思考の道場

答えのない、問いのまわりをぐるぐると。

「しあわせ」について考える

しあわせ。誰もが人生で重視する、もの。

でもしあわせの中身は人それぞれ。何がしあわせかは、他の人を見たってわからないはずである。

でも、つい私たちはしあわせになるためには一定の条件が必要だと思ってしまう。

いい人と巡り合って結婚して、一途に愛してくれて、やりがいのある仕事につけて、上司と同僚に恵まれて、収入そこそこあって、持ち家があって、半年に一回くらい旅行に行けて、子供二人に恵まれて、いい学校に入れて、両親は末永く健康で、自分の老後が保障されてて・・・・・・。

 

と、「一定の条件」を出し始めるときりがないのである。

なぜだろう。しあわせは人それぞれだと皆わかっているはずなのに、なんとなく、ある条件をクリアしていないと、しあわせじゃないように思ってしまう。

 

私は、しあわせは手に入れるものじゃなくて、感じるものだと思っている。つまり、究極的に言えば自分次第なのである。

どんなにお金もちで人に恵まれて才能に恵まれていたって、自分がしあわせだと思わなければ、その人は不幸である。「いや、世の中にはもっとお金もちでいいパートナーと子供に恵まれていて、自分より才能がある人がいる。だから自分はまだまだしあわせではない。」というロジックである。他人と「しあわせ」を比べてしまうのである。もっと上には上がいる、という思いは、現状を超えてゆくと言う意味では向上心の原動力になるから、勿論いい側面もある。

 

でも、それではいつまでたっても現状に満足できない、人と比べてるからしあわせになれないのだ、自分なりのしあわせの定義を見つけよう、という考えがある。独身だって、子供いなくたって、華やかな仕事に就いていなくたって、しあわせだ。そう考える人は静かに増えているというか、生き方としては主流になりつつあると思う。

 

しかしながら、上記の考えも、しあわせとは○○である、と定義していることには変わりはない。

 

私は、しあわせとは定義するものではないと思っている。だから、手に入れるものでもない。いかに発見するか、気付くか、そこにしあわせはあると思う。

 

しあわせとは、自分に祝福を、そして周りに祝福を送ることだと思う。

この両親の下に生まれてきたこと。この時代に、この国に、この地に、生まれてきたこと。自分の大切な人が周りにいること。太陽が毎朝のぼること。風が木の葉をゆらすこと。自分が「生きている」ことを含め、身の回りのことは、自分のコントロール、そして人知を超えている。正に奇跡である。

 

当たり前だと思っていることが、いかに当たり前ではないか。一時間後に生きている保障なんて、本当はどこにもない。いつ死ぬかもわからないまま、私たちは生きている。そう思うと、いま自分が息をして、生きていることが文字通り「有り難く」思えてくる。

 

私たちのしあわせは、当たり前だと思っていることの「有り難さ」に、いかに気づけるか、感じられるか、にかかっていると思う。それは、周りの環境よりもむしろ「自分」に負っているものではないか。自分の生きている立ち位置を相対化し、俯瞰して自分を見つめる。自分が生きていること・存在していることの不可解さ、不思議さに気付く。その瞬間、世界はがらっとその色を変える。

 

とはいえ、当たり前だと思っていることの「有り難さ」に気付くのは、個人的には難しいと思っている。人はどんな状況に置かれたって、ある程度は慣れてしまう生きものだからだ(それがいい状況であれ悪い状況であれ)。普段からいかに、身の回りを相対化できるか。しあわせは、そういう意味で努力というか、精進が必要とされるかもしれない。

 

「生まれてきてくれてありがとう。」そう自分自身に言えることが、私たちが最も幸福なときである。