思考の道場

答えのない、問いのまわりをぐるぐると。

【Webエッセイ】 身の回りのものを、柔らかな視線で包んでみたい。

永遠に続くかと思われた冬(誇張表現ではない)がやっとその終わりを見せてきた、ドイツ。

留学生活も残り三か月を切って、そろそろカウントダウンが始まったかな、という頃。

 

やっとやっと、身の回りが春めいてきました。

新緑が目に柔らかな視線を注ぐ中、太陽の光だけは真夏並み、いや真夏越え。

気温は10度超えてないのにね。不思議な組み合わせです。

 

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桜も咲いていました。春が来ることが泣くほどうれしいなんて、初めての経験です。

肌に触れる空気があたたかくて、気が遠くなる高い空を見上げてるだけでなんとかなるかなと思えるんだから、本当に人は気候に左右されるもんです。

こっちに来てからのある意味一番大きな気づきだったかもしれません。

 

★★★

ところでみなさん、小学校あるいは中学校のときの理科の授業、覚えていますか?

私はこれと言って理科が好きではなかったので、特筆するような思い出も特にないんですが、顕微鏡覗いたり、葉っぱの絵描いたり、グループで電気回路つくったり、なんていう記憶がぼんやり残っています。

 

科学信仰とも言えるくらい現代では科学があらゆる分野に浸透しているので、その中で生きる我々には科学的思考が求められるのですが、その科学的思考の最初の第一歩は「現象の観察」だそうです。

確かに、ニュートンも木からりんごが落ちたのを見て万有引力を思いついたわけですもんね。

観察があって初めて仮設→仮設の検証と進むわけです。

 

★★★

ところで私はそんな科学的思考の第一歩である観察が、つくづく苦手です。ふと気づくと、頭の中で別のことを考えたり、過去や未来に思いをはせたり、物語を展開させたりと、意識が常に「ここじゃないどこか」に行っていて、周りを見ていないんですよね。

 

この間ぼーっとしていてスマホ盗まれたからか、自分がつくづく周囲を観察していないなあと痛感してしまいました。

 

なのでかどうかはわかりませんが、ふと思い立ってスケッチを初めてみました。

そう、かつての理科のじかんに花や葉っぱを描いたように。

 

無性にスケッチがしたくなったのです。アイフォンを失くして写真が撮れないからかもしれないし、新海誠監督の映画を見たからかもしれません。

 

★★★

さて、いざやってみるとスケッチ、全然上手くいきません。椅子すら上手く描けない。毎日尻に敷いてるのに。

どんな形をしているか、意識しないと中々思い出せない。そんなものが身の回りに溢れている。毎日見ているから、知ったつもりになっている。

 

ドイツに住んで半年以上経つからこそ、今スケッチすることで、もう一度周りのものや景色をよく見たいなあと思うようになりました。

描くと手元に残るし、記憶にも残りやすいです。

 

★★★

絵を描くのってやってないと難しく感じますが、その分描けたとき、その絵に対しても、対象とした景色やものに対しても愛着がわきます。

写真がいつでもどこでも撮れるようになった今だからこそ、敢えて手で描いてみる。

 

今日買ったスケッチワークブックの本には、スケッチでは目の前に見えるものの80%は描かなくていい、と書いてありました。全部描こう、詳細に描こうとするから難しいのであって、ラフに描きとめて置く分には、残り20%に集中すればいいのだそう。

これだとなんだかできそうな気がしません?

 

周りの環境に慣れたり飽きたりうんざりしてきたときこそ、スケッチ片手に出かけると、いろいろなものが新鮮に見えてきていいかもしれません。

 

***

どっかに旅行に行ったときだけじゃなくて、写真撮るだけじゃなくて、スケッチいいよーと言いたかったと思うのですが、読み返してみると「スマホ失くした人への慰めの言葉」みたいになってますね。

まあスマホを失って、得られる新しい時間と視点と楽しみはあるってことなので、海外でスマホを失くしたときにでも、思い出してみてください。

 

***

 

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 そんな私はカタチから入って気分を上げたい派。

【Webエッセイ】 言葉の檻に、閉じ込められて

何気ない日常に、ふとぬるりと入り込んでくるもの。

私はそういう話が好きです。ホラーは苦手なのでホラー的な意味合いはありませんが。

 

chikichiki303.hatenablog.com

 

