思考の道場

答えのない、問いのまわりをぐるぐると。

シンプルなストーリーの細部に宿るもの。「フラニーとズーイ」と「たまこラブストーリー」

友人の万葉ちゃんがサリンジャーの「フラニーとズーイ」についてつぶやいていたので、私も再読したくなって手に取った。

 

 

読むのは2回目。私はそんなに読むのが速い方ではないんですが、再読ということもあり一気に読んでしまった。

村上春樹が後書き、というか本に差し込まれた文章で触れていたのだけれど、ぐいぐい引き込む文体なんですね。

話してるのは主に抽象的な宗教的談話で決して読みやすくないのに、話し手ズーイ(25歳の美青年)の口にのると、ギアチェンジしたかのようにすいーっと進んでしまう。理解したにせよ、理解していないにせよ。

 

フラニーとズーイ」についてさらっと語れる技量を私は持ち合わせていないのですが、あらすじ、というかストーリーの流れをざっくり言うと、「お兄ちゃんが妹を救う話」。これだけ書くとなんだか萌え系みたいですね。

 

周囲の人間のエゴにうんざりし、そして自分もそんなエゴを持ち合わせていることに絶望して内に閉じこもり宗教に救いを求めようとするのが妹の女子大生フラニー。「ライ麦畑でつかまえて」もそうですが、サリンジャーはこう、だれもが一度は経験するものを掬いあげるのが本当に上手いなあと思います。

出世欲だとか、誰かに認められたい承認欲求だとかそういうのを見て、物事を純粋に突きつめる人はいないのかとうんざりし、でも自分だってそんな欲求から決して決別できてなどいない…あれ、これ自分のこと?なんてなってしまいます(私だけ、じゃないはず…)。

 

そんなフラニーを怒涛の気の利いた会話で救うのが兄のズーイなんですが、会話と書いたように、そう、この小説時間にすると多分数時間、出てくる場所もほぼグラス家のみという、動きという動きがなく、とてもあっさりしている。会話も母とズーイ、ズーイとフラニーの間のものが大よそを占める。

物語はズーイが「太ったおばさんのために靴を磨くんだよ」と言うところでフラニーが閉じこもっていた殻が破られ、クライマックスを迎えるんですが、そこまでの過程ーズーイと母の言い合い、ズーイとフラニーの極めて宗教くさい会話や子供時代、兄たちの話ーと言った細部の積み重ねがないと、ここまでたどり着くことはできません。

そう、そこだけ見せたって意味を持たないんですね。私は上記で「太ったおばさん」だけを取り上げましたが、ここだけ取り上げると何のこと?となってしまう。

 

★★★

ストーリー的にはシンプルだからこそ、細部に意識が向くし、テーマは普遍性を帯びてくる。というかメッセージやテーマは普遍的であればあるほど、シンプルなものになっていくんじゃないか。

 とすると、後はそれをどう表現するか。何を表現するかではなく、どう表現するかが重要になってくる。

 

愛が大切、平和が大事、家族や友情は尊いなんて言われてもそんな当たり前のことわざわざ言われなくてもわかっているし、そしてそれだけを伝えるだけならまわりくどい物語、という手法を取らなくてもいい。

でもわかりきったことそれだけををぽん、と手の盆にのせられても、全然それは実感を伴わないし説得力もない。

じゃあ実感や説得力はどこからやってくるのかというと、それは具体的な顔をもった人が織りなす物語であり、その具体性は細部によってできている、と私は思っています。

そう、大学受験や就職活動や転職活動の志望理由に、具体的なエピソードが求められるように。 

 

★★★

全然ジャンルも時代も違うのですが、私が好きなアニメーション映画に「たまこラブストーリー」があります。タイトルからしてシンプルなその中身は、「幼馴染の男の子に告白された女の子が返事をするまでの話」。

 


映画『たまこラブストーリー』予告編

 

高校生の割には「母性」のようなものを強く感じさせる女の子・たまこが、幼馴染の告白をきっかけにどう変わっていくのか。「特別な想い」を受け入れるために、恐れていた変化へとどうやって一歩踏み出すようになるのか、それをひたすら丁寧に描いています。台詞で描くというよりは、瞳の揺れや足の動き、ずらした視線や風にたなびく髪といった、些細なことの積み重ねでできている。

 

★★★

ストーリーがシンプルだと一見地味、というか衝撃は少ないのですが、後からじわじわ来て、何度も読みたくなる、見返したくなる。それは細部が効いているからだと思います。次どうなるのかなんとなく予想がついたり、結末を予期できるからこそ、細部を楽しむ余裕が出てくる。そして細部を味わうのには、時間が必要とされる。

 

あらゆる作品にそれに連なる系譜やオマージュがあるように、テーマが同じでもどう表現するかが違う作品は古今東西たくさんあります。

最近私は過去の作品ー古典的作品ーだけじゃなくて、同時代の作品も評価していかなくちゃなあなんて思っているのですが、それはたとえテーマやメッセージが同じだとしても、伝え方が違うだけで、受け手に響くかどうか、というのも全く変わってくるからだと思います。

作品が多種多様なのは、どんな作品がその人の中にまで食い込んでくるのかという問題が、限りなく個別的であるから。

「言ってること同じじゃん」だとしても、作品一つ一つはそれぞれ別個の、個人の物語であり、それを味わう受け手も、その人しか持ちえない文脈と物語を持っている。

どの「架空の物語」と、自分の「実際的な物語」が響き合うのかは、一般化できないはずだから。

 

★★★

ちなみに「フラニーとズーイ」で個人的に印象的だったシーンはこちら。

「なんで結婚しないんだい?」

「僕は列車に乗って旅行をするのがとても好きなんだ。結婚すると窓際の席に座れなくなってしまう」

 

フラニーとズーイ」(村上春樹訳・新潮文庫) P.155

 

母に尋ねられて答えたズーイの台詞。

うーん私が今まで聞いた結婚に対するエクスキューズの中で、最も気が利いたものなんじゃないだろうか。

誰が窓際に座るのか、というのは家族内におけるけっこう普遍的な問題だということに気がつきました。(因みに我が家では母及び末っ子が窓際優先権を有しています。これは一般的かなあと思ってるのですが、いかがしょうか。)

 

このズーイのエクスキューズが人口に膾炙するころには、もう少し結婚に関するあれやこれやという問題が和らいでる…はず。

 

★★★

フラニーとズーイ (新潮文庫)

フラニーとズーイ (新潮文庫)