物語を展開することと、遠くに行きたい願望
ここではないどこかに行きたくて、からだがむずむずする。
そんなからだを伴って、私はここ遠く離れたドイツにいます。
ドイツ語にFernweh(片仮名で書くとフェルンヴェーかな)という言葉がある。
Homesick(ドイツ語だとHeimwehハイムヴェー)の言わば対義語で、遠くに行きたい願望のこと。
私は初めてこの言葉を知ったときなんて秀逸な言葉なんだろうと思った。日本語にはあるのかな。ないのかな。
そういえば昔から、イタリアはドイツの人にとって憧れの地だったみたいです。重く立ち込める、内省的になるしかないような雲に圧迫されていると、遠くに行きたくもなるわ…というのが、ドイツの冬を過ごし身に染みてわかりました。
家に帰りたい願望と、遠くに行きたい願望と、そのあいだを行ったり来たりするのはやっぱり古今東西問わず普遍的なのでしょうか。
さて、旅行から帰ってきたので本をぱらぱら読んでいます。
小説を読みながら、ふっと思うこと。
どれだけ旅行しても遠くに行っても、物語を読むときほど遠くに行くことはないんじゃないか。
村上春樹の文章にこう書いてあった。
……物語というものは聞き手の精神を、たとえ一時的にせよ、どこか別の場所に転移させなくてはならないからだ。おおげさに言うなら、「こちらの世界」と「あちらの世界」を隔てる壁を、聞き手に超えさせなくてはならない。
村上春樹 雑文集 (新潮文庫) P.493
ちなみに、実際にあちら側に行ってしまうのはエンデの「はてしない物語」。
主人公の男の子は物語を読んでいるうちに、物語の世界に入り込んでいく。
児童文学だけど、「物語とは何か」を巡る物語になっています。
私はこの間、本が読めなくなるという状況になったけれど、その際何よりも辛かったのが小説が読めないことだった。
別世界に行けないのだ。小説を読み終えて、その後の話を自分で想像(創造)することもできなかった。
そのことが、どのくらい息苦しいことなのか初めて気づきました。
現実のことじゃない小説なんて読んだってなんの足しになるの?と、小説を読まない人はそう思うかもしれませんが、小説に取りつかれた人は、物語を読むことが一番、遠くに行きたい願望Fernwehを満たしてくれる、と経験的に知ってるんじゃないでしょうか。
小説の、物語の一番の魅力とは何かと聞かれたら、結局は上記に尽きます。
ここではない、どこか別の場所に行けること。
それもいますぐ、いまここに、いながら。
さて、閑話休題。
この度カクヨムというサービスがオープンしたので、私も小説を投稿してみることにしました。でもまだ使い勝手がわからないのと、noteでも結構小説投稿されていることに気付いたので、しばらく両方に投稿します。
数年前に書いたやつもあり今読むと恥ずかしくなりますが、発信していくことに慣れる・SNSをいくつか使ってみる・他の小説書いている人を自分で発掘する、ということをしてみたいので、やっていきます。
「ブログと小説両方やってる人の文体はどう影響しあいどう変わっていくのか」みたいなよくわかんない実験にもし興味がある方は、下記から覗いてみてくださいね。