哲学書を面白く読む方法(というよりは一つのアイディア)
私は哲学書が上手く読めない。
上手く、というのは、きちきちっと論理的に理解して、それを後々の勉強に活かすということが中々できない。
まあつまり、素早く理解できない。し、読んだはなから忘れてしまう。私の頭はそこまで上手く哲学的にはできていないのだろう(いかんせんびびって哲学科には行かなかった)。
だけれど、面白くは読んでいる。
面白い哲学書じゃなくて、一見堅苦しい哲学書を面白く読む方法。
それは、書き手である思想家のテンションをつかむことだ。
私が初めて哲学書って面白いなあと思ったのはマルクスの「経済学・哲学草稿」である。
資本主義を分析した初期の著作。「冷たい」著作かと思えば、若き日のマルクスの、労働者に対する資本家の搾取に対する強い憤りと、何とかして変えねばならない、という熱い思いがびしばし伝わってきた。
ああそうか、マルクスも人間なのか、という当たり前のことに気付いた瞬間。
いわゆる哲学者は歴史や倫理の授業で触れるだけで、私たちにとっては歴史上の、教科書の中だけに出てくる人である。それはすでに銅像になっていて、冷たく硬く、沈黙している。
哲学は教養だから・・・と言って哲学を学ぶとき、多くの人がまず手に取るのは原著ではなく、研究者が書いた入門書だろう。「カント入門」とか新書コーナーに並ぶ類の。
かくいう私ももれなくそのうちの一人だったのだが、それがよくなかった。いかんせん、どれだけ初心者でもわかる(はずの)入門書でも、避けられない専門用語。現象学とか経験論とか大陸合理主義とか漢字がたくさん出てきて、それをまた調べているうちに力尽きる。そしてこれじゃあ原著はまだ読めないなあと判断してしまう。
でも本当は原著の方が何倍も面白いのだ。その思想家が自分の、生身のどうしようもない現実から生まれた考えがぎゅっとつまっている。わけがわからなくとも、ぐいぐい読ませる。
ニーチェとかマルクスとかフロイトとかが身近に感じられたら、こっちのものである。
勿論合う合わないはある。時代や哲学者の思想そのものが合わない場合もあるし、若い頃に書いた作品は合わなくても、老いてから書かれた作品が合うこともある。翻訳にもかなり左右される。
ちなみに私自身は、若い頃に書かれた粗削りのもの、デカルトに始まりカントで完成したとされる近代的主体性が崩れ始めたあたりの哲学書が好きだ。
例えばニーチェの「悲劇の誕生」。
ギリシャ悲劇の成り立ちをを論じてるだけかと思えば、理性が支配し、芸術が娯楽になっている「現代」(1872年に出版)社会の批判につながっており、射程が幅広い。そしてその批判は今にも通ずると思う。
ニーチェの処女作であり、わずか27歳で書いた著書からは後のニーチェに繋がる思想がほとばしる。(ちなみに上記「経済学・哲学草稿」はマルクス26歳のときのもの。両方とも荒々しくごつごつしているけれど、それ故に揺さぶられる。)
さて、最近好きなのはメルロポンティ。
- 作者: モーリスメルロ=ポンティ,Maurice Merleau‐Ponty,中山元
- 出版社/メーカー: 筑摩書房
- 発売日: 1999/03
- メディア: 文庫
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主体でもなく客体でもない「私」を、「身体」という概念でとらえている。
本書は身体性だけじゃなくて、言葉についても、哲学についても、芸術についても述べられている。
体系的にポンティの思想をつかむことは難しいけれど、ポンティを「感じる」にはうってつけの一冊。味わい深い文章が各々の彼の著書から選び抜かれている。
哲学の定義を、本質を探す試みと考えることも、事物との合致と考えることも誤りであろう。……哲学とは、沈黙と言葉を互いに転換することだから。
メルロ=ポンティ・コレクション P.109-110,114
ちなみに私はこれ(正確に言うとこの一節が含まれる文章)を読んで、「知りたい」から「表現したい」と思うようになった。 哲学書から具体的に影響を受ける日が来るなんて思ってもいなかった。遠く感じた哲学を、身近に感じる。
とはいえ、哲学の大体の流れをざっと頭に入れておくと、大きなマッピングができて哲学書が読みやすかったりもする。私は以下の二冊の本にお世話になっている。
一人ひとりの哲学者の思想の詳細はのっていないけれど、ギリシャ以前から現代にいたるまでの流れがつかみやすい。
こちらは哲学の基礎的な用語がのっており、哲学書を読むときの辞書替わりにもなる。
コムズカシイ哲学書を誰よりも先に読み、議論をふっかけるのがかっこいいとされた時代はとうに終わり、難解な哲学書を読むのは時間の無駄、読むひまあったら「一流の人だけがやっている38の習慣」とか読んでいる方がいいかなと思われる昨今である。
哲学はよくて「グローバルに戦うビジネスマンの武器の一つ」だろう。
だけれど武器の一つにされるだけでは、人文系を学ぶ者にとってはやっぱり寂しい。
でも難しい、理解できない。だったら理解しようと思わなくていいじゃないか。おもしろく楽しく読めればいいじゃないか。
と私は半ば開き直って(?)、ある意味では小説を読むように哲学書を読んでいる。
心に刺さった文章に線を引っ張り、あたかも気に入ったフレーズを集めるかのように。
逆に、小説を哲学書のように読むことも多い。物語を楽しむのは勿論だけれど、作者の考え・思想を拾うことで印象に残っている本もたくさんある。
少なくとも私は、小説だから、哲学書だから、架空の話だから、抽象的に語られているから、こうやって読めばいいや、とジャンル分けして読むよりは面白いんじゃないかと思っている。
哲学は、大学の地下の書架に冷たく横たわっているわけではない。
血が通っていて、あたたかくて、あなたのすぐ隣で息づいているのだ。