物語の功罪-物語ですくわれるもの、物語でうしなわれるもの
こんばんは、沙妃です。寒くて肌が痛いです。こんな日は家でこたつでまったりしたいですね、こたつないけれど。
さて今夜のテーマは、物語の功罪について。功罪っていうとなんだかカタイですね。私は物語が好きで、このブログでも物語そのものについて書いたりしています。人は物語のなかでしかいきられないんだなあとも思っています。自分のアイデンティティとか、人生の意味とか、国の歴史とか、全部物語の構造で成り立っている。
というと話がずれてしまうかもですが、物語、いわゆるフィクションってなんで存在しているんだろうとふと小説を読んでいて思いました。実際にはないことを、どうしてわざわざ細かく書くんだろうと。現実じゃなかったら、そんなのいらないんじゃないかって、いう人の気持ちもわからなくはない。
でも、自分で物語を書くことで気づきました。物語じゃないと、フィクションの形じゃないと書けないものがあるということ。物語だからこそ、書ける何かがあること。
私はふとしたときに、なにかの目的があるわけじゃないのに物語が書きたくなることがあります。なんでなんだろうと思ったんですが、物語によってすくいたい何かがあるんじゃないかと。物語にしないと言葉にならない感情とか、考えとか。物語にして初めて浮かび上がってくるものとか。
これは前に書いた物語(の一部)ですが、これなんかは書き終わったあとで自分がなにを思っていたのかぼんやりとした輪郭がうかんだのかなと思っています。
災害とか戦争とか、身近な人の死とか、特に自分にとって激しい感情を残すできごとに遭遇したとき、人はなにも語れないーー事実ベースの話では語れないことがあると思います。
そういうとき、フィクションという物語の水準に話を昇華させることで、語れるものがある。救われる・掬われる感情や想い、考えがある。だから、フィクションだから意味がない、というのは私は思えません。それでしか語れない何かがあると思うから。
★★★
でも物語にするってことは、決していいことだけじゃないと思うんですよね。物語によって、うしなわれる何かがある。私がそう思ったきっかけは、アニメ映画『この世界の片隅に』を見たこと。
アニメ映画「この世界の片隅に」を鑑賞。アニメ映画今年は「君の名は。」「聲の形」「レッドタートル」と見てきたけれど、その中で一番人に勧めたい映画だった。私にとっては感情移入させてくれない映画。語りづらい、けれど語らせてくれないところにこの戦争を描いた映画の意味はあるんじゃないか。
— 沙妃 (chikichiki303) (@sophieagermany) November 16, 2016
「この世界の片隅に」。前半のほのぼのした描写からうって変わって、重苦しく描かれる後半。前半の描写があるからこそ、後半の昭和20年の描写が活きてくる。戦争を全面に押し出してないところは、「風立ちぬ」やジャンルは違うけれど村上春樹の短編「恋するザムザ」と通ずるものがあった。
— 沙妃 (chikichiki303) (@sophieagermany) November 16, 2016
語ることでこぼれ落ちてしまうものがある。物語にすることで、生々しい生やリアリティ、ぱっとしない日常が抜け落ちてしまう。ドラマはカタルシスをもたらすけれど、その分後に残らない。「この世界の片隅に」が語りにくいのは、戦時中のどうしようもない日常を、その爪跡を残すためなんじゃないか
— 沙妃 (chikichiki303) (@sophieagermany) November 16, 2016
この映画は戦中の一市民を描いているので、空襲や原爆のシーンがあります。だからこの映画のテーマを「反戦」というとわかりやすい。主人公のすずさんは姪っ子を(自分のせいで)亡くし、お嫁にきて家で働くために必要不可欠な右腕をなくし、実家の家族を失う。
すずさんから大事なものを奪っていく戦争。私たちはいやが応でも戦争の悲惨さを再認識させられる。
でも一方で、この映画では全面的に戦争の話が出てくるわけではないんですよね。前半は特に、すずさんの細やかな日常が描かれる。
子供時代に絵がうまくて入賞したりとか、幼馴染の男の子が戦争に行く前に泊まりにきたとか、それが原因で夫の周作さんと初めてけんかしたりとか、そういう、今の私たちにも通ずるような、細やかな日常が。
戦中も、良い意味でなまなましい日常が描かれる。「空襲にあきた〜」という姪っ子や、防空壕でのすずさんと周作さんのキスや、幼馴染との一晩とか、小姑との関係とか。
そういったことを全て「これは反戦映画ですから」といってしまうと、こぼれ落ちてしまう気がする。すずさんという人が生きた「この世界」が。
戦争は戦争一色じゃなくて、今の私たちにも通ずる日常があったということ、退屈な日々もあったということ。
いろいろなものを失いながらそれでも日常を生きていたということ。そういった細やかな日常は、色鮮やかではないものの、いろんな色味を帯びている。一言で、物語にして「片付けて」「語づけて」しまうには、あまりにももったいない、すずさんの日常。
物語は、複雑な現実やいろんな色の日常を、単純化してしまうこともあるということ。語って言葉にしてしまうことで、うしなわれることもあるということ。
逆にフィクションという物語にすることで、輪郭を帯びるものもあること。
『この世界の片隅に』はフィクションの物語だから、もしすずさんみたいな人(たぶんたくさんいただろう)がいたのなら、もちろんこぼれ落ちてしまった日常はたくさんあるだろう。でもこの映画は限られた時間のなかで、限りなくていねいに日常を描いていたと思う。
物語の良さ(物語にして伝えられた戦中の日常)とその限界(映画で描かれなかったすずさんの、あったであろう日常)の間のぎりぎりをついてきたところが、私はこの映画ですごく評価したいところです。
物語が好きだとその良い面ばかり見たくなるんだけれど、こぼれ落ちてしまうものとか、力強い物語に絡め取られてしまう危険性とか、そういうものを忘れずにいたいなと思っています。とりあえず『この世界の片隅に』は2016年最も勧めたいアニメ映画です。
それでは、また。
★★★
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