【旅行エッセイ】 北欧の、夏じかん。
夜が、みじかい。
11時くらいにやっとくらくなったと思いきや、早日付が変わった3時には朝がやって来る。
あんなに冬の夜長にうんざりしていたのに、眠りが浅くなって夜が恋しく思えるのだから、つくづく人って(それとも私だけ?)って勝手だ。
北欧、デンマークとスウェーデンにやってきた。肌寒いほど涼しくて、真夏に帰国する自分がすごおおく馬鹿らしく思えてくる。このまま一夏をここで過ごせたら、きっと私は夏に恋をする。
ストックホルム、水辺の街。アフターファイブになるとレストランやカフェが混雑し始める。スーツ姿のまま、片手にグラス。束の間の夏を少しでも味わおうとするのか、皆オープンテラスで語り合う。公園には家族連れ。休日でもないのに、そこはさながらピクニック会場。噴水で、小さな男の子がすっぽんぽんで泳ぎ回っている。お父さんは時折気にかけるように、その子に視線をそそぐ。
きっと、ここの人たちは世界一夏の楽しみ方を、知っているのだ。
シンプルなストーリーの細部に宿るもの。「フラニーとズーイ」と「たまこラブストーリー」
友人の万葉ちゃんがサリンジャーの「フラニーとズーイ」についてつぶやいていたので、私も再読したくなって手に取った。
サリンジャー『フラニーとズーイ』
— 万葉 (@tgtg95) June 12, 2016
すごく、濃い小説。これは…?ってページ戻ったり、人物のそぶりに同感したりしてたら、読み終えるのに時間がかかった。フラニーにすごく共感できる私。あと、バディが羊男に重なる気がする。逆か。私も、これから太ったおばさんのために靴を磨いていこうと思う。
読むのは2回目。私はそんなに読むのが速い方ではないんですが、再読ということもあり一気に読んでしまった。
村上春樹が後書き、というか本に差し込まれた文章で触れていたのだけれど、ぐいぐい引き込む文体なんですね。
話してるのは主に抽象的な宗教的談話で決して読みやすくないのに、話し手ズーイ(25歳の美青年)の口にのると、ギアチェンジしたかのようにすいーっと進んでしまう。理解したにせよ、理解していないにせよ。
「フラニーとズーイ」についてさらっと語れる技量を私は持ち合わせていないのですが、あらすじ、というかストーリーの流れをざっくり言うと、「お兄ちゃんが妹を救う話」。これだけ書くとなんだか萌え系みたいですね。
周囲の人間のエゴにうんざりし、そして自分もそんなエゴを持ち合わせていることに絶望して内に閉じこもり宗教に救いを求めようとするのが妹の女子大生フラニー。「ライ麦畑でつかまえて」もそうですが、サリンジャーはこう、だれもが一度は経験するものを掬いあげるのが本当に上手いなあと思います。
出世欲だとか、誰かに認められたい承認欲求だとかそういうのを見て、物事を純粋に突きつめる人はいないのかとうんざりし、でも自分だってそんな欲求から決して決別できてなどいない…あれ、これ自分のこと?なんてなってしまいます(私だけ、じゃないはず…)。
そんなフラニーを怒涛の気の利いた会話で救うのが兄のズーイなんですが、会話と書いたように、そう、この小説時間にすると多分数時間、出てくる場所もほぼグラス家のみという、動きという動きがなく、とてもあっさりしている。会話も母とズーイ、ズーイとフラニーの間のものが大よそを占める。
物語はズーイが「太ったおばさんのために靴を磨くんだよ」と言うところでフラニーが閉じこもっていた殻が破られ、クライマックスを迎えるんですが、そこまでの過程ーズーイと母の言い合い、ズーイとフラニーの極めて宗教くさい会話や子供時代、兄たちの話ーと言った細部の積み重ねがないと、ここまでたどり着くことはできません。
そう、そこだけ見せたって意味を持たないんですね。私は上記で「太ったおばさん」だけを取り上げましたが、ここだけ取り上げると何のこと?となってしまう。
