思考の道場

答えのない、問いのまわりをぐるぐると。

周りの目が気になるときは、自分に目が向きすぎているとき

あ、今気が利かないって思われたかな。

ばかだなって思われたかな。

失礼って思われたかな。

 

.......などなど。人に囲まれて、というか学校や職場という人間関係に囲まれていると、まあ一度くらいは考えてしまう、この問い。

 

周りが気になって仕方ないときって、ありますよね。自分にばかりベクトルが向いてしまう、そんなとき。

 

どうして自信が持てないのだろう、人から認めてもらいたい、自分自身を認めれるようになりたい、嫌われたらどうしよう、などなど。そして負のスパイラルにはまっていきます。

 

そういうとき、周りの人からどう思われているかが気になっているので、外に関心が向いていると思いがちです。だから「周りは気にするな」というアドバイスが多い。

 

でも実は、周りが気になるときって逆に、ベクトルがとことん自分に向かっているときなんですよね。要は関心が自分に向きすぎている。「私は周りからどう見られているんだろう」と、主語は「私」なんです。

 

そういうとき、「周りを気にするな」と思うのも間違ってはないけれど、私は意識して他の人に関心を向けてみるようにしています。あの人、元気かな?とか、あの人のこういうところ、好きだな、とか、そういう些細なところから。人は誰だって、多かれ少なかれ承認欲求を持っている。自分が人に認めてもらいたいように、他の人も認めてもらいたいんだな、と思えると、ふっと気が楽になるし、自分ができることに関心が移っていくはず。

 

あとは、 やっていることの先にいる人。仕事って、職場の人のためにしているわけではありませんよね。必ず、自分が携わっているサービスを使っている人は外にいる。そのやっていることの先にいる人を見る。勉強だと自分のためにやるって意識が強いですが、その先にあるのは、誰かのために知識を役立てることだと思います。

 

外へのベクトルは、何も他の人だけに向けるものではありません。周りの景色や風景を落ち込んだ時なんかは、見てるようで全然見ていないものです。意識して周りに目を向けて、「何かを見る」だけで、心が落ち着くことがある。刻一刻と変わる夕空とか、鈍く光る欠けた月とか、アスファルトの隙間からひっそりと顔を覗かせる、野花とか。

 

そう、外に目を向けると、自分の存在を忘れられるから。

「我を忘れる」ほど 、何かに没頭して自分という意識が消えているときほど、楽しく生きられるというのは、どうやら真実で。それは「私」を生きているんじゃなくて、「今」を生きているからでしょう。

 

どうも人は、自分の存在を忘れているときが、一番調子がいいみたいです。

 

★★★

我を忘れるっていうことについては、この記事でもふれています。

 

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「聲の形」映画感想/考察と、監督インタビュー集-「顔を上げる」ということ

 

少し前になっちゃうのですが、映画「聲の形」を鑑賞してきました。前回までの山田監督映画「けいおん!」や「たまこラブストーリー」とはうって変わって、ずっしりとのしかかる映画に仕上がっていました。勿論それは悪いことではなくて、よりリアルに感じられるということでもある。映画を見て感じたこと、思ったことをつらつら書いていきます。※ネタバレありです。

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賛否両論の映画

公開日に見に行って思ったのが、きっと賛否両論の映画になるだろうということ。というのも焦点があたっているのが、耳の不自由な硝子をいじめていた将也なんですね。将也を中心に話は進んでいくので、見ようによっては硝子が都合よく描かれているように感じる。将也と友達になりたがったり、再会して許したり、好きになったり。

硝子の内面の葛藤も描かれていなくはないですが、映画がそこにフォーカスしていくわけでもないし、いじめていた人たちが反省する映画でもない。道徳的教育的見地から見ると、批判もあると思います。

 

でも監督がインタビューで言っているように*1、この映画は将也の物語。将也がどうやって最終的に「顔を上げるか」という話で、そこにフォーカスすると、とても丁寧に描かれた映画のように感じました。元々原作がある映画なので省略された部分はたくさんあると思います。その中で主人公の将也に焦点を当てたということに注目した上で、この映画を評価しています。

 