この間トラムをぼーっと待っていたのですが、ふと隣の小さな男の子がお母さんに話しかけてる声が。

しゃべってる内容は「あと何分で来るの?」という至極たわいのないものだったのですが、どういうわけか私にはその男の子がふいに、すごく遠くに感じられた。

 

ドイツ語は私にとって外国語しかも第二外国語なので、しゃべるときは意識しないと出てこない。何話すか大体決めて、単語を思い出して、その単語の順序を確認して(ドイツ語はすごく語順がややこしい)、やっと一文しゃべってるんですよね。ああ面倒くさい・・・。

 

でもその男の子はドイツ語が母語なので、当たり前なんだけれど彼には「ドイツ語をしゃべっている」という意識がない。私が意識して日本語で書いたりしゃべったりしないように。

たとえどれだけ私のドイツ語が上達しようと、こんなに意識しないでしゃべることはないんだろうなあと思って、急にその男の子を遠くに感じたものです。ある種の畏敬の念を抱いてしまったくらい。彼は私にとって、絶対的な他者なんですね。

 

私は良くも悪くも人との違いよりも共通点に着目しがちで、片言でも意思疎通はできるし、母語が違えど悩んでることや喜んでいることにも共感できるなあと思うことが多いのですが、上記の男の子をきっかけにふと、どれだけ自分が(同時にその子が)言葉の檻に閉じ込められているかを思い知らされました。

 

勿論同じ言葉をしゃべっていてもその人を完全に理解できることなんてないんだけれど、でも絶対的な他者だなんて中々思いませんよね。やっぱりどこかで同胞だという意識があって、特に日本人が少ない海外の土地で日本語しゃべってる人に出会うと、それだけですごく親近感がわくものです。

 

言葉違えどみな人類、というのも真ですが、言葉が違うと世界を違う認識の体系で見ているわけで。

 

言葉があって初めて、その言葉が示す対象を他のものから分けて見れる。

例えば日本語だと気が合う、気を遣う、気になる、の「気」を他の言語の対応する一語に訳すのって難しかったり、不可能だったりする。

ドイツ語だとFernwehという言葉があるのですが、これに相当する日本語一語はないですね。(この言葉については以前こちらで触れています。)

 

きっと、あのドイツ語をしゃべっていた男の子は日本語をしゃべる私とは違う世界観の中で生きている。違うように世界を見て、理解している。

その近寄れない距離に、絶対的な距離に、ある種の畏敬の念を抱いたんだと思います。

 

でも絶対そこにたどり着けないからこそ、絶対手を触れられないからこそ、近づきたい、手を伸ばしたいとも思うもの。

 

4週間でマスターする英語、じゃないけれど、言語を学ぶときっていかに簡単に学べるかをついつい重視してしまいますよね。

私も勿論そうなんですが、でもこの男の子に出会ってふと、絶対手が届かないからこそ、ドイツ語を学んだら少しは近づけるかもしれない、という欲望がわいたのも事実。

恋愛じゃないけれど、距離は欲望を駆動するんですね。

 

次はドイツ語よりもっと遠くに感じられる、チェコ語とかアラビア語とかヘブライ語とかやってみたいものです。

 

 

 

 

電線すら愛おしい / 新海誠「言の葉の庭」

ヨーロッパと言えば、の後に続くのは数あれど、そのうち早めに出てくるのが「綺麗な街並み」じゃないでしょうか。

 

ドイツも都市によりますが、古い町並みを残しているところはこっちが飽きるくらい建物の外観が統一されています。

翻って日本。特に東京をはじめとする都会は大変ごちゃごちゃしています。私はそのごちゃごちゃに慣れていたのでそれが嫌ってほどではなかったんですが、ドイツの街に慣れると、東京ももうちょっとすっきりというか綺麗というか疲れない街並みにならないかなと思うものです。

 

そんな私ですが、これを見ると無性に東京に帰りたくなります。

 


映画『言の葉の庭』予告編映像

 

