思考の道場

答えのない、問いのまわりをぐるぐると。

【Webエッセイ】数々の試練をくぐりぬけてきたのは、あなた。

引越しの多い、人生でした。

生きてきた年数はそんなに長くないけれど、私は同じ場所に3年以上住んだことがない。だから住んだ場所の数は増えてく一方だったけれど、本の数は一向に増えなかった。引越しがしみついているのか、私は自分の部屋にいるとつい、次何捨てようかなと考えてしまう。特技は今流行りの断捨離。

でも本はやっぱり捨てられない。そう思いつつ、一番重くてかさばるのが本だから、引越しのたびに数々の試練が課される。大体の本は売ったり譲ったりして、気づいたら本棚からこぼれ落ちていった。

だから子どものころに読んだ本は全然ない。たまにふと思い出して懐かしくなって、タイトルが思い出せないからぐぐったり、本屋の児童書コーナーに行って探したりする。子どものころに読んだ本をいつか自分の子どもに読み聞かせてあげるのとか、憧れていたんだけれど。

現在の本棚を見ても、懐かしく感じる本が少ないのは、引越し人生の悲しいところである。

そんな私の本棚でほぼ唯一懐かしく感じられるのが、佐藤多佳子の「サマータイム」だ。たぶん中学生くらいで読んだもの。

この本の透明感から離れがたくて、数々の試練を乗り越えて、今も私の手元にある。

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ストーリーが面白いという小説ではない。でも、忘れられない夏のシーンがあちこちに散りばめられている。道に散らばった、怖いくらい鮮やかなツツジとか、海のようにしょっぱい、ボールいっぱいの手づくりゼリーとか、真っ白なピアノの、ひんやりとした鍵盤とか。

夏の終わりは愛おしくて、忘れがたくて、この本は夏を、子ども時代を、私の代わりにちゃんと残しておいてくれてるんだろう。

そろそろ本格的に秋がやってくるから、今年も「サマータイム」で夏を締めくくろうか。

あなたの手元に残った本も、おしえてください。

2016夏に見たアニメーション映画たち

 最近ちょくちょくアニメ映画を見ているので、まとめてみました。アニメって子どもの頃見ていたドラえもんやコナンで止まっていたんだけれど、蓋を開けてみるとアニメってとっても面白い。実写よりも表現の幅があり、演出や描写に監督の個性が出るからです。元々絵が好きだから、動いている絵を見るのは快感だ・・・ということにいまさらながら気づきました。今は映像技術も上がり、びっくりするほど美しいアニメがわんさかあるし。

 

でも自分好みのアニメを見つけるのって、けっこう難しいんですよね。表現に幅があるからこそ、合わないアニメや表現の仕方は物語うんぬん以前にアウトになってしまうことが。だからってわけじゃないけれど、気になったアニメやよかったアニメは積極的にシェアしていきたいと思います。

 

以下はこの夏に見たアニメ映画です。Paprika以外はスクリーンで見たので、映画を見に行くきっかけにもなれば嬉しいです。

Song of the Sea


アカデミー賞長編アニメ候補作『ソング・オブ・ザ・シー 海のうた』予告編

アイルランド発のアニメーション映画。切り絵風のタッチで素朴な雰囲気につつまれます。一緒に見た相手が「トトロの猫バス」にしか見えなかったというシーンがあるのですが、この監督は実際にジブリから影響を受けていたみたい。

ストーリーはシンプルそのものなので、演出や描写に注目できて、なんだか自分のクリエイティブ欲求めいたものが上がります。

 

君の名は。


「君の名は。」予告

 

なんだか大ブレイクしているようで。新海誠監督の映画は前にも紹介したことがありますが、やっぱり風景の描写は文句のつけようがありません。

 

今までにはあまり見られなかった、ストーリーに起伏のある映画。一回目はストーリーを追うのに必死だったので、もう一回見てから考察記事書きます。

 

Paprika


Paprika (2006) ~ Parade Scene

夢の中でのパレードのシーンが衝撃的すぎて、開いた口がふさがりませんでした。

この監督が若くして逝去されたのは、日本のアニメ界にとって惜しすぎる。 

 

聲の形


映画『聲の形』 ロングPV

 

 

けいおん」や「たまこラブストーリー」の山田尚子監督の最新作。予告見る限りだと恋愛や障害、いじめに焦点が当たっているように感じるけれど、どちらかといえばコミュニケーションの難しさや成り立たなさ、みたいなものにフォーカスが当たっている。