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「顔を上げる」ということ

この映画は文字通り、というか画面通り、将也に始まり将也で終わります。将也が橋から飛び降りようとしているシーンに始まり、彼が顔を上げて、周りの世界の美しさに気付くシーンで締めくくられます。将也に絞るとこの映画は、前回の「たまこラブストーリー」と同じく、シンプルなストーリーを基に進みます。「自分を許し、受け入れ、そして他者や世界を受け入れる」という話。とまとめちゃうととてもシンプルですが、シンプルなものほど実際に行うのはとても難しい。

 

将也は小学生のときに硝子をいじめたことがきっかけで、今度は自分がいじめられるようになります。その経験を経て、「自分は生きているに値しない」と思うように。その後高校生になって、硝子に再会しにいくところから、話は始まります。

将也の周りの人たちの顔には、大きくバッテン印がついています。そして学校の廊下を歩くとき、耳を塞いだり、顔を下に向けたりしている。他者が怖く、向き合えていないということを視覚的に表しています。そんな彼は硝子に再会しにいったことをきっかけに、小学校の頃の同級生と会い、今の自分がこうなった原因である過去に向き合うようになります。

 

将也は硝子にたいして罪悪感を持っているのですが、硝子だって彼に罪悪感を抱いているんですよね。そもそも硝子は小学生のころの将也にも、「友だちになりたい」と伝えています。将也はそもそもどういう子だったかというと、退屈しやすい子だったんですね。クラスのリーダー格だったから、ある意味自分の世界では、いろいろと思い通りに進む。ゲームが簡単だとつまらないように、思い通りになる環境は退屈しやすい。 

だからこそ硝子が転校してしたとき、ラスボス!というゲームのシーンがありますが、あれには将也が彼女に興味を持ったきっかけが端的に表されている。単純な興味と好奇心だったはずなのに、彼はそれを上手く硝子に伝えることができずに、いじわるする形になってしまう。小学生の男の子が好きな女の子をからかうとはよく言いますが、将也の硝子に対する接し方も、それに近かったのではないでしょうか。

 

「あなたのこともっと知りたい」と将也は思っていますが、硝子もいやがらせに対して怒るわけでも、立ち向かっていくわけでもありません。将也にしては「のれんに腕押し」状態だったかもしれない。

そんな硝子に対してだんだんといらだっている描写もあり、遂に放課後の教室で取っ組み合いにもなります。この取っ組み合いが、将也と硝子が初めてぶつかったシーンだと思います。そして硝子にとっては、初めて自分の気持ちをぶつけられた他者なんじゃないでしょうか。だからこそ硝子は、将也のことを忘れてはいませんでした。硝子にとっては、将也は不器用でネガティブな形であれ、自分に対して向かってきた相手だったんだと思います。

 

将也が自分を許し受け入れていく大きな契機って何だったのかなと思っていたのですが、私は飛び降りようとした硝子を助けたときなんじゃないかと考えています。あの時の将也は無我夢中で硝子に駆け寄り、初めて下の名前で「しょうこ」と呼ぶ。

二人とも助かったあと、将也は硝子に「君に生きるのを手伝ってほしい」と伝えます。将也はこのことをきっかけにして、初めて自分から能動的に他者を求めた(求めていると気づいた)のではないでしょうか。「あなたが必要です」と伝えることは、その相手にとっても希望になりえます。

 

自分を許したり、受け入れるのって、他者が必要なんじゃないか。そんなのどうでもよくなるくらい、「あなたに生きていてほしい」と思えるということは、それくらい他者を受け入れているということです。「自分を許す→受け入れる→他者を受け入れる」という順番かと思っていたけれど、「他者を受け入れる→他者を受け入れた自分を受け入れる」ということもあり得るんじゃないか。

自分を受け入れられないと他者も受け入れられないように感じますが、そんなの飛び越えるくらい、誰かを大切に思う、必要とするということがある。将也にとって硝子はもう、罪悪感を抱く相手でも、謝らなければいけない相手でもなく、生きていくのに必要な相手なんだと。

 

でも将也が自分自身を受け入れられたと実感できたシーンは、ラスト学校の文化祭で顔を上げるところだと思います。このシーン、将也の周りの世界はとても美しく描かれている。みんなの雑多な笑い声、色とりどりの飾りつけ、笑顔。将也は初めて、世界がこんなに美しかったということに気付いたのではないでしょうか。

