はばかと言われて落ち込んだり、自分を責めたりすんではなくて、「ばか」と返します。同じ言葉を返すということは、「あなたの言葉を受けとった」というメッセージであり、同等の言葉を言うことで初めて植野に向かいにいったということではないでしょうか。

 

コミュニケーションの基本はキャッチボールであり、同じ言葉をおうむ返しにして、「私はあなたの言葉を受け取った」と伝えることだとも言います。だからこそ、この「ばか」とお互いに言うシーンは、この映画において最もその後の可能性を秘めていたシーンだと感じました。硝子は引け目を感じることなく、植野と対等に接していくことができるようになるんじゃないでしょうか。

 

普通は個性とみなされないものを個性として描いたものとして、「魔女の宅急便」が挙げられます。キキは空を飛べるけれど、スランプだってある。その個性を活かしてどう他者と、自分と向き合っていくか、というのは魔女ではない私たちの普遍的なテーマでもあります。

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耳が不自由ということを理由に引け目を感じたり、他の人が慮って距離を置くのではなく、それを踏まえた上で「だから何なのよ」とぶつかっていく植野みたいに、個性として捉えていくことは、新たなコミュニケーションの可能性を示唆しているのではないかと思います。

 

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橋と水

映画で頻出するのが橋、そして川などの水です。将也と硝子が待ち合わせするのは橋の上が多い。橋は離れている二つの場所を架けるので、歩み寄りたい二人の心情を表していると思います。

水はどうでしょうか。川に飛び込んだり、水の中に入るシーンが多いのですが、私は何だろう、いろんなものを取っ払って原点に帰る、というようなイメージを抱きました。お母さんのお腹の中にいるときに、戻るみたいに。

水の中では目も耳も呼吸も不自由になるので、水は障害になりえます。でも逆に、水に包み込まれている。人と人との間の空気や距離も、水みたいなもので、コミュニケーションを阻害するけれど、でもそれがないと伝わらないし(音は空気を伝わるし)、私たちを包み込んでいる世界も空気や何かとの距離なんですよね...うーん水については色んな解釈ができそう。まだ釈然としないので、考える余地ありな部分です。

 

後味の悪さ

 この映画を見終わったあと結構ぐったりしてしまったんですが、それはカタルシス的描写が少なくて、後味の悪さが残ったからだと思います。悪い意味ではなくて、「考えさせられる」という意味でです。将也も硝子も植野も、誰一人としていい人が出てきません。自分もいじめてしまう、自分を嫌いになってしまう、自分可愛さゆえ傍観者になってしまう可能性があると思ったからこそ、誰もが映画の中の誰かであり得ると思いました。それだけ普遍的な人物の描き方をしているところが、この映画の、この監督の強味だと思います。

 

映画の尺のわりに登場人物が多くて一人ひとりの描写が深くできなかったり、途中中だるみしたり、もう一度見るのにエネルギーが要ったりともったいないかなあと思った部分もありますが、これまでのシンプルなストーリーの骨子の上に、コミュニケーションの難しさ、障害の捉え方、いじめの問題、家族のあり方といった複雑な要素を重ねて、より複層から成る映画になっていたのは、今後山田監督がつくる作品への更なる拡がりと可能性に思えます。

 

まだまだ演出面など考察できていない部分がたくさんあったり、見逃して勘違いしている部分もあるかと思うので、気付いたら随時更新していきます。

 

最後に、監督のインタビューがけっこうウェブでも見れるので、リンクを。

 

映画「聲の形」監督に聞く「開けたくない扉を開けてしまった感じでした」 - エキレビ!(1/4)