新海誠監督による映画。現代の東京の街並みが描かれているのですが、ただ綺麗なんじゃなくてすごく現実的に細部まで描かれてます。綺麗な空や葉っぱや水たまりだけじゃなくて、電線やエレベーター、ごったがえしたホーム。身の回りに溢れている、綺麗じゃないもの。

でもそれすら美しいと、愛おしいとこれを見ると思ってしまいます。灰色のエレベーターに落ちた鈍い鍵、雨に濡れた信号のライト、汗をかいたグラス。

美しいものはいくらでも身の回りに転がっていて、それを美しいと思えるのかは自分次第。

美しいものに出会うと、生きててよかったな、と世界を肯定して見れるんですよね、きっと。

 

合唱に「信じる」という曲(谷川俊太郎作詞)があって、その中に「葉末の露がきらめく朝に 何をみつめる小鹿のひとみ すべてのものが日々新しい そんな世界を私は信じる」という歌詞が出てきます。日々何かが生まれ変わっていくこの世界を、信じるという肯定で捉える背景には、世界を美しいと思えるかが肝となっています。

 

そしてそんな風に世界を肯定できたら、信じられたら、きっと自分の手で表現したいなと人は思うんじゃないでしょうか。絵であれ、写真であれ、言葉であれ、音楽であれ。

 

新海監督も、思春期の不安定な時期に綺麗な風景に救われていたそう。

 

ちなみに「言の葉の庭」では風景だけじゃなくて、人物描写も抑制が効いていて、その分仕草や態度が詳細に描かれています。

靴職人を目指す主人公の少年(高校生)が、雨の日に出会った女性の靴を作るために彼女の素足を手に取るシーンがあるのですが、アニメーションでこんなにどきどきしたのは初めてです。

よく考えると素足をさらけ出す・その素足に触れるって、そもそも素足でいることが少ないのであまりないですよね。素足でいる場所って言ったら専ら靴下やストッキングを脱ぎ捨てた家の中が多いので、親しい間柄じゃないと目にすることないし、ましてや目の前にさらけ出すなんて。(え、だって匂いとか気になりますよね...?)

でも映画のこのシーンは雨の中の新宿御苑で、それが尚更非日常を作り出し、そして互いが知らず知らず心を許し合っているのを見せられて、雨の中に晒された無防備な素足が妙に色っぽくみえます。

 

リアルな描写・実写的な演出なので、普段アニメを見ない人、アニメ・マンガ的な表現が苦手な人にもおすすめです。(目とか不必要に大きくないです)

 

★★★

上記では「言の葉の庭」を挙げましたが、この監督で有名なのは「秒速5センチメートル」でしょうか。

今夏には最新作が発表されるそうです。わくわく。ポスト宮崎駿か、とも言われてるみたいですね。

www.kiminona.com

 

【Webエッセイ】 バッグにタグつけて。ブログに宛名つけて。

呪われたスーツケースって知ってます?

 

何度もなくなってしまうスーツケースのことです。

直行便にも関わらず、失くさないでねって念を押したのにもかかわらず、あの空港バゲージクレームの口から一向に出てこないスーツケース。

 

というのは飛行機に乗って、3回連続してロストバゲージになった知人の話で。

目立たないダークブルーで、名前も印もないスーツケースだからでしょうか、よく迷子になってしまうみたいです。空に浮かぶ無数のかばんに紛れて。

 

★★★

空ではないですが、インターネット上のコンテンツも、海に浮かぶ無数の泡に例えられてるのを見たことがあります。

日々毎時間、いや毎秒ごとに無数のコンテンツが発信され、そして消えていく。その様が生まれては消えていく泡と脳裏で重なる。

 

自分がインターネットで発信したものが泡となって消えていく…のはだから宿命かもしれませんが、願わくば消えるまでに誰かに届いていてほしい、と発信したことがある方は一度は思うのではないでしょうか。

 

小さい頃、海に投げられたメッセージ入りの小瓶に憧れたことがあります。誰に届くか、そもそも拾いあげてもらえるかわからないけれどまだ見ぬあなたに向けて投げられた、その小瓶。

ブログでの発信って、なんとなくこのメッセージボトルと重なりません?少なくとも泡よりはメッセージボトルでありたいものです。

 