でも思えば、この映画では終始風景や背景はとても美しく描かれているんですよね。そう、世界はすでに将也を受け入れている。美しく包んでいる。でも自分が顔を上げないと、そのことに気付けない。どんな人にだって、「世界は既に美しく存在している」という事実は、私たちを支えてくれます。たぶん自分を受け入れるということは、世界に支えられていることに気付く、ということでもある気がします。

 

顔を上げるのも自分を受け入れるのも許すのも難しいけれど、世界はそこに存在している。将也がこのことに気付くラストシーンは、一番の見どころ、というか、今までのシーンが全てここに向かっていったように感じました。

 

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耳が不自由という「個性」

この映画では硝子の聴覚障害を「個性」として描こうと試みているのではないでしょうか。だからこそ、この話は障害やいじめといったテーマに終始しているわけではない。

それを一番描いているのは、同じく小学校のときの同級生、植野のシーンです。彼女は硝子の障害のために、硝子を慮ったり、優しくしたり、彼女に配慮するということがありません。それは傍から見ていると「やなやつ」なんですが、その分真っすぐ硝子にぶつかっていきます。「あなたが大嫌い」と真正面から言える人なんて、この世界でどれほどいるでしょう。そんなにいないんじゃないんでしょうか。

 

植野は硝子を、自分と同じ土俵にいる一人の女の子として見て、言わば将也を挟んでライバルになり得る相手として、対等に接します。だからこそ、転校生で耳が不自由という、将也の興味を惹く硝子がうとましいし、妬ましく感じます。また、将也と植野がぎくしゃくし出した原因として硝子を見て、嫌いになります。

でも硝子はそう言われても、冷たくされても、植野にぶつかっていくことができません。「私が悪いから」「私は私が嫌い」と自分を責めます。自分を責めるというのは一見反省していてよいことに見えつつも、目線が自分に向かっていて、相手に向いていないんですよね。そのことを嫌い、「私に向かってきて」と伝えられたのが、植野なんだと思います。硝子と将也が「好き」という感情でぶつかっていくように、硝子と植野は「嫌い」という感情でぶつかっていく素地があるのです。

 

よく好きの反対は嫌いじゃなくて無関心と言いますが、「嫌い」という感情は「好き」と同じくらい、場合によってはそれ以上のエネルギーを使います。「嫌い」と伝えることは同時に、「あなたのことそれだけ関心を持っている」と伝えることでもあります。

 

ラストの方で植野が硝子に手話で「ばか」と伝え、それに対して硝子が「ばか」と返すシーンがあります。植野は手話で伝えることで「あなたともっと話したい」というメタ・メッセージを送り、硝子はばかと言われて落ち込んだり、自分を責めたりすんではなくて、「ばか」と返します。同じ言葉を返すということは、「あなたの言葉を受けとった」というメッセージであり、同等の言葉を言うことで初めて植野に向かいにいったということではないでしょうか。

 

コミュニケーションの基本はキャッチボールであり、同じ言葉をおうむ返しにして、「私はあなたの言葉を受け取った」と伝えることだとも言います。だからこそ、この「ばか」とお互いに言うシーンは、この映画において最もその後の可能性を秘めていたシーンだと感じました。硝子は引け目を感じることなく、植野と対等に接していくことができるようになるんじゃないでしょうか。

 

普通は個性とみなされないものを個性として描いたものとして、「魔女の宅急便」が挙げられます。キキは空を飛べるけれど、スランプだってある。その個性を活かしてどう他者と、自分と向き合っていくか、というのは魔女ではない私たちの普遍的なテーマでもあります。

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耳が不自由ということを理由に引け目を感じたり、他の人が慮って距離を置くのではなく、それを踏まえた上で「だから何なのよ」とぶつかっていく植野みたいに、個性として捉えていくことは、新たなコミュニケーションの可能性を示唆しているのではないかと思います。

 

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橋と水

映画で頻出するのが橋、そして川などの水です。将也と硝子が待ち合わせするのは橋の上が多い。橋は離れている二つの場所を架けるので、歩み寄りたい二人の心情を表していると思います。

水はどうでしょうか。川に飛び込んだり、水の中に入るシーンが多いのですが、私は何だろう、いろんなものを取っ払って原点に帰る、というようなイメージを抱きました。お母さんのお腹の中にいるときに、戻るみたいに。

