思考の道場

答えのない、問いのまわりをぐるぐると。

【Webエッセイ】 人間は好きですか

人間など嫌いだ

 
なんて言ってみたい。
 
私は結構、山奥に籠った仙人みたいな人とか、図書館に一人もぐってひたすら研究してる人とか、田舎に引っ込んでこりこり小説書いてる人とかに憧れます。
 
一人でのんびりするのは好きだし、去る者追わず来るもの拒まずという淡泊な部分もある。
 
とかいいつつ、一皮剥くとびっくりするくらいの欲望が眠っていることに気がつきました。
 
誰かを余すことなく理解し、誰かに余すところなく理解されたいというどろどろした、でも切実な欲求が。
 
私はその人がどういう人なのか知っていく瞬間にすごく喜びを覚えます。その人自身が知らない自分を掘っていくときとか。
 
私の関心は宇宙やキツネの耳やアインシュタイン相対性理論に向かうことはなく、
人間の人間による人間のための、小説や絵画、哲学に専ら向かってしまうのです。
 
つくづく人間に関心があって人間が好きなんだなあと。
 
臭い物に蓋をする・・・じゃないけれど、あんまりこういう欲望に目を向けたくありません。でも見ないふりをして知らない間に誰かにぶつけるよりは、認めちゃって芸術とか学問みたいなものに昇華した方がいいかもしれませんね。
 
と言っても欲望は無自覚だからこそ、欲望と呼べるかもしれませんが。
 
ちなみに私は、人を理解したいけれどできないという現実は、絶望であり同時に希望だと思っています。
 

ブログで発信するようになって変わったこと

1年くらい忘備録としてつけていたこのブログを、先月あたりから発信用に変えています。

chikichiki303.hatenablog.com

 

上記の記事では文章の文体が変わってく…みたいな話をしたんですが、他にも徐々に変わってきたなあと感じることがありました。

 

それは、目線が受け手から担い手に変わったこと。

 

私は人文学や物語やアートが好きなのですが、大学の人文学不要論、出版不況、消費されるアート等、私が好きなものを取り巻く環境は、いいかと言われるとそうでもなくて、風当りが強いと感じていました。

なんでこんなものが評価されるんだろう、どうしてみんな経済学部行っちゃうんだろう、なんで観光ビジネスという文脈で、ソフトパワーという文脈で、アートが語られるんだろう、と。

 大学で文学部に入ってから、そのような疑問を持ちそのような状況に半ば嫌気がさしていました。なんでこんな時代に生まれたんだろうと。(というのは大げさだけど)

 

でもブログをやるようになって、そして発信用にしてから思ったのは、嘆いているだけじゃ、何も変わらないということ。

人文学が危機だ・・・・と嘆いてるだけじゃ、ますます痩せ細っていくんじゃないかと思ったこと。いやいや人文学を語るには早いから博士課程まで行ってそれからキチンと論文書いてから語った方がいいなあとも思います。でもそうこうしている内にますます人文学は痩せ細っていくかもしれない。だったらできることからやってってもいいんじゃないか。

 

そして嘆いているよりは、いやいや面白いよ~と何かやってる方が、やってる方も楽しい。

勿論嘆きを昇華して強い感情をもって語るのは、淡々と綴ったものよりもインパクトがあります。どちらが向いているかは人それぞれ状況次第。

 

難しい顔をするんじゃなくて、 - 思考の道場

 

なんでもそうですが、自分がやれることに着目すると精神衛生的にもいいんですよね。完璧とか準備万端はいつまで経ってもやってこなくて、というか完璧が可能ならそれは神様になってしまったも同然で。私はついつい、できていないことに集中しちゃうので落ち込むことが多々あります...。

 

と言うわけで、好きなことなら受け手としてだけじゃなくて、米粒一つの大きさでもいいから担い手であろうと思うようになりました。

 

あと受け手から担い手に・・・と書いたけれど、同時に「いい」受け手でありたいなとも思っています。「いい」受け手を私はまだ上手く言えないのですが、センスがいいこと、いいと思ったものは広めていくこと・応援することかなあと今のところは思っています。美術もパトロンがいたからこそ花開いたところもあるし。小説は読まれないと小説足りえないし。

 

うーんでも好きなものについて語るって難しいですね。感情や感じた事に対して言葉が追いつくまでに、時間がかかります。

 

みなさんはブログをやるようになって、というか何かを初めて、変わったことはありますか?