私もこのブログやりながらこれを見てくれてる誰かに届け~と思ってるのですが、でもある程度書くようになって、漠然とした「誰か」よりも、特定の誰かを対象にした方が書きやすいしぶれないなあと思うようになりました。

 

そう思うようになったのも、以下のブログを読んだからでもあるのですが。

 

ブログは“あなた”に向けて。 | 隠居系男子

12歳の時の私のために - Chikirinの日記

 

たぶん書きながらぼやぼや~と浮かんでくる気はするのですが、まだその特定の顔はベールの向こう側にあります。過去の私かもしれないし、10年後の私、私が生まれる前にいなくなったあの人、大学時代の友人、一番身近にいる人、かもしれません。これから具体的な人が現れるかもしれません。

 

上記の隠居系男子のブログで書かれてるように、「一人へ向けて書いたものを公開することで、より多くの人へ伝わる」ならば、それが私にとってはベストだなあと思うようになりました。誰にでも伝わる言葉って、実は誰にも届かない可能性も高いんですよね。

私たちが物語を読んで主人公の言葉にうたれるのも、それが特定の誰かに向けて発せられた言葉であるように。特定の誰かに発せられているからこそ、その分メッセージに込められたものは伝わるし、普遍性を帯びるのかもしれません。

 

ブログやってる方は、誰に向けて発信していますか?

 

★★★

ちなみに話は冒頭に戻るのですが、私は空港で荷物を預けるときは必ずスカーフを取っ手部分に結んでます。

そのおかげか、結構飛行機には乗ったけれど今まで一度もロストバゲージになったことはありません。少なくとも誰かに間違えて持っていかれることはないので、飛行機に乗る際はおすすめです。

 

 

【Webエッセイ】 あなたに笑いが訪れますように

日々の他愛無いはなしの中で、誰しも苦手なネタに遭遇することがあると思うのですが、私にとってその最たるものはお笑いとかバラエティです。

 

テレビがないということがまあ最たる外的要因ではあるのですが、かと言ってyoutubeとかでも見ることはありません。要は苦手なんですね。

 

なんでかっていうと、まあ笑えないからなんですが。面白がって笑うために見るのに、笑えないなんて辛いじゃないですか。

なんで自分は笑えないのか、なんで今この芸人が流行ってるのか考察したい気もしますが、あの笑え~笑え~というオーラに気圧されて、そして笑わなきゃ笑わなきゃと思ってしまって余計に笑えなくなるという悪循環に陥るので、私にとってはちょっとハードルが高いみたいです。

 

★★★

笑うってすごく日常的なことなのに、自分がいつどういうときに笑ってるか、改めて考えることってないものですね。

 

いつ笑ってるんだろうと改めて考えてみたのですが、やっぱり身近な人との内輪ネタで一番笑っている気がします。特定の間柄、家族とかこの友人グループとか、恋人の間柄でしか通じない話。

 

他の人が聞いたら全く面白くないものの方が、余計におもしろく感じられる。

 

外国語を一番習得できたなあと思うときは、上手くプレゼンができたときでも、試験に合格したときでも、交渉が上手く行ったときでもなくて、「笑うべきタイミング」で笑えたときです。

だから講演とか授業中に話を聞くとき、あ、これから笑わせようとしているなという雰囲気に気が付いたら注意して耳を傾けます。まだかまだかと待ち構えて、笑うタイミングか来るのを待ちます。笑うタイミングがぴったりだったときは妙な達成感を得るものです・・・というのは少し大げさですが。

 

逆に周りの人はみんな笑っているのに、自分だけ笑えてないときってとっても居心地悪くなりません?