水の中では目も耳も呼吸も不自由になるので、水は障害になりえます。でも逆に、水に包み込まれている。人と人との間の空気や距離も、水みたいなもので、コミュニケーションを阻害するけれど、でもそれがないと伝わらないし(音は空気を伝わるし)、私たちを包み込んでいる世界も空気や何かとの距離なんですよね...うーん水については色んな解釈ができそう。まだ釈然としないので、考える余地ありな部分です。

 

後味の悪さ

 この映画を見終わったあと結構ぐったりしてしまったんですが、それはカタルシス的描写が少なくて、後味の悪さが残ったからだと思います。悪い意味ではなくて、「考えさせられる」という意味でです。将也も硝子も植野も、誰一人としていい人が出てきません。自分もいじめてしまう、自分を嫌いになってしまう、自分可愛さゆえ傍観者になってしまう可能性があると思ったからこそ、誰もが映画の中の誰かであり得ると思いました。それだけ普遍的な人物の描き方をしているところが、この映画の、この監督の強味だと思います。

 

映画の尺のわりに登場人物が多くて一人ひとりの描写が深くできなかったり、途中中だるみしたり、もう一度見るのにエネルギーが要ったりともったいないかなあと思った部分もありますが、これまでのシンプルなストーリーの骨子の上に、コミュニケーションの難しさ、障害の捉え方、いじめの問題、家族のあり方といった複雑な要素を重ねて、より複層から成る映画になっていたのは、今後山田監督がつくる作品への更なる拡がりと可能性に思えます。

 

まだまだ演出面など考察できていない部分がたくさんあったり、見逃して勘違いしている部分もあるかと思うので、気付いたら随時更新していきます。

 

最後に、監督のインタビューがけっこうウェブでも見れるので、リンクを。

 

映画「聲の形」監督に聞く「開けたくない扉を開けてしまった感じでした」 - エキレビ!(1/4)

 
 

【Webエッセイ】淡々と、その言葉を。

言葉、ことば、コトバ。

人が人へ、紡ぐもの。

ひっそりと咲く花のごとく、そこにそっと佇むもの。

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言葉は人を傷つける。自分を縛るし、相手だって縛ることがある。一生あの人の一言が忘れられないこともある。
言ったことの根拠や具体例を示せと言われて、ぐっと黙ってしまうこともある。
言葉にした瞬間に、ぽろぽろ落ちていく感情が大海原を漂っている。

だから言葉は嫌い。

なんて言えたらきっと、楽だろう。

言葉じゃ伝わらないことがある。言葉じゃなきゃ伝わらないことがある。とかそういうことを言いたいわけじゃない。

言葉が好きだ、文字が好きだ。でも言ってはいけないかなとか、誰かを傷つけるかな、とか気にしてしまうことがある。

言葉が怖くなることがある。

でもそれじゃきっと、届けたい人への言葉だって、届かなくなっちゃう。だれかを傷つけることがあっても批判されることがあっても、淡々と綴っていけば、いつか届けたい人に届くことはあるんだろうか。

一人の人を信じるのと同じくらい、言葉やその力を信じるのは難しい。

淡々と綴ること。淡々と信じること。言葉への信頼が揺らぎそうなときは、でもやっぱり、淡々と紡いでいくしかないのかもしれない。


【Webエッセイ】その瞳で食べられたら、いいのに。

秋の夜長には、エッセイが読みたくなる。

のかどうかはわからないけれど、定期的にエッセイが読みたくなる時期があり、だからここ最近は書く方も、めっぽうエッセイめいたものになってしまっている。

エッセイめいたものはなんだろう、パソコンじゃなくて、スマホでぽちぽち書きたくなる。前にも書いたけれど、スマホの方が頭と指先が直に繋がっているかんじがするのだ。

★★★
私が主に読みたくなるエッセイは二つある。一つは旅行エッセイ、もう一つは食エッセイ。

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今読みたくて仕方ないのは食エッセイの方で、食欲の秋だからだろうか、ああなんか美味しいもの食べたいと思うの同じくらい、いや場合によってはそれ以上に、美味しいものについて書かれた文章が読みたいと思う。舌は肥えていないし、薄味が好きだし、美味しいレストランの開拓なんて全然しないのに、「そとがわは、こげ目がつかない程度に焼けていて、中はまだやわらかく湯気のたっているオムレツ」と目にすると無性にそんなオムレツが食べたくて食べたくて、仕方ない。じんわりと潤ってくる口の中を前にして、これを欲望と言わずになんと言おう。

