思考の道場

答えのない、問いのまわりをぐるぐると。

「わからないこと」を考える

私が「わからないこと」に出会ったときに取る態度は、主に三つある。

一つは、自分の既知の記号に置き換えること。

もう一つは、わからないと言って、拒否すること。

 

一つ目は簡単。例えば何が描いてあるかよくわからない絵画を見て、すぐにタイトルを見る。すると「横を向いた女」と書いてある。「ああ、これは女性の顔なのね」と納得し、わかった、となる。(この説明自体が既知の記号への置き換えだ)

 

二つ目は、わからないものはわからないんだから、仕方ない、と考えるのを辞めてしまうこと。自分には関係ないとスルー(無視)すること。

 

簡単に説明してほしい、よくわからないものは、説明が悪いからだ。と考えるのは、とても楽である。なぜなら、自分が変わらなくても済むからである。よくわからないものを、わかろうと努力するのはシンドイ。だから、わかりくいものをわかりやすく説明した本が人気なのもよくわかる。

同じく、説明が悪いからわからないのだ、だからわからなくてもしょうがない、とわからないものを拒否してしまうのも、自分の知っている記号(ことば)に置き換えられなかったからである。故に、一つ目と二つ目はコインの裏と表の関係である。

 

三つ目は、わからないことを、わからないまま、抱え込むということである。

わからないことを放っておく、とも言ってもいい。既知の記号に置き換えて「わかったつもり」になるわけでもなく、わからないんだから仕方ない、と拒否または無視するわけでもなく、わからないままにしておく。

 

すると、ある日突然わかったりすることがある。「ああ、あれはそういうことだったのか」と。

その「わからないこと」をわかろうと常に考えたり、勉強したりすることでわかることも勿論ある。でも、放っておくことでもそれは起こり得る。(頭の片隅に置いておくだけでも効果はある。)

 

そこには自分の変化があるからだ。変化とは、時間の中で起こるプロセスである。

 

わからないことにわからないまま向き合うというのは、シンドイことである。(少なくとも私はそうだ)。しかし、そうすることで、そこには自分が変化する可能性が生まれてくる。「変化する」というのは時間をかける、ということでもある。

 

わからないことに対する耐性、や、構え、みたいなものを、私は痛烈に欲している。それには訓練がいるけれども、そこには必ず、楽しさがあると思う。

 

そして、何かを学ぶこと、の本質も、そこにあるのではないか。

わからないことがわかる、というためには、自分の変化なしには成し遂げられない。

 

「わからないこと」をわからないまま放っておなけい心理に関しては、また後日改めて書こうと思う。

 

 

 

 

 

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