思考の道場

答えのない、問いのまわりをぐるぐると。

語りえぬことについて語る。ドーナツの穴について。

ウィーンなう。

 
なうという語尾がラインとかで照れずに使えるようになったのは最近のことです。よく考えるとそっちの方が恥ずかしい。それくらいなうは個人的難易度の高い語尾でした。
 
ウィーンにいると、夜にオペラとかコンサートとかに行くのが半分義務化している(レベル高くてプログラム豊富で安いため。ちゃっかり音楽の都というフレーズにのっかってます)。
 
だからオペラコンサートに行かない夜は、逆にとっても優雅な夜のような錯覚に陥る。
ひいひい言って立ち見で3ユーロとかで数時間立ちっぱなしだからですね。
高い席買って座ればいいのに立ち見があるとそれができない。悲しい。
 
というわけで今日はそんな「優雅な夜」なのでブログをするする書いています。
 
今回は語りえぬことを語るということについて。
 
私は答えのない問いについてぐるぐる考えるのが好きだ。
好きというか、気づいたらやってしまっている。信じるって何だろうとかデジタルな境界線とか曖昧さとか、カフカの作品の未完成さとその完全性とか。
 
こうやって並べてみるとちょっとコムズカシイこと(安心感を感じるみたいになっちゃった)考えているようなイメージになるけれど、コムズカシイのではなくて抽象的だったりメタファー度が高かったりするだけです。具体的な話しててもすぐ抽象的なふわっとした話に持っていっちゃう、良くも悪くも。
 
さてそんな私ですが、もちろん語れないこともあります。
 
語れないってどういうことか。
 
私の場合それは上手く言語化できないことであり、かつ最も言語化したいことです。
 
言語化したいということは、語りえぬことについて知りたい理解したいという想いと、それを凌駕して、誰かに伝えたいという想いがあるということです。
 
具体的(でもないけれど)に言うと私の場合それは「わからないことをわからないまま抱えて生きていくこと」についてです。
 
ただ上手く、真正面から語ることができません。手を替え品を替え、芸術論と結びつけてみたり、小説読んだりブログ書いたりしています。
 
きっと私が伝えたいと思うのは、経験的直感的に大事なテーマだからでしょう。ただ言語化できない。言語化できないゆえ、ひとに上手く伝えられないのです。
 
だから、私は名指せない「それ」の周りをぐるぐるまわっている。
 
全く別のことに興味を持っているようでいて、その実名指せない「それ」があることによって結びついていることがあります。
 
というか、そもそも名指せない「それ」があることすら、気づきませんでした。気づけたのは、自分の中でひっかかるキーワードや考え、テーマ等を集めて並べてみたから。
 
名指せないそれは、トラウマとか深いコンプレックスのように(というとネガティヴだけれど)、自分の奥深くの暗がりに眠っているんだと思います。私にとってはそれはきっと具体的な経験の積み重ねによってできたものなんだろうけれど、その具体的な経験を思い出すことはできません。心の原風景みたいなものです。
 
こんな抽象的なことを考えていたら、ふとドーナツが頭に浮かんできました。
 
ドーナツって、真ん中に穴がありますよね。あの穴って、もちろん食べられない。でもあの穴があるからドーナツ足り得ている。
 
語りえぬものについて語るということは、ドーナツを食べるという行為に似ているんじゃないかなと思います。
 
私がドーナツと聞いてあの穴のかたちをありありと思い浮かべることができるのは、ドーナツをかじってあの穴にたどり着いたからだと思います。ドーナツの穴は食べることができない。でもまわりをかじって穴に近づくことはできます。かじって行くことで穴の大きさやそのかたちを身体的に感じることができます。
 
ドーナツは穴がないとドーナツじゃありません。というか、穴があるからドーナツは魅力的なんじゃないかとすら思います。
 
私にとってのドーナツの穴は語りえぬことで、
ドーナつのまわりは語りえぬことに結びついた語り得ることです。
 
ここまで書いていて気づきましたが、私がブログ始めたのも今こうして書いているのも、ドーナツのまわりをかじっている行為なんじゃないか。
ドーナツのまわりをぐるぐるかじってて、
一見全然違う内容の記事でも、真ん中に穴を置くと、ぐるりとその穴を取り囲んでいる記事同士かもしれません。
 
現段階では証明できませんが、直感的にはそうです。
 
そしてかじってくことによって、語りえることから語っていくなかで、ドーナツの穴の質、つまり語りえぬこと、名指せないなにかもすこうしずつ変化していくのでしょう。
 
変化というのは、言いたいことが変わるというよりは、その表現の仕方が変わるという意味に近いです。
 
つまり、私は私自身のドーナツの穴として、「わからないことをわからないまま抱えていくこと」と冒頭の方では述べていますが、
これからもっとドーナツのまわりをかじっていくことで、ここの表現は変わるかもしれません。
 
でも私はそれはそれでいいと思っています。
というかそれが、語りえぬことについて語っていくことだと思っています。
 
この記事を書きながら、語りえぬことについて語りたくなるかなあと思っていたら、ドーナツが食べたくなっただけでした。
 
シロップがかかった上にキャラメルナッツが散りばめられたふわふわのドーナツが食べたい。
私はクリスピークリームのが好きです。ミーハーかな...。
 
みなさん、夜中のドーナツは危険です。
 
 
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とか言いつつ、ドーナツの代わりにマフィン食べてきました。
 
 
追伸:
ドーナツの穴が浮かんだのは、かつてそれについての文章を読んだからだと思います。たぶん「なんたってドーナツ: 美味しくて不思議な41の話」(早川茉莉)です。