思考の道場

答えのない、問いのまわりをぐるぐると。

【Webエッセイ】 言葉の檻に、閉じ込められて

何気ない日常に、ふとぬるりと入り込んでくるもの。

私はそういう話が好きです。ホラーは苦手なのでホラー的な意味合いはありませんが。

 

chikichiki303.hatenablog.com

 

この間トラムをぼーっと待っていたのですが、ふと隣の小さな男の子がお母さんに話しかけてる声が。

しゃべってる内容は「あと何分で来るの?」という至極たわいのないものだったのですが、どういうわけか私にはその男の子がふいに、すごく遠くに感じられた。

 

ドイツ語は私にとって外国語しかも第二外国語なので、しゃべるときは意識しないと出てこない。何話すか大体決めて、単語を思い出して、その単語の順序を確認して(ドイツ語はすごく語順がややこしい)、やっと一文しゃべってるんですよね。ああ面倒くさい・・・。

 

でもその男の子はドイツ語が母語なので、当たり前なんだけれど彼には「ドイツ語をしゃべっている」という意識がない。私が意識して日本語で書いたりしゃべったりしないように。

たとえどれだけ私のドイツ語が上達しようと、こんなに意識しないでしゃべることはないんだろうなあと思って、急にその男の子を遠くに感じたものです。ある種の畏敬の念を抱いてしまったくらい。彼は私にとって、絶対的な他者なんですね。

 

私は良くも悪くも人との違いよりも共通点に着目しがちで、片言でも意思疎通はできるし、母語が違えど悩んでることや喜んでいることにも共感できるなあと思うことが多いのですが、上記の男の子をきっかけにふと、どれだけ自分が(同時にその子が)言葉の檻に閉じ込められているかを思い知らされました。

 

勿論同じ言葉をしゃべっていてもその人を完全に理解できることなんてないんだけれど、でも絶対的な他者だなんて中々思いませんよね。やっぱりどこかで同胞だという意識があって、特に日本人が少ない海外の土地で日本語しゃべってる人に出会うと、それだけですごく親近感がわくものです。

 

言葉違えどみな人類、というのも真ですが、言葉が違うと世界を違う認識の体系で見ているわけで。

 

言葉があって初めて、その言葉が示す対象を他のものから分けて見れる。

例えば日本語だと気が合う、気を遣う、気になる、の「気」を他の言語の対応する一語に訳すのって難しかったり、不可能だったりする。

ドイツ語だとFernwehという言葉があるのですが、これに相当する日本語一語はないですね。(この言葉については以前こちらで触れています。)

 

きっと、あのドイツ語をしゃべっていた男の子は日本語をしゃべる私とは違う世界観の中で生きている。違うように世界を見て、理解している。

その近寄れない距離に、絶対的な距離に、ある種の畏敬の念を抱いたんだと思います。

 

でも絶対そこにたどり着けないからこそ、絶対手を触れられないからこそ、近づきたい、手を伸ばしたいとも思うもの。

 

4週間でマスターする英語、じゃないけれど、言語を学ぶときっていかに簡単に学べるかをついつい重視してしまいますよね。

私も勿論そうなんですが、でもこの男の子に出会ってふと、絶対手が届かないからこそ、ドイツ語を学んだら少しは近づけるかもしれない、という欲望がわいたのも事実。

恋愛じゃないけれど、距離は欲望を駆動するんですね。

 

次はドイツ語よりもっと遠くに感じられる、チェコ語とかアラビア語とかヘブライ語とかやってみたいものです。