理解されないし理解できないけれど
誰かを、痛切に理解したい。
誰かに、痛切に理解されたい。
でもそんなことは勿論叶わない。
埋めても埋めても埋まらない溝。その溝を前に感じるのは絶望であり、孤独である。
でも、もしも。
もしも自分以外の誰かを、余すところなく理解していたら?
もしも自分以外の誰かに、完全に理解されていたとしたら?
きっと退屈で窮屈で、息苦しい。
それはそれで、絶望なのだ。
前にチェコの美術館に行ったとき、ある言葉に出会った。
To long for something is a sufficient reason to live.
- Jaroslav Vrchlicky
「何かを切望することは、生きることの十分な理由足り得る。」
私は誰かを理解し、誰かに理解されることを痛切に願っている。
勿論一生叶わないのだけれど、だからこそそれが同時に生きたいという希望になってもいるのだ、とこの言葉をふっと思い出しながら、思った。
部分的に理解すること、部分的に理解されること。
同じ気持ちは持つことはできないけれど、その人がそういった気持ちを持っている、ということを理解すること。
私はそういったことは、ちょっとずつでもできると信じている。
理解するということは、誰かに対してだけではなくて、自分自身に対してもそうだ。
私は私を完全には理解できない。誰しもが空白を残して、死んでいく。
自分が誰とも取り換えのきかない、一人の「オリジナル」な存在であること。
それはそれだけで強烈な個性であり、同時に恐ろしいことでもある。
だからこそどこかに所属し家族をつくり恋人をつくり友人をつくる。
「みんな同じ」と「オリジナル」のあいだで、誰しもが行ったり来たりしている。
抱えている孤独は、きっと誰かの孤独でもある。
周りには理解されないかもしれない。でも自分の孤独を昇華し、伝えることで、誰かの孤独が少しでも癒されるかもしれない。それが誰かの役に立つかもしれない。
理解されず、理解できないことは、ある意味では生きる希望になりえる。
孤独は、まだ見ぬ誰かの孤独と、部分的にでも、呼応し合うかもしれない。
身近な人を理解できなくて苦しいとき、身近な人に理解されなくて孤独なとき、思い出してみてください。