恋愛以外の「耳をすませば」
ジブリ続きですが。
耳をすませば と検索すると、候補で「鬱」と出てきたので見てみた。
確かに、と思ってしまった。
まっすぐで、夢があって、一生懸命で、思いあう人がいて・・・とキラキラまぶしい。
私も中高生の頃は見ていられなかった。つい、いじけてしまうのだ。
ただその後見たときに、しずくの「小説を書く」という物語に注目して、見方が変わった。
こちらでも書いたけれどこれも「魔女の宅急便」と同じく、才能を巡る物語として見ることもできる。
印象に残っているのが、しずくの夢の中のシーンと、最後におじいさんの前で泣き崩れるシーン。
夢の中でしずくは、バロンに導かれて、光っている鉱石を探す。
光っている鉱石に飛びついても、すぐに光は消え去り、また別の場所で光りだす。
そうこうするうちに、地面でひときわ輝きだす鉱石を見つける。
その鉱石を取り出し、手に取る。
光は徐々に収斂していき、その鉱石を見ると、それは鉱石なんかではなく、ひな鳥の死骸だった。
しずくは叫び、夢から覚める。
短い、あまり本編と関係ないシーンだけれど、私はついしずくの心境を推し量ってしまった。
しずくはおじいさんに自分の書いた物語を見せた後、「上手く書けなかった。書きたいという気持ちだけじゃだめなんだ」と言う。
上記の夢は、正にこの気持ちを反映している。
「物語が好き」「好きな物語を書きたい」という気持ちで書き始めたしずく。
上手く書けない自分に気づき、「才能がなかったらどうしよう」という不安や恐怖に襲われる。
「好き」と「得意」は必ずしも一致しない。
聖司に刺激を受けて、聖司がバイオリンなら自分は物語だと飛びついた、「書く」ということ。
好きだから、書けると思っていた。
好きだからこそ、上手く書きたい。
でも上手く書けない。
物語を書く、ということは間違っていたのかもしれない・・・好きなことに取り組んだからこそ、芽生えた不安と恐怖。
誰もが一度は考えるであろう、「好きなこと」と「得意なこと」≒才能のアンバランスさに悩む気持ちが、この夢に象徴的に表れている。
もう一つ、最後にしずくがおじいさんの前で泣き崩れるシーン。
聖司が好き。
でも好きだからこそ、聖司がどんどん先に行ってしまいそうで焦る。
自分も肩を並べて歩きたい。
聖司にとってのバイオリンのように、私にとっての物語であってほしい。でも・・・という感情。
こちらも思わず感情移入してしまった。
身近な人、特に大切な人だからこそ、比べてしまい、焦ってしまう。
お荷物だけにはなりたくない。「その人だけ」、その人中心の自分なんて嫌だ。
焦りや不安、恐怖といった、「好きなこと」に向かい合ったからこそ出てきたしずくの感情を取り上げると、この映画はただまぶしい青春映画じゃないんだな、と思う。
中高生だけじゃない。もっと普遍的な、これも「才能」をめぐる物語と言える。
「好きなこと」というけれど、私は「好き」ということも一種の才能だと思う。
意識して恋に落ちるわけではないように、意識しなくても、好きなことってある。
好きになれただけで、それは一つの才能だ。
ただそこから「職業」という、他人との相対比較になるカテゴリーに飛び込むと「得意なこと」という別の尺度が入ってくる。
また、好きなことを突き詰めようとすると、「上手くできない」「思ったようにできない」という状況にぶちあたる。
きっと永遠に「正解」は出ないテーマで、だからこそ一人ひとりが答えを見つけていくしかない。
進路に悩んでいたり、好きなことに向き合っているときに見ると、当たり前だけど、自分だけじゃなくて、普遍的な悩みというか、テーマなんだな、と思えて、私にとっては解決するわけじゃないけれど、勇気づけられる作品。