ちなみに私はこの有名な食エッセイ「巴里の空の下オムレツのにおいは流れる」を読んで早速ばたばたとオムレツをつくった。悪くはなかったけれど、読んだときほどオムレツは美味しくなかった。

グルメじゃない私だけれど、食について書かれた文章を読みたいと思うこの欲望は何なのだろう。そう、単純に快感なのだ、オムレツについて書かれた文章を目が味わうのが。

★★★
家にある食エッセイで残っているのは、なぜか全部卵料理をめぐるもの。なんだろう、卵ってオムレツにも卵焼きにも卵かけごはんにもすき焼きのたれにもケーキにもなって、その妖美な形や変形ぶりに、そそられるんだろうか。

ちなみに書かれた食べ物で一番食べたくなるのは、ドーナツである。ドーナツとコーヒーを買って車の中でかじったとか小説に出てきただけで、今すぐドーナツを買いに走り出したくなる(最近はコンビニに売ってるので可能になりましたね)。

そういえば阪大から出ている「ドーナツの穴だけ残して食べる方法」みたいなタイトルの本もあったし、ドーナツも卵と同様、人に省察を迫るというか、きっと語りたくなる何かがあるのだ。

と書いているだけで、ドーナツが食べたくなってきた。真夜中のドーナツは数ある夜の営みの中でも、最も罪悪感にまみれた快感。でも今日は既に一個食べたから、諦めないと。

ドーナツの夢、見られますように。



【Webエッセイ】数々の試練をくぐりぬけてきたのは、あなた。

引越しの多い、人生でした。

生きてきた年数はそんなに長くないけれど、私は同じ場所に3年以上住んだことがない。だから住んだ場所の数は増えてく一方だったけれど、本の数は一向に増えなかった。引越しがしみついているのか、私は自分の部屋にいるとつい、次何捨てようかなと考えてしまう。特技は今流行りの断捨離。

でも本はやっぱり捨てられない。そう思いつつ、一番重くてかさばるのが本だから、引越しのたびに数々の試練が課される。大体の本は売ったり譲ったりして、気づいたら本棚からこぼれ落ちていった。

だから子どものころに読んだ本は全然ない。たまにふと思い出して懐かしくなって、タイトルが思い出せないからぐぐったり、本屋の児童書コーナーに行って探したりする。子どものころに読んだ本をいつか自分の子どもに読み聞かせてあげるのとか、憧れていたんだけれど。

現在の本棚を見ても、懐かしく感じる本が少ないのは、引越し人生の悲しいところである。

そんな私の本棚でほぼ唯一懐かしく感じられるのが、佐藤多佳子の「サマータイム」だ。たぶん中学生くらいで読んだもの。

この本の透明感から離れがたくて、数々の試練を乗り越えて、今も私の手元にある。

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ストーリーが面白いという小説ではない。でも、忘れられない夏のシーンがあちこちに散りばめられている。道に散らばった、怖いくらい鮮やかなツツジとか、海のようにしょっぱい、ボールいっぱいの手づくりゼリーとか、真っ白なピアノの、ひんやりとした鍵盤とか。

夏の終わりは愛おしくて、忘れがたくて、この本は夏を、子ども時代を、私の代わりにちゃんと残しておいてくれてるんだろう。

そろそろ本格的に秋がやってくるから、今年も「サマータイム」で夏を締めくくろうか。

あなたの手元に残った本も、おしえてください。

2016夏に見たアニメーション映画たち

 最近ちょくちょくアニメ映画を見ているので、まとめてみました。アニメって子どもの頃見ていたドラえもんやコナンで止まっていたんだけれど、蓋を開けてみるとアニメってとっても面白い。実写よりも表現の幅があり、演出や描写に監督の個性が出るからです。元々絵が好きだから、動いている絵を見るのは快感だ・・・ということにいまさらながら気づきました。今は映像技術も上がり、びっくりするほど美しいアニメがわんさかあるし。

 

でも自分好みのアニメを見つけるのって、けっこう難しいんですよね。表現に幅があるからこそ、合わないアニメや表現の仕方は物語うんぬん以前にアウトになってしまうことが。だからってわけじゃないけれど、気になったアニメやよかったアニメは積極的にシェアしていきたいと思います。

 

