思考の道場

答えのない、問いのまわりをぐるぐると。

村上春樹の文章

 前に内田樹さんのどこかの本で、村上春樹倍音を奏でる作家だと書いていたけれど、

「遠い太鼓」の一行目を読んで、これか!と合点がいった。

 

「その三年のあいだ、僕は日本を離れて暮らしていた。」

 

「その」というのは、既に自分と相手の間の文脈の中で指示されたものを指す。

「その三年」と読んだ瞬間、私は「どの三年だろう」と反射的に思い、その先を読み進めていた。

「あの三年」というと、現在の自分が、過去の自分を振り返って語り掛けるニュアンスがある。

言わば、語りは作家自身を巡りの中で完結している。

しかし「その三年」と言うのは、作者と読者の間で共有された三年を暗に示している。作者の語りの中に、否応なく読者は引き込まれていく。

「その三年」からこの文章は始まるので、この文章は最初から読者を含んでいるのだ。

 

「遠い太鼓」は紀行文なので、勿論作者の経験を追体験するだけなのだが、「その三年」を読者は生きているのであり、その中に含まれているので、他人事のように読めない。だから文章に引き込まれていくような気がする。

 

「あの」ではなく「その三年間」と書き始めるだけで、読んでいる自分の感覚は少し違う気がする。

私はこの冒頭の一行が好きだ。

なんてことのない、簡潔な文章なのだけれど、逆にそこが好きである。

 

イタリアもギリシャも行ったことがないけれど、読んでいて鮮やかに情景が浮かび上がる。そして、読んで思わず笑ってしまう文章にも久々に出会った。

 

本には様々な読み方、楽しみ方があるけれど、こういう好きな一文に出会うのも、楽しみ方の一つだと思う。

 

 

遠い太鼓 (講談社文庫)

遠い太鼓 (講談社文庫)

 

 

同時期に「やがて哀しき外国語」を読んだが、こちらはアメリカ滞在記のもの。

「遠い太鼓」と比較しながら読むのも面白い。

本質的に「馴染みのない」言葉に囲まれることの寂しさや、日本語への恋しさ、みたいなものもつづられていて、現在海外に住んでいるので響く部分が多々あった。

 

 

やがて哀しき外国語 (講談社文庫)

やがて哀しき外国語 (講談社文庫)