★★★
ストーリー的にはシンプルだからこそ、細部に意識が向くし、テーマは普遍性を帯びてくる。というかメッセージやテーマは普遍的であればあるほど、シンプルなものになっていくんじゃないか。
とすると、後はそれをどう表現するか。何を表現するかではなく、どう表現するかが重要になってくる。
愛が大切、平和が大事、家族や友情は尊いなんて言われてもそんな当たり前のことわざわざ言われなくてもわかっているし、そしてそれだけを伝えるだけならまわりくどい物語、という手法を取らなくてもいい。
でもわかりきったことそれだけををぽん、と手の盆にのせられても、全然それは実感を伴わないし説得力もない。
じゃあ実感や説得力はどこからやってくるのかというと、それは具体的な顔をもった人が織りなす物語であり、その具体性は細部によってできている、と私は思っています。
そう、大学受験や就職活動や転職活動の志望理由に、具体的なエピソードが求められるように。
★★★
全然ジャンルも時代も違うのですが、私が好きなアニメーション映画に「たまこラブストーリー」があります。タイトルからしてシンプルなその中身は、「幼馴染の男の子に告白された女の子が返事をするまでの話」。
高校生の割には「母性」のようなものを強く感じさせる女の子・たまこが、幼馴染の告白をきっかけにどう変わっていくのか。「特別な想い」を受け入れるために、恐れていた変化へとどうやって一歩踏み出すようになるのか、それをひたすら丁寧に描いています。台詞で描くというよりは、瞳の揺れや足の動き、ずらした視線や風にたなびく髪といった、些細なことの積み重ねでできている。
★★★
ストーリーがシンプルだと一見地味、というか衝撃は少ないのですが、後からじわじわ来て、何度も読みたくなる、見返したくなる。それは細部が効いているからだと思います。次どうなるのかなんとなく予想がついたり、結末を予期できるからこそ、細部を楽しむ余裕が出てくる。そして細部を味わうのには、時間が必要とされる。
あらゆる作品にそれに連なる系譜やオマージュがあるように、テーマが同じでもどう表現するかが違う作品は古今東西たくさんあります。
最近私は過去の作品ー古典的作品ーだけじゃなくて、同時代の作品も評価していかなくちゃなあなんて思っているのですが、それはたとえテーマやメッセージが同じだとしても、伝え方が違うだけで、受け手に響くかどうか、というのも全く変わってくるからだと思います。
作品が多種多様なのは、どんな作品がその人の中にまで食い込んでくるのかという問題が、限りなく個別的であるから。
「言ってること同じじゃん」だとしても、作品一つ一つはそれぞれ別個の、個人の物語であり、それを味わう受け手も、その人しか持ちえない文脈と物語を持っている。
どの「架空の物語」と、自分の「実際的な物語」が響き合うのかは、一般化できないはずだから。
★★★
ちなみに「フラニーとズーイ」で個人的に印象的だったシーンはこちら。
「なんで結婚しないんだい?」
「僕は列車に乗って旅行をするのがとても好きなんだ。結婚すると窓際の席に座れなくなってしまう」
母に尋ねられて答えたズーイの台詞。
うーん私が今まで聞いた結婚に対するエクスキューズの中で、最も気が利いたものなんじゃないだろうか。
誰が窓際に座るのか、というのは家族内におけるけっこう普遍的な問題だということに気がつきました。(因みに我が家では母及び末っ子が窓際優先権を有しています。これは一般的かなあと思ってるのですが、いかがしょうか。)
このズーイのエクスキューズが人口に膾炙するころには、もう少し結婚に関するあれやこれやという問題が和らいでる…はず。
★★★
【旅行エッセイ】 ただ、そこに存在している。ブルガリアの教会
前回の旅行:
マケドニアからバスで国境を越え、ブルガリアの首都ソフィアへ。
