思考の道場

答えのない、問いのまわりをぐるぐると。

一界隈のブログの文体について、ふわりと。

このブログを始めてかれこれ一年が経とうとしています。


でも見ているだれかを考えて書いていたわけではなくて、純粋に自分用の忘備録としてつけてたので、メモカテゴリの記事がたくさん。
 
そんな感じで去年までつけてたんだけれど、あるときぽちぽちとスターをおしてもらったことがあって、こんなメモみたいな(というかメモなんだけれど)ものもだれかに届いているんだ、、、!と嬉しくおもしろくなって、今年から発信用のブログとしてスタートすることにしました。
 
そんな中、悩んでいるのが文体。
メモ用に、普段もやもやと考えているものを言語化する場としてブログつけてたから、文体は気にしていなかったのだけれど、
読んでいる人を想定するとどんな文体がしっくりくるかいまいち掴めず、文字がふわふわ浮いているのです。
 
手紙とかメールだと具体的な相手がいるから、語りかける文体がしっくりくるのだけれど、
もやもやとした考えを掘っていくときは、受験のときに書いていた小論文や大学でのレポートの型がしっくりくるし。
 
ブログは手紙ほど具体的な宛名があるわけでもないし、理論上は世界中に発信されていて、
でもかたや自分自身のためにも書いているところもあり、立ち位置がむずかしい。
 
だから文体も、手紙と論文の間を行ったり来たり。
そう思うとブログはその間にある気がしてきた。
 
文体って入れ物のような気がして、中身である内容のほうが大事だと思っていたんだけれど、
文体がゆらゆら揺れているいま、中身である内容も文体によって変わってくるなと感じているのです。
 
私は書いていく中で思考がクリアになっていく感覚、一歩霧の中を進んだ手応えを大事にしている。
ということは、選んだ文体、選んだ言葉によっても出てくる思考はすこうしずつ違ってくるはず。
〜ます。ですよね。で終わらせた文章のあとは、柔らかいけれど少しふわふわしたマシュマロみたいな話が出てくるし、〜である。〜だろうか。で終わらせた文章のあとには、硬いけれどどっしりした、ピーナッツみたいな話がでてくる(ような気がします)。
文体、ひいては言葉は入れ物ではなくて、その中身である思考や内容と切っても切れない腐れ縁的関係にあるんだということを、ブログで書いているとひしひしと実感します。
 
そうそう、この記事ははじめてスマホから書きました。
 
スマホはパソコンよりもからだに近くて、靴の裏から地面のでこぼこを感じるように、徐々に身体が拡張したもの、身体の延長になりつつあるきがします。そして画面に直接触って文章を綴っていくので、パソコンよりも、指先から直接、頭の中身が流れ出ていくような感覚になります。
 
その感覚の違いによって、パソコンのキーボードをぱたぱたたたいて生まれたものと、スマホの画面の上で指をするする滑らせて生まれたものが、どう違うのか、というのもいまからしてみたい試行錯誤のひとつ。
 
手紙でも論文でもレポートでもニュース記事でもネットのバズる記事でもない、そんな一界隈のブログ(というかネット上の)文体は、これからもっともっと面白くなる。
 
そんな予感(というか期待)を勝手に抱きつつ、私もふわりと試行錯誤してみようかなと思います。
 
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