昔アメリカの地元の映画館で映画を見たのですが、人が負傷しているよういないわゆる私から見たらシリアスなシーンで笑いが起こって、なんでみんなここで笑ってるんだろうと不思議に思ったことがあります。

私がその映画をよく理解していなかったからかもしれないし、あまりに笑いのツボがかけ離れていたからかもしれません。

でも色々な意味でショックだったのか今でもよく覚えています。

 

★★★

そういえば男女が仲良くなるポイントとして、笑いのツボが同じというのがありますね。

それだけ何に対して笑うのか、は人それぞれだということでしょう。

 

何を悲しいと思うのかにはそんなに人や文化によって違いはないような気がするのですが(失恋や失敗、裏切や暴力、病気や死別など)、何を面白いと思うか、何に対して笑うのかは、もっとバラエティに富んでる気がします。

 

外国の感動映画より、外国のバラエティの方が理解するのは難しそうだし、日本のアニメやドラマは国外に輸出されても、ドメスティックなバラエティ番組や落語が輸出されるのはハードルが高そうです。

 

それだけ前提とする文化や言葉の知識、コンテクストが必要とされるのが「笑い」であって、だからこそ前提とする知識が多く共有されている「内輪ネタ」は、その内部の人にはうけるのでしょう。

「悲しみ」よりも、ある意味では閉じたサークルを作りだしてしまうのが「笑い」なんですね。

自分たちには通じる、という仲間意識みたいなもの、「自分たち」と「それ以外」を分けるものとして「笑い」が働くからこそ、尚更「笑い」が共有されたときはおもしろくうれしく感じるものです。良くも悪くも。

 

★★★

この間ドイツの本屋さんで「旧東時代のジョーク集」っていう本があったのでぱらぱらっとめくってみたのですが、さっぱりわかりませんでした。一つ一つの単語はわかっても、なぜこれがジョークなのかわからない。

壁崩壊前のドイツを知りたいなと思ってはいるのですが、「旧東ドイツの笑いの文化」を理解するのが一番難しいかもしれません・・・。

イギリスには住んだことないのですが、ブリティッシュジョークは真顔で発せられるそうで。みなさんイギリスに行ったときはご注意ください。

 

 

自分をなくす 再考

自分をなくす、って聞くと、どんなイメージが浮かびますか。

ポジティブ、ネガティブ?いいこと、あんまり起こってほしくこと?

 

私はというと、ネガティブなイメージをもってしまいます。何だろう、本来の自分らしさを失ってしまう、みたいなイメージ。周りに流されて、自分を忘れてしまうような・・。

 

以前、1年前くらいに自分をなくすという記事を書きました。

この記事はちょうど内田樹氏の何かの書籍を読んでいたときのメモ。

 

マズローの5段階欲求って聞いたことあるでしょうか。人間のもつ欲求は5段階のピラミッドになっていて、低次元の欲求(食欲とか性欲とか安心感とか)が満たされるごとに、より高次元の欲求へと向かう・・・というやつです。

 

承認欲求というものがよく話題にのぼりますが、それは下から4番目、上から2つ目の欲求となっています。現代の日本だと衣食住にはとりあえず困らない人が多いので、この承認欲求というものにスポットライトが当たるのでしょう。

 

私はよく、ああまた他人から認められたいって思ってる・・・と気付いてがっくりくることがあるのですが、なんでかっていうと、自分に意識が向いちゃってるからなんですね。自分に意識が向いていると、必要以上によく見せようとしたり周りの評価が気になって、心があまり平穏ではなくなってしまいます。

 

そんな時に内田樹氏の(残念ながらどの書籍か思い出せないのですが)「自分がいなくてもまわっていく関係性をつくる」というのを読んだので、頭をがつんとやられた記憶があります。

ふと浮かんだのが、親について。親が子どもにしてやれることも、自分がいなくても生きていけるように育てることなんじゃないか。

そんなかんじで、私も「あなたが必要だ」って言われるんじゃなくて、私がいなくてもまわっていくようなそんな関係性をつくっていきたいな・・って思ったんですね。

 

しかしそんな一見高尚な思いを抱いたわけですが、中々そう上手くいかないのが現状で。

この「誰かに必要とされたい・認められたい」承認欲求、消えてくれーーと願っても、鬱陶しいなあと思っても、中々追い払うことができません。なんせ人間欲求の5段階の一つに位置付けられているくらいなんですから。それくらい普遍的な欲求なんです。

 

じゃあどうするかと考えたときに、まあこの欲求を満たすために奔走するのも、ひたすら煩悩を消すために瞑想するのも悪くないかなと思うのですが、もう一つあるのが、自分を忘れてしまう、ということですね。いわゆる「我を忘れる」「没我」の経験。

 