ところでブルガリアって、知名度抜群だけど行った人が少ない国ランキングをつくったらきっと上位に食い込むと思う。
ブルガリアと言えばヨーグルト。ということでヨーグルトスープと、飲むヨーグルトに手を出しました。飲むヨーグルトはともかく、ヨーグルトスープはレストランの前菜メニューに載ってたので、きっとヨーグルトがベースのアレンジされたスープなんだわ、どんな味かしらとわくわくしてたんだけれど、出てきたのは飲むヨーグルトと全く同じで、それにスプーンがついてきただけでした。あれ、拍子抜け。
まあでもブルガリア=ヨーグルトというのはこちらの勝手な方程式でしかないみたいで、ブルガリアの国民としてはバラをおしているみたいです。確かにお土産屋さんには、バラの香水バラのハンドクリームバラのハンカチバラのはちみつ(!)と、バラずくし。ソフィアじゃないけれど、バラ祭りなるものも行われている模様。
まあでも、ソフィアの旅のハイライトはヨーグルトでもバラでもなくて、教会だったんですけれどね。
ブルガリアはブルガリア正教、ということで東方教会。(写真はロシア正教の教会ですが)
東方教会といえば、そう、イコン。教会のそばにあるイコン博物館にも行ってきたので、目にするのはしゃちほこばった、聖母マリアと子イエス。イコンイコンイコン。
イコンってすごくぎこちないんですね。平面的だし表情ないし、身体はぎこちなく固そうだし、みんな同じポーズだし。だから最初は見てるこっちもぎくしゃくするんですが、大量に見ているうちに見慣れてきたのか、気付いたらすーっとした静けさに包まれた。
そこには遠近法とか、ルーベンスの絵みたいな派手な動きは一切見られなくて、彼らはただ、そこに存在しています。なんだろう、イコンをたくさん見ていると、そういった画面の奥行やら動きやらが余計なものに感じられてくる。ただそこに描かれているからこそ、存在することの重み、みたいなものがひしひしと伝わってきました。
ブルガリアではないんですが、テッサロニキにはビザンチン文化博物館があって、そこではイコンだけじゃなくてモザイク画も見れます。
美術館の標識がさりげなくモザイク。こういう細部への遊び心でその美術館の印象が一気に跳ね上がります。
東方教会ってどうもぱっとしないなあなんて私は勝手に思ってたのですが、東欧に行ってイメージはがらっと変わりました。あと旅行で抱いた印象にすぎないと言えばすぎないのですが、結構地元の人が熱心にお祈りしているところが多かったです、東方教会。
祈りの仕方もカトリックプロテスタントと違うのか、十字架をきったあと、イコンに顔を近づけてキスするんですよね。初めて見たときはちょっとびっくりしましたが、世界にはいろんな祈りの仕方があるものです。物理的な距離が近いと、神様の存在を精神的にも身近に感じるような気がするからかな。
★★★
今回の旅行はギリシャ、マケドニア、ブルガリアとまわったのですが、私が暮らすドイツ圏とは勝手が違うので疲れる旅でした。空気は汚く、街はごちゃごちゃ、バスの椅子は固く、ブルガリアではなぜか改札のシステムが左右逆(左手で切符を入れて右手で改札のバーをおす)で入れないと言ったらおばちゃんにきれられ、とまあたいしたことないことの積み重ねで旅行的疲労はたまっていくものですが、終わってみるとそれが懐かしく思えるもの。
留学に来る前は「ヨーロッパ」とひとくくりにされていた白地図が、いろんなところに赴くことによって少しずつ色味を帯び、多彩なものになってくる。そしてそれは、ガイドブック的観光名所じゃなくて、上記に述べたような些細な具体的な疲労を帯びた事実によって色付いていく。
疲れるのにそれでもまた旅行に出たくなるのは、そんなざらついた手触りのある具体的事実の感触を掴みたい、それを通して自分が知らない世界を垣間見たい、からかもしれません。
あなたが旅に出たくなるのは、どんなときですか?