些細な仕草や表情といったディテールの積み重ねによる演出がすばらしい監督なので、今回はどんな風に演出されているのかすごく楽しみでした。これも考察記事書きたいです。

 

chikichiki303.hatenablog.com

 

 

 

 

 

【Webエッセイ】ハグとか、キスとか、握手とか

世の中にはいろんな人がいる。なんて、そんな古くさい言い回し、使うつもりなんてないけれど。

でもやっぱり、そうとしか言えないときもある。

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ドイツに行っていたとき、私の周りにはスペインとかイタリアとか、いわゆるラテン系の人たちが多かった。

彼らは会うたびに熱烈な挨拶を私の前で繰り広げる。ぎゅっと両手で抱きしめてから、キスをちゅ、ちゅ、ちゅと右ほほ、左ほほ、また右ほほと三回ずつ。異性であっても律儀に行う。

私もたまにこの挨拶に巻き込まれる?ときがあって、同性だとまだいいんだけど、異性とこの挨拶を交わすのはさすがに近いなあと感じる。あごひげがじょりじょり私のほっぺたをかすめて、失礼ながら鳥肌がぞわぞわしてしまうのだ。

そこまで開放的じゃない人は、私に右手を差し出してくる。力強く私の目を見て、ぎゅっと一回右手に力を込める。私はその力に負けないように、ぎゅっと握り返す。キスの挨拶に比べれば全然抵抗ないはずなのに、 周りがキスやハグの挨拶をしていると、私には手で距離を置かれているようでちょっと寂しい。

一度、日本の挨拶事情について聞かれたことがあった。そう、私たちが空気を吸うように毎日やっている、あのお辞儀である。美しい文化だねと言う人もいれば、ハグもキスもしないのなんて寂しい人たちなんだと言う人もいた。そういえば彼らは、親子であれ兄弟であれ悲しいときも嬉しいときも、ぎゅっとお互いを抱きしめるのだ。子どもの頃ならいざ知らず、大きくなっちゃったらハグをする機会なんて、恋心を抱いた異性くらいしかない、私たちの文化では。

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そう思うと、パーソナルスペースに入れる人が多いっていうのはいいなあなんて思う。悲しいとき、文字どおり寄り添ってくれる人が、すこうし増えるんだもの。ザッハトルテにたおやかに寄りそう、こってりした生クリームのように。

でも小津安二郎の映画を見ていると、夫婦や親子の間に漂うあの絶妙な距離感も愛おしいなと思う。たぶん私たちは、二人の間に漂うあの距離を、抱きしめているんだろう。

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東京に戻ってきて、道端で大きな円をつくってみんながお辞儀しあっているのを見て、ああここは日本なんだなあと思う。私も空港に降り立った瞬間から、あの絶妙な角度のお辞儀を始めるんだから、そうだ挨拶は文化の権化なんだきっと。

【Webエッセイ】 本にはさまれている、様々なるもの

なにか読みたいなあって思ったとき、あなたは本を買いますか?それとも本を借りますか?

 

私は本を買うことの方が多いのですが、大学の図書館があるので高い本なんかは借りています。貸本はカバーが剥ぎ取られていて、目で楽しめる要素は少ないのですが、その分他の楽しみが。

 

そう、他の人の痕跡が、垣間見えるんです。

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図書館の人の目の厳しさによるけれど、図書館ではけっこう、ページの間に様々なるものがはさまれたまま、棚の中で本は眠っている。メモやしおりは勿論、今日はさまれていたのはペーパーナプキン。

 

ああ前の人(もしくは前の前くらいの人)はこの本、カフェで読んだのかな。よく見るナプキンだからあのチェーンカフェかなあ、なんてそんなことをふと思ってしまう。

 

一度はぱらぱらめくっていたら、本の間から給与明細が出てきた。仕事で嫌なことがあったから適当にしおり替わりに使ったんだろうか、それとも嬉しかったから、しおりにまで使ったんだろうか。

人はいろんなものをしおりに使うんだなあ、と、どこかの誰かの生活を勝手に想像(創造?)してしまう。

 

文章に引かれた線や余白に書きこまれたメモも、貸本の醍醐味。勉強のために借りる本は、結構これらに助けられることが多い。

有難い本なんかは、線が引かれたところを拾い読みするだけで読めてしまう。

 

難しい部分には線が余白へと引っぱってあって、そこメモを読むと、前の人もこの箇所で苦戦したんだな、と思ったりもして、なんだか共にこの本に立ち向かう戦友ができた気分になる。

 

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厳しいところでは、一風変わったしおりや薄く引かれた線なんかは、私の手や目に届く前に消されてしまうんだけれど、本というものを媒介にして、顔も知らない誰かの頭や生活をのぞき見できるのは密かな楽しみである。