我を忘れるくらい目の前のことに集中するときが、頭も体も最もすっきりしているし、精神的にはとってもいいんだと思います。対象に自分が没入して、「私」が曖昧になっていく、ゆるゆるほどけていく、そんな経験。

その目の前のことは、勉強とか仕事とか趣味という大きいことでもいいけれど、日々の身近な料理や掃除なんかでもいいと思います。自分を意識せず、目の前のことに集中してるときが、幸せとまではいいませんが、その瞬間は承認欲求だの過去の恥ずかしかったことだの未来の不安だの、そういうのは考えません。「今を生きる」とはすなわち「我を忘れる」ことであり「自分をなくす」ことなんじゃないかと。

 

自分って何なんだろうとか周りに認められたいのにって悩んじゃうときは誰でもあると思います。

それを思い悩むのもいいかもしれませんが(私はああでもないこうでもないと考えるのが好きなので)、それを一旦棚上げして、とりあえず目の前のことに「自分」という概念を忘れるくらい、つまり対象にどっぷり浸かって、ゆるゆるほどいてなくしてしまえるくらい集中しちゃうのも、一つの手なのではないでしょうか。

 

本当は常にその状態でありたいなあなんて私は思ってるのですが、中々難しいです。なのでひとまずは、淡々とものごとを行うということを心がけています。

その上で、誰かのためにもなっていたらラッキーだなあと思いながら。

もしかしたら「自分がいなくてもまわっていく関係性をつくること」は、その先にあるのかなと、ほんのり期待しながら。

 

★ ★★

余談ですが、自分に意識が向かっているとき、自分という「概念」はがちがちになってるんじゃないでしょうか。

「私とは何か」という問いは、自分という概念ががちがちになっているときにゆるりとその概念をほぐすのにはとってもいいけれど、やりすぎるとドツボにはまっていくタイプの問いだと思っています。「本当の自分」なんてないし、だから「これが自分」というのもありません。

私は、周りの人がいて初めて自分という概念が生まれる、という考え方が好きです。

身近な周りの人が、昨日の自分と今日の自分が同じ自分である、という前提になって私に接してくれる。その記憶の積み重ねが自分という概念なんだと思っています。

 

だから日々の会話のやり取りは、情報を伝えるだけじゃなくて、その会話の相手が身近な人であればあるほど、「昨日のあなたも今日のあなたも同じあなただよ」「あなたがそこにいるの、わかっているよ」というメタ・メッセージのやり取りなのかもしれません。

そう考えると、本当に身近な人とのどうでもいいやり取りって欠かせないなあと思います。今海外で一人でいるからでしょうか、尚更そのことを痛感してしまいます。

 

★ ★★

話がずれてしまいましたが、最後に本の紹介を。

 

1973年のピンボール (講談社文庫)

1973年のピンボール (講談社文庫)

 

 内田樹氏の話の中で取り上げられていた、「配電盤」のエピソード。主人公の僕と双子の女の子は、使い古された配電盤を弔いに出かけます。この配電盤は、「私がいなくてもまわっていく関係性」の象徴なのです。

 

じぶん・この不思議な存在 (講談社現代新書)

じぶん・この不思議な存在 (講談社現代新書)

 

 

「普通がいい」という病~「自分を取りもどす」10講 (講談社現代新書)

「普通がいい」という病~「自分を取りもどす」10講 (講談社現代新書)

 

 上記二冊は、がちがちになった自分という概念をときほぐしていきます。自分って私って・・・とくよくよしたときにいっそ腰を据えて考えるときにはぜひ。

 

下の本のタイトルは「自分を取り戻す」と、このブログの内容と矛盾しそうですが、自分を「解きほぐす」→「取り戻す」→「もう一度(いい意味で)なくす」という順番の問題なのかなあと思いました。

 

 

美術館は楽しい?

