思考の道場

答えのない、問いのまわりをぐるぐると。

静かな声が聴こえる場所

私が住んでいるドイツドレスデンは、静かな街である。

ドイツの日曜はお店が全部閉まるので、人通りも少ない。日曜の朝は車も人も通っておらず、時折路面電車が通る音が聞こえるくらいである。

雪がしんしんと降るよるはもっと静かで、あらゆる音をくるりと包み込んでしまう。

静かなるさやけさ。

 

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 東京から来るとそれが寂しくもの足りなく感じるけれど、慣れてくると静けさに身を浸すのが心地よくなってくる。特に何をするわけでもなく、ぼーっとしたり、ぼーっと車窓からの風景を見たり。不思議だ。東京にいると一分一秒惜しくて(ほんとに)、三分後に来る電車に乗り遅れただけで悔しいし、数十秒の間でもスマホをチェックしたりドイツ語の単語帳を開いたりする。

環境なんて関係ないよとか思っていたけれど、つくづく環境に左右されている。半分はそれを情けなく、半分は自分も世界と繋がっている「生きもの」なんだと嬉しく思う。

 

さて、表題に戻る。静かな声が聴こえる場所について。

当たり前だけれど、大きい声のところには人が集まりやすい。

大きい声というのは、物理的な音が大きいというだけでなく、極端なものの言い方のことを指す。

 

社会の価値観が変わろうとする中では、両極端なものの言い方が増える。

「絶対正社員にならなくてはならない」「これからは英語が使えないとダメな人材になる」「30までに結婚相手を見つけないと」から「会社の中にいてはだめになる」「一生食っていけるスキルを身に着けよう」「結婚なんかより自分のキャリアを打ち立てろ」まで(例えばだけれど)。

当たり前だけれど、人は自分の選んだ道、自分がいる世界を肯定したがる。それは前向きに生きていくという意味で、強さであり、同時に肯定しないと生きていけないという意味で、弱さでもある。日本はいま社会の中心的価値観がほどけていく真っ只中で、久しくそんな環境がなかったから、何が正しいかわからなくなって、必死で自分を肯定しようとし、その自分を肯定する絶対的な意見や、それ以外の道をばっさりと否定する意見を探して、安心しようとする。

特にインターネットは、簡単に不特定多数の人がアクセスできるから、大きな声のものが多い。

そして自分の選んだ道やいる環境に不安を覚えると、結論を急ぎたがる。正しいのか間違っているのか、成功なのか失敗なのか。1か0か。今すぐ知りたいから、今すぐyesかnoか答えの出る、デジタルな問いばかり増えていく。

 

私はすぐ未来のことを想像(時に妄想)して、調子の悪いときはすこーんと負のスパイラルに陥り不安を抱く。だから一方で、そのような大きな声を求め安心しようとしてしまう自分がいる。そしてもう一方で、それを息苦しいと感じる自分がいる。

 

私には息をするように、答えのない問いを巡ってぐるぐる考えるくせがある。それはきっと、違和感とか、何かとの「ずれ」をどこかで抱いているからだと思う。そしてその感覚を、いまだに言葉で表すことができない。例えば私がずっと引っかかっている、「わからないことをわからないまま抱えていくこと」も、言葉にした瞬間に、するりとどこかへ逃げていってしまう。言葉はいつも、感覚的な「ずれ」を追っていく。でも言葉そのものが、「ずれ」を新たにつくっていっているのだ。

 

そしてそういう違和感や「ずれ」を意識すればするほど、上手く話せなくなる。勿論日常生活の中でそれを全面に押し出すわけではない。ただスムーズな会話を重ねてるだけだと、歯切れのよい会話を重ねているだけだと、前景化されない違和感や「ずれ」は、どんどん自分の内側に溜まっていって、息苦しくなるのだ。

 

だからだろうか。静かに話す人。言いよどんだり、沈黙を挟んだり、ためらったり、時に前言を撤回しながらも、話す人。結論を急がずに、「それってどういうこと?」と聞いて、待ってくれる人。結論を求めるんじゃなくて、問いを共有して、一緒に問いを深化させていける人。私はそういう人と話していると、とても心地がいいし、こちらも安心して思考をめぐらすことができる。そして同時に、私がいることで、静かに話し始める人が周りにいてくれることを、嬉しく思う。

 

私は、静かな声で話す人が、好きだ。身近にいるそういう人を想うとき、私の中で

茨木のり子さんの詩の一つ、「みずうみ」の風景が浮かぶ。

 

おんなのことば (童話屋の詩文庫)

おんなのことば (童話屋の詩文庫)

 

 

 

私はしいんとしたみずうみを心にもつ人に、誰かの静かな声を、汲み出し聴きとれる人になりたい。そして願わくば、互いの静かな声が聴こえる場所を、リアルであれウェブ上であれ、増やしていきたいと思う。