思考の道場

答えのない、問いのまわりをぐるぐると。

【旅行エッセイ】 北欧の、夏じかん。

夜が、みじかい。
11時くらいにやっとくらくなったと思いきや、早日付が変わった3時には朝がやって来る。

あんなに冬の夜長にうんざりしていたのに、眠りが浅くなって夜が恋しく思えるのだから、つくづく人って(それとも私だけ?)って勝手だ。

北欧、デンマークスウェーデンにやってきた。肌寒いほど涼しくて、真夏に帰国する自分がすごおおく馬鹿らしく思えてくる。このまま一夏をここで過ごせたら、きっと私は夏に恋をする。



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ストックホルム、水辺の街。アフターファイブになるとレストランやカフェが混雑し始める。スーツ姿のまま、片手にグラス。束の間の夏を少しでも味わおうとするのか、皆オープンテラスで語り合う。公園には家族連れ。休日でもないのに、そこはさながらピクニック会場。噴水で、小さな男の子がすっぽんぽんで泳ぎ回っている。お父さんは時折気にかけるように、その子に視線をそそぐ。

きっと、ここの人たちは世界一夏の楽しみ方を、知っているのだ。



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シンプルなストーリーの細部に宿るもの。「フラニーとズーイ」と「たまこラブストーリー」

友人の万葉ちゃんがサリンジャーの「フラニーとズーイ」についてつぶやいていたので、私も再読したくなって手に取った。

 

 

読むのは2回目。私はそんなに読むのが速い方ではないんですが、再読ということもあり一気に読んでしまった。

村上春樹が後書き、というか本に差し込まれた文章で触れていたのだけれど、ぐいぐい引き込む文体なんですね。

話してるのは主に抽象的な宗教的談話で決して読みやすくないのに、話し手ズーイ(25歳の美青年)の口にのると、ギアチェンジしたかのようにすいーっと進んでしまう。理解したにせよ、理解していないにせよ。

 

フラニーとズーイ」についてさらっと語れる技量を私は持ち合わせていないのですが、あらすじ、というかストーリーの流れをざっくり言うと、「お兄ちゃんが妹を救う話」。これだけ書くとなんだか萌え系みたいですね。

 

周囲の人間のエゴにうんざりし、そして自分もそんなエゴを持ち合わせていることに絶望して内に閉じこもり宗教に救いを求めようとするのが妹の女子大生フラニー。「ライ麦畑でつかまえて」もそうですが、サリンジャーはこう、だれもが一度は経験するものを掬いあげるのが本当に上手いなあと思います。

出世欲だとか、誰かに認められたい承認欲求だとかそういうのを見て、物事を純粋に突きつめる人はいないのかとうんざりし、でも自分だってそんな欲求から決して決別できてなどいない…あれ、これ自分のこと?なんてなってしまいます(私だけ、じゃないはず…)。

 

そんなフラニーを怒涛の気の利いた会話で救うのが兄のズーイなんですが、会話と書いたように、そう、この小説時間にすると多分数時間、出てくる場所もほぼグラス家のみという、動きという動きがなく、とてもあっさりしている。会話も母とズーイ、ズーイとフラニーの間のものが大よそを占める。

物語はズーイが「太ったおばさんのために靴を磨くんだよ」と言うところでフラニーが閉じこもっていた殻が破られ、クライマックスを迎えるんですが、そこまでの過程ーズーイと母の言い合い、ズーイとフラニーの極めて宗教くさい会話や子供時代、兄たちの話ーと言った細部の積み重ねがないと、ここまでたどり着くことはできません。

そう、そこだけ見せたって意味を持たないんですね。私は上記で「太ったおばさん」だけを取り上げましたが、ここだけ取り上げると何のこと?となってしまう。

 

★★★

ストーリー的にはシンプルだからこそ、細部に意識が向くし、テーマは普遍性を帯びてくる。というかメッセージやテーマは普遍的であればあるほど、シンプルなものになっていくんじゃないか。

 とすると、後はそれをどう表現するか。何を表現するかではなく、どう表現するかが重要になってくる。

 

愛が大切、平和が大事、家族や友情は尊いなんて言われてもそんな当たり前のことわざわざ言われなくてもわかっているし、そしてそれだけを伝えるだけならまわりくどい物語、という手法を取らなくてもいい。