私は美術館に行くのが結構好きで、誰かと連れ立って行くことがあるのですが(というか私が引っ張っていくことがあるのですが)、たまに「どう楽しんでいいかわからない」「どう振る舞っていいかわからない」と言われます。

その度に私は軽いショックを受ける(そうか美術館楽しくないか・・・)と同時に、まあそう思われても仕方ないかなあとも思っています。

 

というのも、私自身が高校生くらいまでは別に美術館に行きたいとも思わなかったし、特に面白いとも思っていなかったから。

 

そんな私が美術館を面白いと思うようになったのは、偶然ある絵に出会って衝撃を受けたからで、それがなかったら今も美術館を特に面白いとは思ってなかったかもしれません。

 

ちなみにある絵というのは、アメリングというビーダーマイヤー期の画家の「夢に浸って」という絵です。なぜこの絵にそんなにも衝撃を受けたのかは、今でもよくわかりません。

 

でもこの絵を見たとき、私は「今まで生きててよかった」とすら思ってしまいました。

 

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リヒテンシュタインコレクションより) 

 

それ以来、そのような絵との「出会い」を求めて美術館に行っています。アメリングの「夢に浸って」に出会ったとき程の出会いはまだありませんが、それでも時々ぴんと来る絵に巡り合うことができます。

 

一つの美術館に行って一つあれば十分だと思っていて、どんなに有名な絵であろうと、ぴんと来ない絵があることもざらです。

 

というわけで、「美術館ってどう楽しめばいいの?」と私が聞かれれば「自分にぴんと来る絵(作品)を見つければいいんだよ」と言うのですが、そもそもぴんと来たことがない人はぴんと来るということがぴんと来なくて(ややこしい)、どうやってそんな絵を見つければいいの?となるんじゃないでしょうか。

 

私はというと、まず荷物やコートは全部コインロッカーに預けて、身体を自由にします。そして極力何も考えないようにします。

 

オーディオガイドは持たないし、タイトルや作家名、解説も、絵を見る前には読まないようにします。そのようにして、身体が絵に反応するように、絵に向かいます。

 

ちなみにこのやり方は結構エネルギーを使うので、私は一枚一枚の絵をじっくり見ることはありません(特に海外だと大きい美術館も多くて回るだけで一苦労だし)。

 

ぴんと来る絵の前でだけ立ち止まって、美術館を一通り見てからまたその絵の前に戻ってきてぼおーっとすることが多いです。

そして、帰りにそのぴんと来た絵のポストカードを買って帰ります。

 

ちなみに「ぴんと来る」ですが、それは好きでも嫌いでも、美しいでも醜いでも、面白いでも感動でも、どんな感情でもいいんじゃないかと思っています。

 

ぴんと来た時点で、その作品は自分にとって意味があるものとなっているはずなので。

 

ぴんと来た絵との出会いは、たとえその絵の詳細を忘れたとしても、きっと身体のどこかに眠っているはず。

 

絵が私に向かってきた、絵が私を待っていてくれたという出会いの仕方は、ある意味人との出会いのように、どこかで私たちの支えになるかもしれません。

 

その出会いによって、ゆっくりと私は変わっていっているのかもしれません。少なくとも私は作品との出会い(鑑賞じゃなくて)も、人と出会うことのように捉えています。

 

とここまで「自分にとってぴんとくる絵(作品)との出会い」について書いてきましたが、そもそも美術館は100人いれば100通りの楽しみ方があっていいと思います。

 

公園でサッカーする人だっているし、散歩する人も走る人だっているし、休んでいる人も寝てる人だっている。人それぞれです。

 

美術館もそうじゃないのかなあと思うのですが、「楽しみ方がわからない」「どう振る舞えばいいかわからない」と言われるのは、暗に「美術館ではこうするべきである」「絵はこう見るべきである」という規範ができあがっているということでしょう。

 

確かにどの美術館にも絵にはタイトルと作家名と解説が掲げられてあって、オーディオガイドによる仔細な説明がついていて、時代ごとに区分してあって、絵を見る順番もその通りにしてあります。

 

「こうやって見てね」と提示されていることが多い。

 

もちろん「この絵は誰の何派の作品でこのりんごにはこういう意味があって・・・」と知ることはとても大事ですが、それだけが美術館の、美術品の楽しみ方ではないはず。

 

そもそも現代アートはそれが何を表しているのか、何を示しているのかわからない、あるいは特定の何かを意図しているわけではないので、こういった解説型、提示型の鑑賞の仕方はある意味難しいです。

 