 

 

 

 

 

 

【Webエッセイ】 頭半分、本にとられ

普段カタイものを書いていると、ふとやわらかいものについて書きたくなりません?

 

私のブログはそれなりに毎回テーマを決めて書いてるので、たまに中身のないものについて書きたくなります…というわけでこの記事はエッセイ的ななにかと名付けてみました。

 

でもエッセイって一番書くのが難しいと思うんですよね。

 

私があーエッセイ読みたいなあと思うのは、難しい本とかに飽きたりそもそもそんなもの読む体力ないとき。

こってりオーストラリア牛ステーキとか玄米と有機野菜のサラダセットとかに飽きて、ちょっとだけ上にクリームが巻いてあるカップケーキとかつまみたくなるように、エッセイが読みたくなる。

 

ちなみに疲れているなら本じゃなくて絵とか映画とかテレビとか動画とか料理とかごはん食べればいいじゃんって自分でも思うんだけれど、活字疲れは活字で癒すというか、どうもあんまり趣味が多くないのか、なんもしたくないときは下手したら起きてる時間ずうっと活字見てます、勿論ネット含めだけど。

 

ロランバルトのテクストの快楽じゃないけれど(読んでないのに引っ張ってきてごめんなさい)、エッセイは純粋なる愉悦のために読んでる、少なくとも私は。

 

あー甘いもの食べたいな、という感覚であーエッセイ読みたいな、となるので、すらすら読めるのが大前提。でもって内容うんぬんより、この文章好きだな言葉選びがリズムが心地いい、って思う。美味しい文章。でもこれって内容で勝負できない分、センスが問われるんですよね。だからエッセイがうまいひとって尊敬します。作家でもウェブ上のひとでも。

 

なんだか話がエッセイの方向にいってしまった。

 

さて、最近なぜだか子どもの頃に読んだ本を再び読んでます。若草物語とかマリア様がみてるとか(全然ジャンルちがう・・って思ったけれどどちらもおんなのこたちのお話だ)。

続けて読んでるからか、没頭してると読み終わっても頭があちら側の世界に行ったまま。ぼうーっとします。ふわふわと、今いる場所の現実感がない。でもって、頭の中の自分との会話も、その文章の地の文章っぽくなってる。

頭半分本に持ってかれちゃってます。

 

これは本に没頭したことあるひとなら、誰でもなったことあるんじゃないでしょうか。このぼおーっとして、周りの現実が現実じゃなくなるとき、一番読書が楽しいときです。

文学、というか物語って、いろいろ手垢とかほこりとか取り除いてくと最後に残るのは結局そこなんじゃないかと。どれだけ頭をあっちの世界に持ってかれたか、どれだけ身体がいまここを離れて浮遊したか。

 

ところでみなさんは最近あちら側に行きましたか?

 

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スターやブックマークつけてくださってる方、ありがとうございます。あんまりものごとが続かない性格なのでとても励みになります。スター経由でいつも私もひっそり遊びに行かせてもらってます。

 

主体的でありつつも忘れたくないこと

よくよく考えるとよくわからなくなるもの。それは自分の主体性。

 

21世紀型の人間というとアレですが、これからの時代は自分で決めて切り開いていかなくてはならない、というのをたまに耳にします。正解がなくなって、選択肢が増えたから。

 

勿論そうだなあというか、まあ確かに誰かのお任せにはしたくないんだけど、ついつい忘れてしまうこと。

 

それは、自分の人生を100%コントロールはできないということ。

 

普段似た人たちに囲まれていると、どの時代に、どの国に、どの両親の下に、どんな生物学的性別で、どんな性格で、どんな健康状態等々で生まれたかによって、ある程度人生は決定づけられている。そんな単純な事実を忘れがちです。8割くらいは生まれた時点で人生決まっていて、残りの2割を日々どうにかこうにかしようと毎日こねくり回している。7割3割かもしれないし、五分五分かもしれないけれど。

 

でもついつい、自分の人生の10割をどうにかこうにかできると、どうにかこうにかしようという気分になってることがあるんですね。少なくとも私はそうです。肩に力入ってるときとか、

 

だから人生何やっても無駄だ・・・と厭世的になりたいわけではなくて、100%自分の手の中に人生があると思うと、しんどくなるんだということ。努力は100%実を結ぶわけではないし、他人の気持ちはコントロールできない。