【旅行エッセイ】 キッチュな街、スコピエ。
テッサロニキからバスで北上して、マケドニアのスコピエに向かう。
センス・センス・センス/ センスとは身に着けるもの。
こうやってみっつ並べると、春樹氏の「ダンス・ダンス・ダンス」みたくなりますね。
日本に全部村上春樹の小説を置いてきてしまったので、読みたくて読みたくて仕方ありません。たとえどんなに元気でも、ドイツ語の本読むから手元になくて大丈夫、と希望的観測を抱いていても、好きな小説はやっぱり手元に置いておくもんだな、と激しく後悔中。いつ調子が悪くなるかわからないし。電子書籍じゃなくて紙で読みたいですし、好きな小説はやっぱり。
さて、タイトルにあるように、最近センスって何なんだろうとぼんやりと考えています。(いつもぼんやりとなのは、何かしながらじゃないと考えられないからです。貧乏性)。
というのは、これを読んだから。
記事の内容はタイトル通りで、センスは生まれもったものじゃなくて、知識を獲得することによって得られるもの、ということ。
私はこの考え方に賛成です。センスは生まれもったものって思っちゃうと、磨こうとか思いませんからね。
そして知識でセンスが得られるとすれば、全てのものに対してセンスがいい必要なんてなくって、服がださくても音楽のセンスがあればいいし、味おんちであっても写真のセンスがあればいいし、などなど人によってくる。要はポイントを絞ってセンスを育てていける。
私は生まれてこのかた、自分でセンスいいなあって思ったことも、人にセンスいいねって褒められたことに対する格別の記憶もないのですが、最近センスいい人でありたいと思うようになりました。
で、ここからなんですけれど、センスがいいってそもそもどういうことなんでしょう。
かっこいい、スマート、しゃれてる、ださくない、って形容詞を並べることはできますが、いざ考えるとぱっと思いつきませんね、センスがいいっていうのがどういう状態なのか。
それは、「この人がおすすめしてるから、私も○○したい」って他の人に思ってもらえることなんじゃないでしょうか。
例えばレストラン選びに定評がある友人がいて、メキシコ料理のレストランをすすめてきたら、別にメキシコ料理に興味なくても、行ってみようかなってなる。(私は好きです、メキシコ料理。タコスとかタコスとかタコスとか。食べたくなってきた。)
それは服のブランドでも雑誌でもインテリアでも、同じこと。
まあ特定のジャンルだけじゃなくてもっと広がって、その人の判断軸そのものが好きで、ジャンルを越境して影響を与えていけたらベストなんですけどね。
で私はやっぱりアート、小説とか絵とか最近だとアニメとか、そういう作品に対するセンスが欲しいなって思っています。
勿論自分が好きな分野でセンスいいって言われたらそれは大変喜ばしいんだけれど、それだけじゃなくて、「いい」受け手でいたいから。
以前書いたのですが、自分が好きな分野が活性化するためには、ただあれがだめこれがだめというよりも、ただ作品を享受するだけでもなくて、いいと思ったものはきちんと評価して、広めていく必要がある。そして広めていくためには、センスがいいと自分自身が評価されていると、強味になるんです。
知識を取り入れることでセンスを磨き、センスを磨くことで自身の判断軸を評価してもらい、いいと思ったものを広めていく。
口にすると簡単で、実際にするのは難しい。でも人文学が不要と言われ、作品が市場で消費されていく中、私ができることの一つは、そういうことなのかな、と。
そういえば私の大学時代の目標は感性を磨くことで、そのためにはまず良いのも悪いのも引っくるめてとにかく量をー本でも絵でも映画でもーまずこなす、と言われたのが心に残っている。この記事を読んでそのことを思い出した。 https://t.co/IYYAjkMXZ4
— 沙妃 (chikichiki303) (@sophieagermany) May 22, 2016
上記の分野における知識の筆頭はやっぱりまず自分が、たくさんの作品を浴びることなんだと思います。
知識を入れることもセンスを磨くことも一朝一夕にしてできることではないので、やっぱり淡々とやっていくしかない。
ちなみに上記の話は、その分野全体を盛り上げる、という話に繋がりそうです。
以上、最近旅行記が続いているのと、もう少し旅行の話を書きそうなので、ここらで閑話休題でした。
【旅行エッセイ】 疲れるために、旅に出るの。
前回の記事と前後しちゃうのですが、先月お休みを利用してギリシャのアテネ、ギリシャ二番目の街テッサロニキ、マケドニアの首都スコピエ、ブルガリアの首都ソフィアに行ってきました。
【旅行エッセイ】 今日のおかずはきんぴらごぼう
というのは願望です。無性にきんぴらごぼうが食べたくなりました。
今年のコントラスト大賞。