まあ美術館がそういった解説、提示を前提としていると思っているからこそ、「現代アートは難解だ」と言われるのでしょうが。

 

美術館が面白くないのは、「絵はこう見ないといけない、こう解釈しないといけない、美術史を知っていないといけない」と思ってしまうからでしょう。

 

こうがちがちな鑑賞の仕方だと、まず絵そのものに興味を持つ、というところができづらいんじゃないか。

 

絵が何を示してるかわからなくてもいい、全部の絵を見なくてもいい、何となく気に入った絵を見つけるだけでいい、と思うとちょっとは気を楽にして美術館に行けるんじゃないか。

 

もちろん美術史の流れや、作家について知っている方がおもしろいとは思いますが、究極のところそれは+アルファ。

 

なぜなら現代においてアートは、文字の代わりのメディアでも、キリスト教プロパガンダでも、自分の地位を示すためのものでも、現実を写し取って残すものでもなくなってしまったからです。

 

文字や写真やインターネットの画像検索にとって代わられた現在のアートが、私たちに意味するものは何なのだろう、という問いに対する答えめいたものは私もまだぼんやりとしたものしか持っていないのですが、現状数多くの趣味の一つになった美術鑑賞があんまり魅力的でも面白くもないのは悲しいし、趣味という位置づけなら面白くないと、自然と衰退してしまうんじゃないかと。

 

長々と書いてしまったのですが、結局何が言いたかったのだろうと考えてみると、「こう見るべき」という暗黙の規範に縛られて美術鑑賞が楽しくないものになってしまうくらいなら、美術館にはそれぞれが楽しみたいように楽しめばいいと思うし、見たいように見ればいいんじゃないか、ということです。

 

私個人としては、知識を得に行っているというよりはぴんと来る絵を見つけに、出会いに行っています。

 

美術史的な知識はそれからでもいいんじゃないかなあということです。

ごはんを食べながら見る美術館があっても、絵の前で寝れる美術館があっても面白いんじゃないかな(以前ドイツの美術館で、蜘蛛の巣みたいに空中にネットが張ってある作品があって、そこに入って寝れてとっても楽しかった)。

 

最後にこの記事に関するリンクを。

 

常識として知っておきたい「美」の概念60

常識として知っておきたい「美」の概念60

 

ある程度ぴんと来る絵に出会ったら、大体の美術史を頭に入れて置くとそれぞれの絵の繋がりや流れがわかってとっても面白いです。

人によるかもしれませんが、私は全体の大まかな流れを頭に入れてから、詳細に時代ごと、作家ごとに見ていく方が楽しいです。

 

この本では、ギリシャ美術~現代アートまで広く時代ごとのアートの特徴が、カラフルな作品の写真と共に説明されています。

 

美術館に行って、○○派ってどういうのだったっけ?とか、その前後にはどんな作品があったっけ?とざっと振り返るときに楽しい。

 

まず美術史全体の流れを入れるにはとっつきやすい本。ほぼ西洋美術史ですが、日本美術史も少しあります。

 

artscape.jp

アートには専門用語チックなのが結構あるのですが、このサイトではその単語を調べることができます。解説は短いのに、わかりやすい。

 

ここでは私が好きな戦後日本のアートの流れである、もの派を調べてみました。 

ウィキペディアで調べるよりも、用語の意味がささっと頭に入ります。

 

blog.livedoor.jp

近代絵画に関するブログ。主な作家についての解説と、作家の主な作品の画像が集められているので、本を読んだりしたときにこの作家ってどんな作風だろうとか他にどんな作品あるんだろう?と思ったときに結構便利です。

 

ざっと読むだけでも近代絵画のなんとなくの流れがわかります。

 

aniram-czech.hatenablog.com

好き嫌いという感覚の先にある芸術鑑賞について書かれた記事。それとは「作品の、自分だけに届けられるメッセージに気付く」ということ。 

私の美術館の楽しみ方は作品との「出会い」とか「衝撃を受けること」だと述べましたが、この衝撃の中身は、「私だけに届けられたメッセージ」だったからかもしれません。

 

そしてそのメッセージが何だったのか、考えていく中で自分が変化していく・・・そういうことなのかもしれません。

 

 あなたのアートとの出会いに、幸あらんことを。