 

私はその内本屋をつくりたくて、その暁には、自由に線を引いたり書き込みができる本を置くようにしたいな、なんて思う。

 

...逆に考えると、自分の変なメモやしおり替わりも、誰かの手に渡ってるかもしれないんだけれど。

 

 

 

 

 

 

嘆いているヒマがあったら、少しでも伝えたい。人文学に特化したブログを始めました。

 

ツイッターでは既にお伝えしたのですが、このたび人文学に特化したブログを始めました。

jinbungaku.hatenadiary.com

 

このブログは一人じゃなくて、友人の万葉ちゃんと二人でやっていきます。このブログでも小説とか映画のレビューは書いているのですが、気づいたら旅行のこととかかる~いエッセイとかも書いているため、それなら特化したブログつくってみよう!と話がまとまり、新しく開設することに。

 

たいへんのんびりした更新になると思いますが、その分一つ一つの分量や内容は多くなるので、のんびりゆったりと読んでもらえると嬉しいです。

 

★★★

私が大学で入っていたゼミは大変少人数で5-6人しかいなかったのですが、ある春休みにそれより少ない三人 ー私と、万葉ちゃんと、もう一人ー で読書会をやったんですね。読書会って言っても、毎回読む本の一部を決めて、それを読んできて、集まって2時間くらいわからなかった箇所を一緒に考えたりとか、著者の主張に対してどう思うかとか、そういった自由なものだったんですが。

 

その時選んでいた本は、ニーチェの『ツァラトゥストラはかく語りき』とか、ヘーゲルの『美学講義』とか、ヴァイツゼッカーの『荒れ野の40年とか』、まあ哲学・社会学系のカタイ本だったのですが、でもすごく楽しかったんです。

3人で文字通り頭を突き合わせて、ああでもないこうでもない、これってつまりこういうことかな、いやこれはあの時授業でやったあのことと繋がるんじゃない、とか、やってるだけだったんですが。

 

知識があんまりないもの同士が集まって話が進むのかな、とかやる前は思ったりもしたんですが、いざやると新たな発見があったり、お互いわからないところを一緒に考えたり、普段の授業よりもどうでもいいこと含め自由に言い合ったりして、とっても楽しかったです。すごく知識が増えたかと言われればうんと断言するのは難しいですが、一人で読んでたらつまらなく思えたであろう本も、三人だと(少なくとも私は)楽しく読むことができました。

 

小説もそう、一人で読むことができるし、というか一人で読むのが普通なんだけれど、誰かと読んで語らうと、もっとその面白さに幅と深みが増すよね。そう話して、ブログにまとめていくことにしました。

 

人文学が大事とか必要とか、役に立つとか無くなったら人間的でないとか、そういうのはいっぱい聞くけれど、その楽しさや面白さに言及している、人文学をやっている人って、実はそんなにいないんじゃないか。

でもやっぱり面白いから、人は小説読んだりするわけで。人文学って危機だ…とか嘆いているヒマがあるなら、じゃあ少しでも面白いな、と思ってもらえるきっかけ、つくってみたいと思った次第です。

 

★★★

とまあ、新しくブログをやっていくきっかけをつらつら書いたのですが、まず一回目はサリンジャーの『フラニーとズーイ』を取り上げました。

フラニーとズーイの考察 - 人文学っておもしろい?

今のところ、思ったより多くの方に読んでいただけて嬉しいです。作家や作品の史実を調べたり、先行文献にあたって書いている学術的なものではないので、言っていることの「正しい・正しくない」よりは、「ふ~んこんな読み方もあるのか~面白いかも」を目指しています。

作品が持つ面白さの引き出しを、そっと開けて見てもらえるといいな。そう、小さい頃引き出しに閉まっていた、きらきら光る宝物をそっと取り出して、大切なあなただけに見せていたように。

 

このブログでも更新のお知らせは載せていくので、人文学っておもしろい?のブログは月1~2の特集号を読むようなかんじで、よかったら覗いてみてくださいね。

 

【Webエッセイ】湿り気と、ぶんがく。/ 気候と文学は関係する?