でもわかりきったことそれだけををぽん、と手の盆にのせられても、全然それは実感を伴わないし説得力もない。

じゃあ実感や説得力はどこからやってくるのかというと、それは具体的な顔をもった人が織りなす物語であり、その具体性は細部によってできている、と私は思っています。

そう、大学受験や就職活動や転職活動の志望理由に、具体的なエピソードが求められるように。 

 

★★★

全然ジャンルも時代も違うのですが、私が好きなアニメーション映画に「たまこラブストーリー」があります。タイトルからしてシンプルなその中身は、「幼馴染の男の子に告白された女の子が返事をするまでの話」。

 


映画『たまこラブストーリー』予告編

 

高校生の割には「母性」のようなものを強く感じさせる女の子・たまこが、幼馴染の告白をきっかけにどう変わっていくのか。「特別な想い」を受け入れるために、恐れていた変化へとどうやって一歩踏み出すようになるのか、それをひたすら丁寧に描いています。台詞で描くというよりは、瞳の揺れや足の動き、ずらした視線や風にたなびく髪といった、些細なことの積み重ねでできている。

 

★★★

ストーリーがシンプルだと一見地味、というか衝撃は少ないのですが、後からじわじわ来て、何度も読みたくなる、見返したくなる。それは細部が効いているからだと思います。次どうなるのかなんとなく予想がついたり、結末を予期できるからこそ、細部を楽しむ余裕が出てくる。そして細部を味わうのには、時間が必要とされる。

 

あらゆる作品にそれに連なる系譜やオマージュがあるように、テーマが同じでもどう表現するかが違う作品は古今東西たくさんあります。

最近私は過去の作品ー古典的作品ーだけじゃなくて、同時代の作品も評価していかなくちゃなあなんて思っているのですが、それはたとえテーマやメッセージが同じだとしても、伝え方が違うだけで、受け手に響くかどうか、というのも全く変わってくるからだと思います。

作品が多種多様なのは、どんな作品がその人の中にまで食い込んでくるのかという問題が、限りなく個別的であるから。

「言ってること同じじゃん」だとしても、作品一つ一つはそれぞれ別個の、個人の物語であり、それを味わう受け手も、その人しか持ちえない文脈と物語を持っている。

どの「架空の物語」と、自分の「実際的な物語」が響き合うのかは、一般化できないはずだから。

 

★★★

ちなみに「フラニーとズーイ」で個人的に印象的だったシーンはこちら。

「なんで結婚しないんだい?」

「僕は列車に乗って旅行をするのがとても好きなんだ。結婚すると窓際の席に座れなくなってしまう」

 

フラニーとズーイ」(村上春樹訳・新潮文庫) P.155

 

母に尋ねられて答えたズーイの台詞。

うーん私が今まで聞いた結婚に対するエクスキューズの中で、最も気が利いたものなんじゃないだろうか。

誰が窓際に座るのか、というのは家族内におけるけっこう普遍的な問題だということに気がつきました。(因みに我が家では母及び末っ子が窓際優先権を有しています。これは一般的かなあと思ってるのですが、いかがしょうか。)

 

このズーイのエクスキューズが人口に膾炙するころには、もう少し結婚に関するあれやこれやという問題が和らいでる…はず。

 

★★★

フラニーとズーイ (新潮文庫)

フラニーとズーイ (新潮文庫)

 

 

 

 

 

 

【旅行エッセイ】 ただ、そこに存在している。ブルガリアの教会

前回の旅行:

chikichiki303.hatenablog.com

 

マケドニアからバスで国境を越え、ブルガリアの首都ソフィアへ。

ところでブルガリアって、知名度抜群だけど行った人が少ない国ランキングをつくったらきっと上位に食い込むと思う。

 

ブルガリアと言えばヨーグルト。ということでヨーグルトスープと、飲むヨーグルトに手を出しました。飲むヨーグルトはともかく、ヨーグルトスープはレストランの前菜メニューに載ってたので、きっとヨーグルトがベースのアレンジされたスープなんだわ、どんな味かしらとわくわくしてたんだけれど、出てきたのは飲むヨーグルトと全く同じで、それにスプーンがついてきただけでした。あれ、拍子抜け。

 