 

やれることはやるけれど、全てを計画したりしようと思わない。やることはやって、あとは天にお任せします、ってどこかで手を放すと、少しは心穏やかでいれるんじゃないか。

 

だからかはわかりませんが、私は人生設計とかライフプランという言葉がいまいちぴんとこない。大事なのはわかっているんだけれど、設計と聞くとどうも工業製品みたいなのが浮かんじゃって背中が少しむずむずする。あとは自分が結局は、偶然性みたいなものにどこかで惹かれるから。まあこれは個人の好みかもしれませんが。

 

主体的には生きつつも、いや主体的といってもそもそも生かされてるもんなあ、ってくらいの感覚をどっかで持っていたい。

 

というのをこの本を読んでからというもの、考えています。

人生について (新潮文庫)

人生について (新潮文庫)

 

 

これ以外にも、孤独とか怒りとか羞恥とか、誰しもがかかえてるけれど言葉で表現しにくいことが書かれています。いいとか悪いという軸じゃなくて、そもそも孤独ってなんだろう?とか考えてしまう人にはおすすめ。淡々と綴られています。

淡々と綴るって、簡単なようで難しい。

 

 

 

 

 

 

 

感受性との付き合い方

誰しもが繊細というか、敏感に反応してしまうところを持っているかと思います。

 

すいーと流せばいいのに、アンテナが立っているせいか、引っかかってしまうこと。

周りは引っかかっていないから、あれ自分だけ・・・?と思ってしまうこと。

 

私はというと、人の感情や、一般的によいといわれていることにアンテナがぴーんとはってしまうようで、

前者は「あれ今の人どう思ったかな気分悪くしてないかな気にしてないかな」と気にしてしまうし、

後者は「成長とか効率とかグローバル化とか多様性とか言ってるけどほんとのとこどうなの・・・?」とか妙にひっかかってしまう。

 

人よりも繊細に敏感に反応してしまうと、その分多くを抱え込むことになるし、問いが共有されないので、息苦しく感じたり孤独を感じたりします。いわゆる、生きづらさのことですね。

 

だから私は生きやすい考え方をもうちょっと身に着けようかなーと思ってこのブログ書いているところもあるのですが、

かと言ってその感受性みたいなものを失いたくないとも一方で思っています。

 

それはきっと、人が気づかないところに気付くという意味で、強みにもなりうるから。そして、それが自分のいわゆる個性ともなっているから。

 

自分の持っている感受性を活かしつつ、でもその感受性ゆえに自分が自滅してしまわないさじ加減を、どう見つけていくか。

 

生かすも殺すも、あなた次第。

そのことに私がぼんやり気づいたのは、やっと最近のことです。

 

反対に私は、匂いや音や身体や法的正義や論理性とかに鈍感です。鈍感なところはそこに繊細な人の気持ちがわかっていないので、「わかっていない」ということだけはわかっていたい、今日この頃。

 

自分の感受性くらい

自分の感受性くらい

 

 感受性について、ふと思い返すのは、この詩。

 

あなたの感受性は、どこにありますか。

 

 

 

難しい顔をするんじゃなくて、

まだまだ気温が一けた代の日々が続きますが、少しずつドイツにも春の気配が。

 

ながーい冬を振り返って思うのは、あんまり難しい顔するもんじゃないなあと言うこと。

 

私は根がマジメなところがあるのか、すいーっと済ませればいいところを、いやいやほんとにそれでいいのか?と考えてしまうクセがある。

 

勉強してても、人文学の意義とは、とか文学部の必要性とは、とか妙に力んでるときがあって、きっとそういうときの私はムズカシイ顔をしているのだと思う。

 

でも気難しそうな顔をした人にあまりお近づきになりたくないように、難しい顔してやっていることって、それを好きな人同士だといいかもしれないけれど、そうじゃない人にはあんまり魅力的に伝わらないんじゃないか。

 

だから私は人文学をやってる端くれとして、巷の「人文学の危機」みたいなものを考えてはいるけれど、どうにもこうにもカタイ話が多いので(私自身はそういう話好きだけど)、「いやいや人文学おもしろいよ~」という話を少しずつできればなあと思うようになった。

 

まあそれの実験の場として、このブログを書いているところもあります。

そうそう、ブログもぽつぽつ更新しようと思うと、あんまり難しい顔してできないですね。力むと肩凝るし…。

 