 

谷崎潤一郎の「細雪」、一気に読んでしまいました。読み終えると寂寥感を覚える小説に出会えるのは幸せなことですね。

昭和初期の、没落しかけの家の四姉妹。主に三女雪子の縁談と、末の妙子の恋愛のごたごたを中心に話は進むが、話自体は地味なのに、次へ次と読ませるこの文体は何なのでしょう。

さて読み終わって思ったのが、この小説、ドイツで読んでたらそんなに読む気しなかったんじゃないかなあということ。

 

★★★

ドイツに留学中、私の専らの相棒はkindleで、暇を見つけてはダウンロードして日本語を恋しがってました。

無料の小説も結構あって、その多くは夏目漱石芥川龍之介太宰治や…といった、日本の文豪。

せっかく無料なので芥川龍之介をダウンロードしたはいいものの、最初の三行を読んだだけで頭のてっぺんあたりがくらくらしてきた。なんでって、すごく日本を思わせる単語が出てきて、どうにも言葉が、文体が湿っているんだもの。

その時自分が囲まれていた、どっしりとしたヨーロッパ的建築や、からっとした空気はあまりにもその小説のどろっとした世界とはかけ離れていて、そこから先を読み進めることができなかった。

 

谷崎の「細雪」も、湿り気をたっぷり含んだ小説である。例えば、

夫婦は明くる日、幸子の父が全盛時代に高尾の寺の境内に建立した不動院という尼寺があるのを訪ね、院主の老尼と父の思い出話などして閑静な半日を暮したが、ここは紅葉の名所なので、今は新緑にも早く、わずかに庭前の筧の傍にある花梨が一つ綻びかけているのを、いかにも尼寺のものらしく眺めなどしながら、山の清水の美味なのに舌鼓を打ちつつコップに何杯もお代わりを所望したりして、二十丁の坂路を明るいうちに下った。

 

谷崎潤一郎細雪 上」第一九章

 

これでやっと一文なのだから、ぱたぱたキーボードをたたいていた指は休むことを知らず。

「綻ぶ」「美味」「舌鼓を打ちつつ」...柔らかい表現が目立ちます。この流れるような長い一文と柔らかい表現が相まって、京都の風情を切り取り、しっとりとした味わい深さを醸し出している。

美味なのは「山の清水」じゃなくてこの流麗な文の方…なんて思うのですが、これはじっとりとした湿気の多い日本(っていうと大きくくくりですが)だからこそ味わい深く読める気がします。

 

じめっとした空、じっとりと湿った洗濯物、じんわりまとわりつく風に取り囲まれながら、読みたくなる文章です。

 

反対にドイツで何を好んで読んでいたかというと、何を隠そう(オープンにしますが)ヘミングウェイです。前にちらっと書いたんですが、ヘミングウェイと言えば乾いた文体。

 

chikichiki303.hatenablog.com

 

例えば「日はまた昇る」のこんな一節。

こういうものなのだ。女を、ある男といっしょに旅に行かせる。女にまた別の男を紹介し、そいつと駆落ちさせる。今度は、こっちが出かけていって女をつれもどす。電報には「愛をこめて」などと書く。こういうものなんだ。ぼくは昼食に行った。

 

ヘミングウェイ日はまた昇る」第三篇第一九章

 

細雪」と比べて、このそっけない文章は何なのか。短い文、一切省かれた感情描写。あるのは行動の羅列。

「こういうもの」だとして、「ぼく」がそれに対してどういう感情を抱き、どういう態度を取ったのか、一切語られない。「ぼく」は昼食に向かうのみなのだ。

 

ぱさぱさした文章だけれど、からりとした風に吹かれ、冷たいレモネードなんか飲みながら読むと、行間からじわじわと、何かがあふれ出す。

「こういうものなんだ」と「ぼくは昼食に行った」の間から。あふれ出すものも、からりとしたものに違いないんだけれど。

 

あとはレイモンド・チャンドラー。言わずとしれたハードボイルド小説。これは主人公の探偵がもう、涙もでなけりゃ脇汗もかかないんじゃないかってくらい、乾いています。湿っぽさなんて言葉がそもそもありません。

人の感情なんて知ったこっちゃねえ人生は行動あるのみなんだと、そんな気分のときに読みたくなります。 

 

 

文学って絶対、風土や気候と関係している。今回は湿度(!)に焦点をあててみましたが、天気や気温なんかもっと関係ありそうですよね。

ドイツの半年くらい続くどんよりした暗い冬を潜り抜ける中で、ああこれはドイツ文学がやけに哲学的というか、重苦しいというか、どんよりしているのわかる…という感じでした。

 

そういえば小説の湿度バロメーターつくってみたいねって話しているので、そのうちつくるかもしれません。あなたが思う、からっからの小説と、じっとりして仕方ない小説、あったらおしえてくださいね。

 

★★★

細雪 (上) (角川文庫)

細雪 (上) (角川文庫)

 

 

日はまた昇る (新潮文庫)

日はまた昇る (新潮文庫)