まあでもブルガリア=ヨーグルトというのはこちらの勝手な方程式でしかないみたいで、ブルガリアの国民としてはバラをおしているみたいです。確かにお土産屋さんには、バラの香水バラのハンドクリームバラのハンカチバラのはちみつ(!)と、バラずくし。ソフィアじゃないけれど、バラ祭りなるものも行われている模様。

 

まあでも、ソフィアの旅のハイライトはヨーグルトでもバラでもなくて、教会だったんですけれどね。

 

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ブルガリアブルガリア正教、ということで東方教会。(写真はロシア正教の教会ですが)

東方教会といえば、そう、イコン。教会のそばにあるイコン博物館にも行ってきたので、目にするのはしゃちほこばった、聖母マリアと子イエス。イコンイコンイコン。

イコンってすごくぎこちないんですね。平面的だし表情ないし、身体はぎこちなく固そうだし、みんな同じポーズだし。だから最初は見てるこっちもぎくしゃくするんですが、大量に見ているうちに見慣れてきたのか、気付いたらすーっとした静けさに包まれた。

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そこには遠近法とか、ルーベンスの絵みたいな派手な動きは一切見られなくて、彼らはただ、そこに存在しています。なんだろう、イコンをたくさん見ていると、そういった画面の奥行やら動きやらが余計なものに感じられてくる。ただそこに描かれているからこそ、存在することの重み、みたいなものがひしひしと伝わってきました。

 

ブルガリアではないんですが、テッサロニキにはビザンチン文化博物館があって、そこではイコンだけじゃなくてモザイク画も見れます。

 

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美術館の標識がさりげなくモザイク。こういう細部への遊び心でその美術館の印象が一気に跳ね上がります。

 

東方教会ってどうもぱっとしないなあなんて私は勝手に思ってたのですが、東欧に行ってイメージはがらっと変わりました。あと旅行で抱いた印象にすぎないと言えばすぎないのですが、結構地元の人が熱心にお祈りしているところが多かったです、東方教会

祈りの仕方もカトリックプロテスタントと違うのか、十字架をきったあと、イコンに顔を近づけてキスするんですよね。初めて見たときはちょっとびっくりしましたが、世界にはいろんな祈りの仕方があるものです。物理的な距離が近いと、神様の存在を精神的にも身近に感じるような気がするからかな。

 

★★★

chikichiki303.hatenablog.com

 

今回の旅行はギリシャマケドニアブルガリアとまわったのですが、私が暮らすドイツ圏とは勝手が違うので疲れる旅でした。空気は汚く、街はごちゃごちゃ、バスの椅子は固く、ブルガリアではなぜか改札のシステムが左右逆(左手で切符を入れて右手で改札のバーをおす)で入れないと言ったらおばちゃんにきれられ、とまあたいしたことないことの積み重ねで旅行的疲労はたまっていくものですが、終わってみるとそれが懐かしく思えるもの。

留学に来る前は「ヨーロッパ」とひとくくりにされていた白地図が、いろんなところに赴くことによって少しずつ色味を帯び、多彩なものになってくる。そしてそれは、ガイドブック的観光名所じゃなくて、上記に述べたような些細な具体的な疲労を帯びた事実によって色付いていく。

 

疲れるのにそれでもまた旅行に出たくなるのは、そんなざらついた手触りのある具体的事実の感触を掴みたい、それを通して自分が知らない世界を垣間見たい、からかもしれません。

 

あなたが旅に出たくなるのは、どんなときですか?

 

 

 

 

 

【旅行エッセイ】 キッチュな街、スコピエ。

テッサロニキからバスで北上して、マケドニアスコピエに向かう。 

 
マケドニアに入ってからは、ひたすら山道。首都スコピエも背後に高い山がそびえている。山に囲まれた景色にほっとするのは、おばあちゃんちの景色に似ているからかな。 
 
スコピエは1963年に大きな地震があって、その後の都市計画は日本人の丹下健三がたてたんだよと開口早々にairbnbのホストが教えてくれました。  
でも計画通りに行ったのはその内の30%みたいで、だから今この街はとってもキッチュ。計画通りに行ってたら今頃スコピエはリトルトーキョーだったのに、やれやれ。とのこと。 
 
リトルトーキョー?キッチュ?と事前情報をいただいたので、わくわくしながら街へくりだしました。 
 
街を歩いていて東京のとの字も浮かばなかったけど、キッチュなのは確かかもしれない。  
なんだろう、こうちぐはぐなんですね。大きすぎる銅像、やたら新しいヨーロッパ風の建物、かと思えば手を付けていないようなビル。 
 

