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思考の道場

答えのない、問いのまわりをぐるぐると。

自分をなくす 再考

考えまとめ 作品レビュー

自分をなくす、って聞くと、どんなイメージが浮かびますか。

ポジティブ、ネガティブ?いいこと、あんまり起こってほしくこと?

 

私はというと、ネガティブなイメージをもってしまいます。何だろう、本来の自分らしさを失ってしまう、みたいなイメージ。周りに流されて、自分を忘れてしまうような・・。

 

以前、1年前くらいに自分をなくすという記事を書きました。

この記事はちょうど内田樹氏の何かの書籍を読んでいたときのメモ。

 

マズローの5段階欲求って聞いたことあるでしょうか。人間のもつ欲求は5段階のピラミッドになっていて、低次元の欲求(食欲とか性欲とか安心感とか)が満たされるごとに、より高次元の欲求へと向かう・・・というやつです。

 

承認欲求というものがよく話題にのぼりますが、それは下から4番目、上から2つ目の欲求となっています。現代の日本だと衣食住にはとりあえず困らない人が多いので、この承認欲求というものにスポットライトが当たるのでしょう。

 

私はよく、ああまた他人から認められたいって思ってる・・・と気付いてがっくりくることがあるのですが、なんでかっていうと、自分に意識が向いちゃってるからなんですね。自分に意識が向いていると、必要以上によく見せようとしたり周りの評価が気になって、心があまり平穏ではなくなってしまいます。

 

そんな時に内田樹氏の(残念ながらどの書籍か思い出せないのですが)「自分がいなくてもまわっていく関係性をつくる」というのを読んだので、頭をがつんとやられた記憶があります。

ふと浮かんだのが、親について。親が子どもにしてやれることも、自分がいなくても生きていけるように育てることなんじゃないか。

そんなかんじで、私も「あなたが必要だ」って言われるんじゃなくて、私がいなくてもまわっていくようなそんな関係性をつくっていきたいな・・って思ったんですね。

 

しかしそんな一見高尚な思いを抱いたわけですが、中々そう上手くいかないのが現状で。

この「誰かに必要とされたい・認められたい」承認欲求、消えてくれーーと願っても、鬱陶しいなあと思っても、中々追い払うことができません。なんせ人間欲求の5段階の一つに位置付けられているくらいなんですから。それくらい普遍的な欲求なんです。

 

じゃあどうするかと考えたときに、まあこの欲求を満たすために奔走するのも、ひたすら煩悩を消すために瞑想するのも悪くないかなと思うのですが、もう一つあるのが、自分を忘れてしまう、ということですね。いわゆる「我を忘れる」「没我」の経験。

 

我を忘れるくらい目の前のことに集中するときが、頭も体も最もすっきりしているし、精神的にはとってもいいんだと思います。対象に自分が没入して、「私」が曖昧になっていく、ゆるゆるほどけていく、そんな経験。

その目の前のことは、勉強とか仕事とか趣味という大きいことでもいいけれど、日々の身近な料理や掃除なんかでもいいと思います。自分を意識せず、目の前のことに集中してるときが、幸せとまではいいませんが、その瞬間は承認欲求だの過去の恥ずかしかったことだの未来の不安だの、そういうのは考えません。「今を生きる」とはすなわち「我を忘れる」ことであり「自分をなくす」ことなんじゃないかと。

 

自分って何なんだろうとか周りに認められたいのにって悩んじゃうときは誰でもあると思います。

それを思い悩むのもいいかもしれませんが(私はああでもないこうでもないと考えるのが好きなので)、それを一旦棚上げして、とりあえず目の前のことに「自分」という概念を忘れるくらい、つまり対象にどっぷり浸かって、ゆるゆるほどいてなくしてしまえるくらい集中しちゃうのも、一つの手なのではないでしょうか。

 

本当は常にその状態でありたいなあなんて私は思ってるのですが、中々難しいです。なのでひとまずは、淡々とものごとを行うということを心がけています。

その上で、誰かのためにもなっていたらラッキーだなあと思いながら。

もしかしたら「自分がいなくてもまわっていく関係性をつくること」は、その先にあるのかなと、ほんのり期待しながら。

 

★ ★★

余談ですが、自分に意識が向かっているとき、自分という「概念」はがちがちになってるんじゃないでしょうか。

「私とは何か」という問いは、自分という概念ががちがちになっているときにゆるりとその概念をほぐすのにはとってもいいけれど、やりすぎるとドツボにはまっていくタイプの問いだと思っています。「本当の自分」なんてないし、だから「これが自分」というのもありません。

私は、周りの人がいて初めて自分という概念が生まれる、という考え方が好きです。

身近な周りの人が、昨日の自分と今日の自分が同じ自分である、という前提になって私に接してくれる。その記憶の積み重ねが自分という概念なんだと思っています。

 

だから日々の会話のやり取りは、情報を伝えるだけじゃなくて、その会話の相手が身近な人であればあるほど、「昨日のあなたも今日のあなたも同じあなただよ」「あなたがそこにいるの、わかっているよ」というメタ・メッセージのやり取りなのかもしれません。

そう考えると、本当に身近な人とのどうでもいいやり取りって欠かせないなあと思います。今海外で一人でいるからでしょうか、尚更そのことを痛感してしまいます。

 

★ ★★

話がずれてしまいましたが、最後に本の紹介を。

 

1973年のピンボール (講談社文庫)

1973年のピンボール (講談社文庫)

 

 内田樹氏の話の中で取り上げられていた、「配電盤」のエピソード。主人公の僕と双子の女の子は、使い古された配電盤を弔いに出かけます。この配電盤は、「私がいなくてもまわっていく関係性」の象徴なのです。

 

じぶん・この不思議な存在 (講談社現代新書)

じぶん・この不思議な存在 (講談社現代新書)

 

 

「普通がいい」という病~「自分を取りもどす」10講 (講談社現代新書)

「普通がいい」という病~「自分を取りもどす」10講 (講談社現代新書)

 

 上記二冊は、がちがちになった自分という概念をときほぐしていきます。自分って私って・・・とくよくよしたときにいっそ腰を据えて考えるときにはぜひ。

 

下の本のタイトルは「自分を取り戻す」と、このブログの内容と矛盾しそうですが、自分を「解きほぐす」→「取り戻す」→「もう一度(いい意味で)なくす」という順番の問題なのかなあと思いました。

 

 

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