感受性との付き合い方
誰しもが繊細というか、敏感に反応してしまうところを持っているかと思います。
すいーと流せばいいのに、アンテナが立っているせいか、引っかかってしまうこと。
周りは引っかかっていないから、あれ自分だけ・・・?と思ってしまうこと。
私はというと、人の感情や、一般的によいといわれていることにアンテナがぴーんとはってしまうようで、
前者は「あれ今の人どう思ったかな気分悪くしてないかな気にしてないかな」と気にしてしまうし、
後者は「成長とか効率とかグローバル化とか多様性とか言ってるけどほんとのとこどうなの・・・?」とか妙にひっかかってしまう。
人よりも繊細に敏感に反応してしまうと、その分多くを抱え込むことになるし、問いが共有されないので、息苦しく感じたり孤独を感じたりします。いわゆる、生きづらさのことですね。
だから私は生きやすい考え方をもうちょっと身に着けようかなーと思ってこのブログ書いているところもあるのですが、
かと言ってその感受性みたいなものを失いたくないとも一方で思っています。
それはきっと、人が気づかないところに気付くという意味で、強みにもなりうるから。そして、それが自分のいわゆる個性ともなっているから。
自分の持っている感受性を活かしつつ、でもその感受性ゆえに自分が自滅してしまわないさじ加減を、どう見つけていくか。
生かすも殺すも、あなた次第。
そのことに私がぼんやり気づいたのは、やっと最近のことです。
反対に私は、匂いや音や身体や法的正義や論理性とかに鈍感です。鈍感なところはそこに繊細な人の気持ちがわかっていないので、「わかっていない」ということだけはわかっていたい、今日この頃。
感受性について、ふと思い返すのは、この詩。
あなたの感受性は、どこにありますか。