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でも前の記事で書いたスロバキアブラチスラバも同じようにごちゃごちゃしてたのに、そちらはちぐはぐな感じはしなかった。 
 きっとスコピエ銅像とか、新しすぎるヨーロッパ風建物とか、「つくりました感」がありすぎるのかもしれない。 
生活感がないと言い換えてもいいかもしれません。 
そういえばすごく気に入ったリスボンは生活感に満ち満ちたわけで、私は生活感が漂う街に惹かれるのかなあとぼんやりと思う。
なんだろう、生活がある街にはどっしりとした質感が横たわっている。決して綺麗じゃない路地裏に、死を含んだ生の香りが漂う。人の気配にほっとし、同時に見えない人影に不安になる。私の知らない人の物語が一本一本網目になって街を包み込んでいる。
綺麗じゃない街は、でもいつも美しい。
 
一方つくりました感満載のスコピエ的ちぐはぐさを面白い、と思うのもまた事実で。 スコピエは「あと一声、いや三声!」と妙に応援したくなる街でした。 
 
 ★★★ 
 
スコピエマケドニアの人口の3分の1が住んでいるのに、とってもこぢんまりした街。 
半日と経たずに市内観光が終わってしまったので、スコピエの観光ランキング一位の湖に向かう。 
こちらはちぐはぐな感じはせず、れっきとした観光名所。
 

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帰りのバスは45分遅れで来て、14人が待ったバスのドアは開いたまま走りつづけた。
 
スコピエのバスの運転手はドアの開閉を待てないまま、停まりそして走り出します。
ルーズなのか、せっかちなのか。こういうところに市民生?国民性?が出たりして、なんて思い、私のマケドニアに対するイメージとなってしまいました。
 
次に向かうは、ブルガリア

センス・センス・センス/ センスとは身に着けるもの。

こうやってみっつ並べると、春樹氏の「ダンス・ダンス・ダンス」みたくなりますね。

日本に全部村上春樹の小説を置いてきてしまったので、読みたくて読みたくて仕方ありません。たとえどんなに元気でも、ドイツ語の本読むから手元になくて大丈夫、と希望的観測を抱いていても、好きな小説はやっぱり手元に置いておくもんだな、と激しく後悔中。いつ調子が悪くなるかわからないし。電子書籍じゃなくて紙で読みたいですし、好きな小説はやっぱり。

 

さて、タイトルにあるように、最近センスって何なんだろうとぼんやりと考えています。(いつもぼんやりとなのは、何かしながらじゃないと考えられないからです。貧乏性)。

というのは、これを読んだから。

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記事の内容はタイトル通りで、センスは生まれもったものじゃなくて、知識を獲得することによって得られるもの、ということ。

私はこの考え方に賛成です。センスは生まれもったものって思っちゃうと、磨こうとか思いませんからね。

そして知識でセンスが得られるとすれば、全てのものに対してセンスがいい必要なんてなくって、服がださくても音楽のセンスがあればいいし、味おんちであっても写真のセンスがあればいいし、などなど人によってくる。要はポイントを絞ってセンスを育てていける。

 

私は生まれてこのかた、自分でセンスいいなあって思ったことも、人にセンスいいねって褒められたことに対する格別の記憶もないのですが、最近センスいい人でありたいと思うようになりました。

 

で、ここからなんですけれど、センスがいいってそもそもどういうことなんでしょう。

かっこいい、スマート、しゃれてる、ださくない、って形容詞を並べることはできますが、いざ考えるとぱっと思いつきませんね、センスがいいっていうのがどういう状態なのか。

 

それは、「この人がおすすめしてるから、私も○○したい」って他の人に思ってもらえることなんじゃないでしょうか。

例えばレストラン選びに定評がある友人がいて、メキシコ料理のレストランをすすめてきたら、別にメキシコ料理に興味なくても、行ってみようかなってなる。(私は好きです、メキシコ料理。タコスとかタコスとかタコスとか。食べたくなってきた。)

 それは服のブランドでも雑誌でもインテリアでも、同じこと。

 まあ特定のジャンルだけじゃなくてもっと広がって、その人の判断軸そのものが好きで、ジャンルを越境して影響を与えていけたらベストなんですけどね。

 

