思考の道場

答えのない、問いのまわりをぐるぐると。

【Webエッセイ】その瞳で食べられたら、いいのに。

秋の夜長には、エッセイが読みたくなる。

のかどうかはわからないけれど、定期的にエッセイが読みたくなる時期があり、だからここ最近は書く方も、めっぽうエッセイめいたものになってしまっている。

エッセイめいたものはなんだろう、パソコンじゃなくて、スマホでぽちぽち書きたくなる。前にも書いたけれど、スマホの方が頭と指先が直に繋がっているかんじがするのだ。

★★★
私が主に読みたくなるエッセイは二つある。一つは旅行エッセイ、もう一つは食エッセイ。

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今読みたくて仕方ないのは食エッセイの方で、食欲の秋だからだろうか、ああなんか美味しいもの食べたいと思うの同じくらい、いや場合によってはそれ以上に、美味しいものについて書かれた文章が読みたいと思う。舌は肥えていないし、薄味が好きだし、美味しいレストランの開拓なんて全然しないのに、「そとがわは、こげ目がつかない程度に焼けていて、中はまだやわらかく湯気のたっているオムレツ」と目にすると無性にそんなオムレツが食べたくて食べたくて、仕方ない。じんわりと潤ってくる口の中を前にして、これを欲望と言わずになんと言おう。

ちなみに私はこの有名な食エッセイ「巴里の空の下オムレツのにおいは流れる」を読んで早速ばたばたとオムレツをつくった。悪くはなかったけれど、読んだときほどオムレツは美味しくなかった。

グルメじゃない私だけれど、食について書かれた文章を読みたいと思うこの欲望は何なのだろう。そう、単純に快感なのだ、オムレツについて書かれた文章を目が味わうのが。

★★★
家にある食エッセイで残っているのは、なぜか全部卵料理をめぐるもの。なんだろう、卵ってオムレツにも卵焼きにも卵かけごはんにもすき焼きのたれにもケーキにもなって、その妖美な形や変形ぶりに、そそられるんだろうか。

ちなみに書かれた食べ物で一番食べたくなるのは、ドーナツである。ドーナツとコーヒーを買って車の中でかじったとか小説に出てきただけで、今すぐドーナツを買いに走り出したくなる(最近はコンビニに売ってるので可能になりましたね)。

そういえば阪大から出ている「ドーナツの穴だけ残して食べる方法」みたいなタイトルの本もあったし、ドーナツも卵と同様、人に省察を迫るというか、きっと語りたくなる何かがあるのだ。

と書いているだけで、ドーナツが食べたくなってきた。真夜中のドーナツは数ある夜の営みの中でも、最も罪悪感にまみれた快感。でも今日は既に一個食べたから、諦めないと。

ドーナツの夢、見られますように。



【Webエッセイ】淡々と、その言葉を。

言葉、ことば、コトバ。

人が人へ、紡ぐもの。

ひっそりと咲く花のごとく、そこにそっと佇むもの。

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言葉は人を傷つける。自分を縛るし、相手だって縛ることがある。一生あの人の一言が忘れられないこともある。
言ったことの根拠や具体例を示せと言われて、ぐっと黙ってしまうこともある。
言葉にした瞬間に、ぽろぽろ落ちていく感情が大海原を漂っている。

だから言葉は嫌い。

なんて言えたらきっと、楽だろう。

言葉じゃ伝わらないことがある。言葉じゃなきゃ伝わらないことがある。とかそういうことを言いたいわけじゃない。

言葉が好きだ、文字が好きだ。でも言ってはいけないかなとか、誰かを傷つけるかな、とか気にしてしまうことがある。

言葉が怖くなることがある。

でもそれじゃきっと、届けたい人への言葉だって、届かなくなっちゃう。だれかを傷つけることがあっても批判されることがあっても、淡々と綴っていけば、いつか届けたい人に届くことはあるんだろうか。

一人の人を信じるのと同じくらい、言葉やその力を信じるのは難しい。

淡々と綴ること。淡々と信じること。言葉への信頼が揺らぎそうなときは、でもやっぱり、淡々と紡いでいくしかないのかもしれない。