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思考の道場

答えのない、問いのまわりをぐるぐると。

それは痛みを伴うけれど。/ 自分と他人を分けて考えてみよう。

って書きましたが、別にそっち系の話ではありません…ってこのブログを読んでくれている方なら察しがつきます…はず。

 

ところで性にまつわる話を下品になりすぎず、学術的になりすぎずにさらっと書くには器量がいる気がします。

文学史と言われるリストに名を連ねている作家も、どうやってそのシーンをやり過ごすのか、いろいろ考えあぐねていたんでしょうか。

ちなみに最近読んだフィッツジェラルドの「夜はやさし」では「……」でもってやり過ごされていました。そういえば19世紀のドイツリアリズム作家、フォンターネによる「エフィ・ブリ―スト」でも同じく「……」で流れてゆきます。まあ時代のせいもあるんでしょうが、この小説をドイツ語の授業でやって、ここの「……」の意味するところは何かという質問が教授から出たときは、ぱっとは答えられないくらいさりげなく差し挟まれた「……」でした。

 

「……」。はしょるなよって思うのか、さりとてスムーズだなと思うのか、あなたはどっちですか?

夜はやさし(上) (角川文庫)

夜はやさし(上) (角川文庫)

 

 

罪なき罪―エフィ・ブリースト (上) (岩波文庫)

罪なき罪―エフィ・ブリースト (上) (岩波文庫)

 

 

★★★

前置きが長くなってしまいましたが、さてなんでこんなタイトルにしたのかというと、「割り切れないけれど割り切りたい」ものについて書きたいなあと思ったからです。

そう、「自分」と「自分以外の人」について。

 

「喜びは2倍に、悲しみは半分に」とよく言いますが、自分のことのように喜んだり悲しんだりできる人がいることは幸せな一方で、苦しみもまたもたらします。

 物語を読む際の愉悦もどこからやってくるのかというと、「主人公との同一視による、感情移入」です。どれだけ登場人物がつくりこまれているかにもよるし、自分の共感能力にもよりますが。「魔女の宅急便」のキキを見て、まるで自分が空を飛べたかのようにわくわくし、まるで自分がスランプに陥ったかのように、飛べなくなったキキとともに落ち込む。物語に入り込んでしまう。

 

じゃあ逆に、自分以外の誰かにシンパシーを感じてしまうことの苦しみってなんでしょうか。

私はけっこう共感能力が高いほうなので、身近な人が元気なうちはいいんですが、落ち込んでしまうとずるずるとこっちも引きずられてしまいます。それで、その人のことをなんとかしなきゃなんて思ってしまう。でも落ち込んでいるのは当たり前ですが自分ではないし、最終的に元気になるのも、その人自身しかできない。逆に自分が落ち込んでいて、そのつらさを周りの人に理解してもらいたいなんていう思いがむくむく出てきたりすることがあるのですが、共感や理解を求めてしまうと、それはどこかのタイミングで必ず裏切られる。純度100パーセントの理解は不可能だからです。当たり前のことなんですが、この人は「わかってくれる」という前提でいると、その人に怒りや孤独感といった負のエネルギーが追加でわいてきてしまう。

 

理解されないし理解できないけれど - 思考の道場

 

だから、ふと自分と「自分以外の人」を混同したり近づけたりしすぎたときは、目をつぶって、そっと、私とあなたを分けてみる。

そう、湿ってくっついたのりを、ぺりぺりはがすように。

それは痛みを伴うかもしれませんが、元々別個のものだったのだから。

ちなみにここドイツでは、のりが湿らないくらいからっとしているのでちょっと懐かしいです、じめじめしたのり。

 

でもユング集合的無意識じゃないけれど、深いところには同じ地下水脈が通っていると思っています。のりが四角く切られる前に、どろどろした同じ流体であったように。そのユング心理学者の河合隼雄氏も、地球は丸いから人間も深いところまで掘っていけばそこでは交わっていると言っていましたしね。だから孤独なときは、逆に地下を掘っていきます。少しずつ、そっと、ゆっくりと。

 

こころの処方箋

こころの処方箋

 

 

 

 

 

 

 

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