で私はやっぱりアート、小説とか絵とか最近だとアニメとか、そういう作品に対するセンスが欲しいなって思っています。

勿論自分が好きな分野でセンスいいって言われたらそれは大変喜ばしいんだけれど、それだけじゃなくて、「いい」受け手でいたいから。

chikichiki303.hatenablog.com

以前書いたのですが、自分が好きな分野が活性化するためには、ただあれがだめこれがだめというよりも、ただ作品を享受するだけでもなくて、いいと思ったものはきちんと評価して、広めていく必要がある。そして広めていくためには、センスがいいと自分自身が評価されていると、強味になるんです。

知識を取り入れることでセンスを磨き、センスを磨くことで自身の判断軸を評価してもらい、いいと思ったものを広めていく。

口にすると簡単で、実際にするのは難しい。でも人文学が不要と言われ、作品が市場で消費されていく中、私ができることの一つは、そういうことなのかな、と。

上記の分野における知識の筆頭はやっぱりまず自分が、たくさんの作品を浴びることなんだと思います。

知識を入れることもセンスを磨くことも一朝一夕にしてできることではないので、やっぱり淡々とやっていくしかない。

 

ちなみに上記の話は、その分野全体を盛り上げる、という話に繋がりそうです。

イケてないウェブメディアや編集・ライターは不要なのか。

以上、最近旅行記が続いているのと、もう少し旅行の話を書きそうなので、ここらで閑話休題でした。

 

 

 

 

【旅行エッセイ】 疲れるために、旅に出るの。

前回の記事と前後しちゃうのですが、先月お休みを利用してギリシャアテネギリシャ二番目の街テッサロニキマケドニアの首都スコピエブルガリアの首都ソフィアに行ってきました。 

 
ドイツに留学して半年以上、つまりドイツ的きっちりさとかまじめさとか重厚感ある建物とかそっけない食べものに飽きてきた頃なので、ちょっと遠く離れたところに行きたいと突き動かされてやってきた、東欧。 
 
ギリシャは財政問題抱えてるし東欧は全くイメージわかないし、この三国治安大丈夫かなとどきどきしてたのすが、少なくとも私が滞在した間は全く問題なかったです。 
 
不安がってる間にとにかく行っちゃう、やっちゃうっていうのはほんとに正論なんだなあとつくづく日頃のチキンさに嫌気がさしました。 
ギリシャに至ってはさすがの知名度というか、観光客ごろごろいたし。 
 
★★★
初日アテネに降り立って。 
気温は30度。そして久々の湿気。
 
なんだか日本の初夏をおもいだし、すごく懐かしくなる。
風景や匂い、音だけじゃなくて肌に触れる風でも、人は懐かしさを感じることをこの時初めて知りました。 
 
ギリシャってリゾートのイメージあったのですが、それは多々ある島のことでしょうか。 
アテネテッサロニキも、車はごちゃごちゃ、建物もごちゃごちゃ、人もごちゃごちゃ。 
そして車が古いのか、空気が悪い。ヨーロッパって空気悪くなれるんだ!と妙に感心してしまった。 
 

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かつてそれは空気の悪い、人もビルも車もごちゃごちゃしていた上海に住んでたのでここでも妙に懐かしい。 
 
ブルガリアに入るのを待ちきれず、ギリシャギリシャヨーグルトを頂く。 
ギリシャのヨーグルトって、どろっとしていて食べごたえがあって、変な酸味がなくて、こゆーい蜂蜜と絡まってデザートにぴったりでした。 
 

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デザート以外にもヨーグルトソースとして、ケバブのつけあわせとかによく出てきました。 
 
★★★
旅行してると、ふと思う。なんで疲れるのに、旅行しているんだろうと。
アテネテッサロニキもごちゃごちゃしてて、ドイツ地方都市ののんびりさに慣れた私にとってはいささか疲れる都市だった。アテネアクロポリス以外特に見どころ!といった見どころはなかったし、両都市の現代美術館は閉まってるし。
 
