思考の道場

答えのない、問いのまわりをぐるぐると。

日常にぬるりと入り込んでくるもの

子どもだったころ、怖かったものってありますか?

 

私は、祖母の家の、トイレまで続く廊下が怖かった。

 

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離れにある、というほどには離れてはないけれど、子どもだった私にとっては遠く、電気のスイッチを押してから、とんとん、と明かりがつくまでがとても長く感じられた。

その間いつも、「何もいませんように」と思っていた。

明かりの下に何もいないのを確認してほっとしてから、廊下をそろりそろりと進む。

 

もう子どもじゃなくなった今も、夜道とか暗闇は怖いけれど、それは具体的な恐怖である。子どもだったころに感じていた、得体のしれない何か、に対する恐怖ではない。

 

さて、私はチキンなくせにこういう得体のしれない何か、が出てくる物語が好きである。

 

子どもだった私のトラウマ映画は、「千と千尋の神隠し」である。

お父さんお母さんが気づいたらブタになってるのも、変な神様がいっぱい出てくるのも、急に日が暮れるのも怖いけれど、何が一番怖いって、現実と地続きにそういった得体のしれないものがぬるりと入り込んできたことである(入り込んできたというよりは、この場合は千尋が入り込んでしまったんだけれど)。

 

描かれている千尋が、不機嫌でワガママで、どこにでもいそうな小学生の女の子として描かれてるから、尚更千尋が迷い込んでしまった世界をリアルに感じてしまうのである。

 

村上春樹の世界も(あんな気障な台詞を吐く男はいないわというのはさておき)、台所でパスタを茹でていたら電話がかかってきた、という超がつくほど日常的なシーンから始まる。そこから井戸に潜って気づいたら得体のしれないあっちの世界に行ってしまう。

「ダンスダンスダンス」のドルフィンホテルの、エレベーターを開けたら広がっている真っ暗なフロアも怖い。得体のしれない世界と私たちのいる世界は地続きで、そこの境目には必ず暗闇がある。でも暗闇だから、境目は曖昧で目には見えないのだ。

 

カズオイシグロの作品にも、また違った怖さがある。一人称の語り手は落ち着いたトーンで日常の、過去の、些細なことを事細かく話す。その語り手に身をゆだねて読み進めていくと、徐々に「あれ、おかしいな」と思いはじめ、気づいたら霧につつまれた世界に入り込んでいた…その境目がどこだったかわからない…という事態に発展している。リアルすぎる日常が、語り手の内側から緩んでいくという物語には、また違った怖さがある。

 

さて、こういうわけのわからないものが出てくる物語は、非現実的だと言ってばっさり切り捨てることが可能である。非現実的だ、というのはそれだけで物語を批判する効力をもってしまう。ファンタジーやSFは、最初から設定が非現実的だから、「そういうことなのね」と納得するけれど、一見現実的な物語に非現実的なものが入ってくると、それを予期していない読者は面食らって違和感や不快感を覚えてしまうことがある。

 

でもその、一見現実的な物語における非現実的なものは、本当に非現実的なのだろうか。私は霊感もないしUFOも幽霊も見たことがないし「あっちの世界」に行ったこともないけれど、「見たことがない、知らない」ということがイコール「存在しない」には必ずしもならない、とどっかで思っている。そしてその、日常と地続きになった得体のしれない何かを、私は子どものころに暗闇で恐れた何かとして、ある意味すごく「リアル」に感じとっている。日常にぬるりと入り込む非日常的なものは、子どもだった私の感覚にとっては、あくまで「リアル」なものなのだ。

 

村上春樹であれ、宮崎駿であれ、カズオイシグロであれ、気づいたらわけのわからなさに入り込んでしまう作品には、私たちの「原始的」(と呼んでいいかわからないけれど)な経験を刺激する何かが含まれている気がしてならないのである。

 

 

ダンス・ダンス・ダンス(上) (講談社文庫)

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充たされざる者 (ハヤカワepi文庫)

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