ちなみに難しい顔するんじゃなくて…と思ったのは、自分にとっての大切な人を大切にするためでもあります。難しい顔してくらーくなって嘆いているよりは、面白そうな顔しててできることやっている方が、周りの人も笑顔でいてくれる。

 

怒りや嘆きと言った感情は、周りや社会を動かしていく大きな素となり得るけれど、それが自分に跳ね返ってくる危険を伴うということ。

反面おもしろそうな顔してやっていることは、一見インパクトも小さくて「軽そう」に見えるかもしれないけれど、淡々と続けていきやすいということ。

 

上手くまとまってませんが、やりたいことをやろうとするとき、伝えたいことを伝えるとき、自分がどっちのやり方に合っているか、考えるのにいいかもしれません。

 

 

 

物語を展開することと、遠くに行きたい願望

ここではないどこかに行きたくて、からだがむずむずする。

 

そんなからだを伴って、私はここ遠く離れたドイツにいます。

 

ドイツ語にFernweh(片仮名で書くとフェルンヴェーかな)という言葉がある。

 
Homesick(ドイツ語だとHeimwehハイムヴェー)の言わば対義語で、遠くに行きたい願望のこと。
 
私は初めてこの言葉を知ったときなんて秀逸な言葉なんだろうと思った。日本語にはあるのかな。ないのかな。
ちなみにあのドイツきっての文豪ゲーテは、失恋してイタリア旅行に出ているし、ハプスブルク家にお嫁に行ったシシーは、生涯のほとんどを旅行して過ごした。
そういえば昔から、イタリアはドイツの人にとって憧れの地だったみたいです。重く立ち込める、内省的になるしかないような雲に圧迫されていると、遠くに行きたくもなるわ…というのが、ドイツの冬を過ごし身に染みてわかりました。
 
家に帰りたい願望と、遠くに行きたい願望と、そのあいだを行ったり来たりするのはやっぱり古今東西問わず普遍的なのでしょうか。
 
さて、旅行から帰ってきたので本をぱらぱら読んでいます。
小説を読みながら、ふっと思うこと。
 
どれだけ旅行しても遠くに行っても、物語を読むときほど遠くに行くことはないんじゃないか。
 
村上春樹の文章にこう書いてあった。
 
……物語というものは聞き手の精神を、たとえ一時的にせよ、どこか別の場所に転移させなくてはならないからだ。おおげさに言うなら、「こちらの世界」と「あちらの世界」を隔てる壁を、聞き手に超えさせなくてはならない。
 
 
ちなみに、実際にあちら側に行ってしまうのはエンデの「はてしない物語」。
主人公の男の子は物語を読んでいるうちに、物語の世界に入り込んでいく。
児童文学だけど、「物語とは何か」を巡る物語になっています。
 
 
私はこの間、本が読めなくなるという状況になったけれど、その際何よりも辛かったのが小説が読めないことだった。
別世界に行けないのだ。小説を読み終えて、その後の話を自分で想像(創造)することもできなかった。
そのことが、どのくらい息苦しいことなのか初めて気づきました。
 
現実のことじゃない小説なんて読んだってなんの足しになるの?と、小説を読まない人はそう思うかもしれませんが、小説に取りつかれた人は、物語を読むことが一番、遠くに行きたい願望Fernwehを満たしてくれる、と経験的に知ってるんじゃないでしょうか。
 
小説の、物語の一番の魅力とは何かと聞かれたら、結局は上記に尽きます。
ここではない、どこか別の場所に行けること。
それもいますぐ、いまここに、いながら。
 
 
さて、閑話休題
 
この度カクヨムというサービスがオープンしたので、私も小説を投稿してみることにしました。でもまだ使い勝手がわからないのと、noteでも結構小説投稿されていることに気付いたので、しばらく両方に投稿します。
 
数年前に書いたやつもあり今読むと恥ずかしくなりますが、発信していくことに慣れる・SNSをいくつか使ってみる・他の小説書いている人を自分で発掘する、ということをしてみたいので、やっていきます。
 
「ブログと小説両方やってる人の文体はどう影響しあいどう変わっていくのか」みたいなよくわかんない実験にもし興味がある方は、下記から覗いてみてくださいね。
 

note.mu

 

kakuyomu.jp

 

重複投稿しているので、読みやすい方でどうぞ。

※今はnoteのみで更新中です。