でもやっぱり、村上春樹がそのエッセイでメキシコ的な疲労について言及していたように、私もまた疲れるために旅行しているかもしれない。
 
旅行的疲労についてぼんやりと考えながら、まわる東欧。
 
次は、マケドニア

【旅行エッセイ】 今日のおかずはきんぴらごぼう

というのは願望です。無性にきんぴらごぼうが食べたくなりました。 

 
きんぴらごぼうは何回つくってもどうも旨くできません。ごぼうが上手くささがきできないからかな。それとも辛いのが苦手ゆえ、七味を思いきってかけられないからだろうか。 
 
★★★ 
 
5月は連休が多いので、最後にスロバキアにやってきました。スロベニアという国と間違い郵便が多くてそれの対応に追われるという、嘘みたいなほんとの話がある国です。 
 
ポーランドチェコオーストリアハンガリーと行った中スロバキアには来てなかったので、妙なコンプリート魂がはたらいてやってきました。 
 
イメージがわかない、日本からは行かない国に行くのが楽しい今日この頃。 
 
首都ブラチスラバ。え首都なのってくらいのんびりしてます。治安もとってもいいのか、女の人やおばあちゃんも一人でのんびり歩いてる。 
 
中世の町並みと、ぼろっとした建物と、現代チックなオフィスビルが混在してるのですが、ちくはぐとした印象を抱かせない、住むには快適そうな街。 
 
ウィーンから近いのに見どころが少ないからか、観光客もそんなにいない。そして見どころが少ないと必然的にのんびりしなきゃいけないので、すぐ焦ってしまう私にはほっとできる街となった。  

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ブラチスラバのハイライトじゃないかっていうくらいかわいい教会。絵本に出てきそうな、こんなかわいい教会は初めて。 
 
★★★ 
 
私の旅のハイライトはごはんでも買い物でもアクティビティでもなく美術館なので、ブラチスラバでもご多分にもれず行ってきた、美術館。 
 
ドナウ川の真ん中にあって、ひろーい窓からは一面、川。 
展示スペースも広くとってあって、開放感あふれる美術館になってる。 
 

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スロバキアの作家の作品もたくさんありました。下の作品もそう。
 

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和紙を使った作品のようです。ペンキぶちまけたような大胆な、悪く言えば大雑把な作品が多い中、この作品の繊細さが際立ってた。
 
女性作家なんだけど、あんまりこういう表現したくないけれど、女性ならではの繊細さ、みたいなのを感じました。それとも、繊細な女性性、なるものを。
 
ちなみにタイトルは「so distant within us」
 
between us じゃないところがみそというか、タイトルによって一気にそそられた絵。
 
タイトル見ちゃうとわかった気になりやすい私は、普段そんなにタイトルに気を払わないのですが、この作品はタイトルによって際立つ絵ですね。
 
withinって描かれることによって、この私たちって誰だろう、、とかいろいろ思考がめぐります。
 
いろんな美術館に行く中で、作品を鑑賞するということは、その作品が展示されてる場所と切り離せないんだなということをつくづく感じる。 
 
作品を収集する、見せる場所としての美術館ではなくて、作品と出会う場所、作品を経験する場所としての美術館。 
 
鑑賞者としての私たちはいまここという時間場所に縛られているのだから、作品を経験する場所にも必然的に影響を受けている。 
 
なんてことをぼーっと考えながら、回る美術館。 
 
場所としての美術館、というのはまた改めて書きます。 
 
★★★ 
 
旅行に来ると普段は別に好きじゃないのに、いま絶対食べられないもの、が食べたくなります。それが冒頭のきんぴらごぼう。 
 
きんぴらごぼうなんて絶対海外で売ってなさそうじゃないですか。 
 
留学に来てからというもの、毎日パンは食べられないということに気づきました。お米だといけるのに不思議です。
 
人は毎日食べてるものでできているとすると、私はきっとお米的な思考や考え方をしてるんでしょう。お米的な考え方、パン的な考え方ってなんだろうと新たな(答えのない)問いを思いついたので、しばらく考えてみたいと思います。(何か思いついたらおしえてください)  
全然スロバキアの旅行記になってないのは、安心しすぎて刺激が少ないからだろうか。 
 
ウィーンから日帰りでも行けるので、プラハのカラフルな建物にお腹いっぱいになったり、ウィーンの美術館に飽きたり、ブダペストのごちゃごちゃに疲れたりしたら、ちょっとした癒やしに足をのばしてみてください。
 

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のんびりした首都。
 

 

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今年のコントラスト大賞。