以下はこの夏に見たアニメ映画です。Paprika以外はスクリーンで見たので、映画を見に行くきっかけにもなれば嬉しいです。

Song of the Sea


アカデミー賞長編アニメ候補作『ソング・オブ・ザ・シー 海のうた』予告編

アイルランド発のアニメーション映画。切り絵風のタッチで素朴な雰囲気につつまれます。一緒に見た相手が「トトロの猫バス」にしか見えなかったというシーンがあるのですが、この監督は実際にジブリから影響を受けていたみたい。

ストーリーはシンプルそのものなので、演出や描写に注目できて、なんだか自分のクリエイティブ欲求めいたものが上がります。

 

君の名は。


「君の名は。」予告

 

なんだか大ブレイクしているようで。新海誠監督の映画は前にも紹介したことがありますが、やっぱり風景の描写は文句のつけようがありません。

 

今までにはあまり見られなかった、ストーリーに起伏のある映画。一回目はストーリーを追うのに必死だったので、もう一回見てから考察記事書きます。

 

Paprika


Paprika (2006) ~ Parade Scene

夢の中でのパレードのシーンが衝撃的すぎて、開いた口がふさがりませんでした。

この監督が若くして逝去されたのは、日本のアニメ界にとって惜しすぎる。 

 

聲の形


映画『聲の形』 ロングPV

 

 

けいおん」や「たまこラブストーリー」の山田尚子監督の最新作。予告見る限りだと恋愛や障害、いじめに焦点が当たっているように感じるけれど、どちらかといえばコミュニケーションの難しさや成り立たなさ、みたいなものにフォーカスが当たっている。

些細な仕草や表情といったディテールの積み重ねによる演出がすばらしい監督なので、今回はどんな風に演出されているのかすごく楽しみでした。これも考察記事書きたいです。

 

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【Webエッセイ】ハグとか、キスとか、握手とか

世の中にはいろんな人がいる。なんて、そんな古くさい言い回し、使うつもりなんてないけれど。

でもやっぱり、そうとしか言えないときもある。

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ドイツに行っていたとき、私の周りにはスペインとかイタリアとか、いわゆるラテン系の人たちが多かった。

彼らは会うたびに熱烈な挨拶を私の前で繰り広げる。ぎゅっと両手で抱きしめてから、キスをちゅ、ちゅ、ちゅと右ほほ、左ほほ、また右ほほと三回ずつ。異性であっても律儀に行う。

私もたまにこの挨拶に巻き込まれる?ときがあって、同性だとまだいいんだけど、異性とこの挨拶を交わすのはさすがに近いなあと感じる。あごひげがじょりじょり私のほっぺたをかすめて、失礼ながら鳥肌がぞわぞわしてしまうのだ。

そこまで開放的じゃない人は、私に右手を差し出してくる。力強く私の目を見て、ぎゅっと一回右手に力を込める。私はその力に負けないように、ぎゅっと握り返す。キスの挨拶に比べれば全然抵抗ないはずなのに、 周りがキスやハグの挨拶をしていると、私には手で距離を置かれているようでちょっと寂しい。

一度、日本の挨拶事情について聞かれたことがあった。そう、私たちが空気を吸うように毎日やっている、あのお辞儀である。美しい文化だねと言う人もいれば、ハグもキスもしないのなんて寂しい人たちなんだと言う人もいた。そういえば彼らは、親子であれ兄弟であれ悲しいときも嬉しいときも、ぎゅっとお互いを抱きしめるのだ。子どもの頃ならいざ知らず、大きくなっちゃったらハグをする機会なんて、恋心を抱いた異性くらいしかない、私たちの文化では。

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そう思うと、パーソナルスペースに入れる人が多いっていうのはいいなあなんて思う。悲しいとき、文字どおり寄り添ってくれる人が、すこうし増えるんだもの。ザッハトルテにたおやかに寄りそう、こってりした生クリームのように。

でも小津安二郎の映画を見ていると、夫婦や親子の間に漂うあの絶妙な距離感も愛おしいなと思う。たぶん私たちは、二人の間に漂うあの距離を、抱きしめているんだろう。

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東京に戻ってきて、道端で大きな円をつくってみんながお辞儀しあっているのを見て、ああここは日本なんだなあと思う。私も空港に降り立った瞬間から、あの絶妙な角度のお辞儀を始めるんだから、そうだ挨拶は文化の権化なんだきっと。