「責任」について考える
「責任」という言葉を聞くと、私はネガティブなイメージを持ってしまう。
責任を「負う」と表現するように、できれば抱えたくないもの、というイメージがそこにはある。
「責任」という言葉で最近思い浮かぶのが、「自己責任」と、「ようかいのせい」と言うフレーズである。
「ようかいのせい」というのは、何気なく自分も歌っていて、ふと気がついたのだが、朝寝坊したのも自分がふられたのも全部ようかいのせい、という歌詞なのである。
ボクが悪いんじゃなくて、ようかいのせいなんだ、と言うのは、自分にはそうなった責任がない、という言説である。何とも極端だなあ、と思ってしまった。
もう一つ極端だなあ、と思うのが所謂自己責任論である。
ビンボーになったのも仕事をクビになったのも殺されたのも全部自分のせいである、自己責任である、という言説は、一見「全部ようかいのせい」という言説と対極にあるように感じる。しかし、自己責任という言葉が、それを言った当の本人に向けられることは少ない。「そうなったのは、全てお前の自己責任だ」というように、自分以外の人に向かって発するときに、使われる言葉である。故に「ようかいのせい」の後にも「自己責任」の後にも、「だからそう言う自分は悪くないんだ」と言う言葉がくっつくように思われる。
「責任」をネガティブなものとして捉えているから、そのような言説になってしまうのだと仮定して、ここでは「責任」を別の観点から捉えてみたい。
「責任」を英語で言うとresponsibilityである。ちなみにドイツ語だとdie Verantwortungだ。
responsibilityはresponse(応答する)から来ている。
die Verantwortungはantworten(答える)からである。
日本語にすると、「応答」と言う言葉が近いと思う。
その原型は、誰かに呼びかけられて、その誰かに応える・答えることである。
呼びかけられたら、答える。これが人としての義務なのではないか。
呼びかける誰かは、人に限らない。神様でも動物でも自然でも、それら諸々を含めた自分以外の誰かが、「他ならぬ私」に呼びかけている。
誰かに呼びかけられた瞬間に、答えないと、自分も自分に呼びかけた相手も、なかったことになってしまう。
呼びかけに応じる、ということは、関係性を構築する、ということでもある。
私は、「自分=他ならぬこの私」というものは、人との関係性の中にしか生まれてこないと思っている。
呼びかけー応答 のやりとりの中で、初めて「誰か=自分以外の他者」と「自分=他ならぬこの私」が同時に発生する。
「あの、すみません、」より「ちょっと、そこの君、」より「ねえ、○○(自分の名前)」で呼ばれた方が嬉しく感じるのは、誰かが他の誰でもない自分に呼びかけているんだ、というのがストレートにわかるからではないか。
話が逸れてしまったけれど、私は「責任」というのは、「呼びかけている相手に応える」ことだと思う。
仮に呼びかけられている相手が自分じゃなかったとしても、呼びかけられているのは自分だと引き受けて応えること、それが「責任」なのではないか、と思う。
「責任」の中で自分というものが生まれるのだとしたら、それは忌避するものではなくて、むしろ積極的に引き受けるべき・引き受けたいものなのかもしれない。