思考の道場

答えのない、問いのまわりをぐるぐると。

周りの目が気になるときは、自分に目が向きすぎているとき

あ、今気が利かないって思われたかな。

ばかだなって思われたかな。

失礼って思われたかな。

 

.......などなど。人に囲まれて、というか学校や職場という人間関係に囲まれていると、まあ一度くらいは考えてしまう、この問い。

 

周りが気になって仕方ないときって、ありますよね。自分にばかりベクトルが向いてしまう、そんなとき。

 

どうして自信が持てないのだろう、人から認めてもらいたい、自分自身を認めれるようになりたい、嫌われたらどうしよう、などなど。そして負のスパイラルにはまっていきます。

 

そういうとき、周りの人からどう思われているかが気になっているので、外に関心が向いていると思いがちです。だから「周りは気にするな」というアドバイスが多い。

 

でも実は、周りが気になるときって逆に、ベクトルがとことん自分に向かっているときなんですよね。要は関心が自分に向きすぎている。「私は周りからどう見られているんだろう」と、主語は「私」なんです。

 

そういうとき、「周りを気にするな」と思うのも間違ってはないけれど、私は意識して他の人に関心を向けてみるようにしています。あの人、元気かな?とか、あの人のこういうところ、好きだな、とか、そういう些細なところから。人は誰だって、多かれ少なかれ承認欲求を持っている。自分が人に認めてもらいたいように、他の人も認めてもらいたいんだな、と思えると、ふっと気が楽になるし、自分ができることに関心が移っていくはず。

 

あとは、 やっていることの先にいる人。仕事って、職場の人のためにしているわけではありませんよね。必ず、自分が携わっているサービスを使っている人は外にいる。そのやっていることの先にいる人を見る。勉強だと自分のためにやるって意識が強いですが、その先にあるのは、誰かのために知識を役立てることだと思います。

 

外へのベクトルは、何も他の人だけに向けるものではありません。周りの景色や風景を落ち込んだ時なんかは、見てるようで全然見ていないものです。意識して周りに目を向けて、「何かを見る」だけで、心が落ち着くことがある。刻一刻と変わる夕空とか、鈍く光る欠けた月とか、アスファルトの隙間からひっそりと顔を覗かせる、野花とか。

 

そう、外に目を向けると、自分の存在を忘れられるから。

「我を忘れる」ほど 、何かに没頭して自分という意識が消えているときほど、楽しく生きられるというのは、どうやら真実で。それは「私」を生きているんじゃなくて、「今」を生きているからでしょう。

 

どうも人は、自分の存在を忘れているときが、一番調子がいいみたいです。

 

★★★

我を忘れるっていうことについては、この記事でもふれています。

 

chikichiki303.hatenablog.com