 

 

あなたにとって、インターネットって何ですか? / 灯台もと暮らし・チェコ好きさんのオフラインサロンに行ってきました。

気付いたら大分経っちゃったのですが、先日初オフラインサロンに行ってきました。内容よりいつも読んでいるブログを書いてらっしゃる方たち、どんな方なんだろう?って興味をもっていったので、反省したのが、話されている内容についてもっと考えてくればよかったなあということ。

peatix.com

テーマは「インターネットとの付き合い方」。その場では上手く言語化できなかったことなど、書けたらいいなあと思います。

 

そもそも、なぜこのトピックについて考えてこなかったのか。

インターネットは、私にとっては空気や電気のようなものになっているからでしょうか。

今、自分の周りに空気があるなんてわざわざ意識しませんよね?それと同じように、自分にとってインターネットとは何か?というのはそもそも浮かばない問いだったなと。私は93年生まれなので、これは世代的なものもあるかもしれません。

 

そんなことを言いながら、同世代に比べてネットをやっているかというと、そうでもないと思います。それが変わったのがやっぱり留学に行っていたからで、日本語が恋しかったので自然とネットに触れる時間が増えました。インターネットは主に情報を得るために使っていますが、特に、周囲にいない人の生活や価値観を知りたいがために使っていることが多いです。海外に住んでいる人、起業している人、普通に就活しなかった人、働いていない人、地方に住んでいる人、等々。中々出会えない人たちの情報を、少しでも知れるのはインターネットの大きな強みではないでしょうか。

一方オフラインサロンでは、インターネットを使っていても世界が広がらないという意見がありました。そう、検索ワードに入れない限り、どれほどネットの海に情報が入ったメッセージ瓶が漂っていようとも、掴むことはできないんですよね。また瓶が転がりすぎてて、自分に合った瓶だけ目の前に持ってきてもらう…という流れになってきています。無限の可能性に溢れつつも、溢れすぎてて逆に視野が狭くなっていくこの矛盾。インターネットの難しさは、ここにあります。

 

ネットに対して疲れるか疲れないか

というトピックが出たので、私も考えてみました。私がそんなに疲れていないのは、ブログをやっているものの広く読まれているわけではないので、ネガティブな感情が直接向けられることがないからだと思います。でも疲れると思うこともあって、それは

①感情的なコメント等が多い

②極端なものの言い方が多い

③インターネット上の文章の型が出来上がってしまっている

の三つです。以前にも書いたのですが、だからこそ私は「静かな声が聴こえる場所」をつくっていけたらなと思っています。

chikichiki303.hatenablog.com

 

インターネットに近づくか遠ざかるか

前述したように、私にとってはインターネットは空気みたいなものです。なので空気みたいなものなら付き合っていくしかないし、付き合っていくだけじゃなくて上手く「使って」いきたい。

個人的にはインターネットはすごく公共的/パブリックなものだと思っていて、誰でも見れるからこそ、素顔さらすというよりはあえて「演じて」いきたいなと思っています。演じるというのは嘘をつくとは違って、もちろんこのブログは好きに書いているので本心ではあるのだけれど、それは私の一部でしかなくて「全部」ではない。素顔をさらしていると思うとすごく傷つくこともあるけれど、それは私の一部でしかないと思うと、むき出しのインターネットとも少し付き合いやすくなるんじゃないでしょうか。

というわけで素顔晒し合うのがインターネットの面白いところかもしれないけれど、私のインターネットとの付き合い方はと言われれば、「演じるということ」と答えます。まあそれはインターネットだけじゃなくて、現実世界のあらゆる人間関係にも言えるかもしれません。「本当の自分」なんて、せいぜい一人でいるときに自分は何やってるか、くらいのものなんですから。

 

可能性としてのインターネット

私はやっぱり紙の本が好きだし、リアルに人と会うこと以上に勝るものはないと思っているし、ガラケー維持してた人ってまわりに言われてたようなアナログ人間ではあるのですが、インターネットの可能性を感じているのも確か。

私が好きなのはアートとか小説とかいわゆる人文学で、まあ今のところインターネットとはあまり相性がよくないのですがだからこそ、その二つを組み合わせたら面白いなあと思っています。

 

オフラインサロン、他の人がどのようにインターネットを捉えているのか知れて面白かった。2時間で初対面の人と打ち解けて、かつ話し合っていくというのは難しいなあと思ったので、講演の雰囲気と飲み会でのコミュニケーションの濃さの間があればよかったと思いつつ。自分がリアルイベントやるならどんなかんじでやろう?と考えるきっかけにもなりました。