思考の道場

答えのない、問いのまわりをぐるぐると。

食卓は、家族の象徴で。「Bread&Butter」漫画感想と考察(ネタバレ有)

最近、ごはん漫画?グルメ漫画?って多いですよね。TSUTAYAの漫画にも、グルメ漫画コーナーって言って一角できているし。

 

私は現実世界では全然グルメではないけれど、食に関する文章は好きで、そちらの方が食指が動く。というわけで、グルメ漫画にも手を伸ばしてみた。

 

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手に取ったのは芦原妃名子の「Bread&Butter」。ついこの間5巻が出ました(以下、ネタバレはあらすじに書かれていたり、本筋でないもののみになっています)。

 

Bread&Butter 5 (マーガレットコミックス)

Bread&Butter 5 (マーガレットコミックス)

 

 

かの有名な「砂時計」の作者で、私もかつて「砂時計」が好きだったので彼女の最新作を手に取ってみました。ちなみに「砂時計」については前に触れています。

 

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家族とごはん

「砂時計」や「piece」と大きく変わっている作品。主人公は女子高生じゃなくて30代半ばの女性だし、テーマもだから仕事や結婚が出てくる。かつての作品ほど過去志向で重くはなくて、パンをきっかけに紡がれていく、主人公の周りにいる人の物語。

 

主人公の柚季はひょんなことからパンをつくっている洋一にプロポーズ。パンが人を繋いでいくから、読む方もほんわかした気持ちになります。やっぱりごはん、食べ物って、ささくれだった心の棘を取ってくれる。山型食パン、パン・オ・ショコラ、シュトレン、バゲット...いつの時代も、どんな時も、人と人との間を繋いでくれる。

 

でもほんわかパングルメだけじゃないのが、芦原妃名子。彼女の過去作品がそうだったように、様々な家族がここでも描かれます。ごはんを作ってくれず、その後絶縁状態にあった父と息子、同じくごはんは作らず、家もごちゃごちゃのままな母と娘、三食健康的な食事が出てくるのに、関係は冷え切っている夫婦とその娘、などなど。

生死が関わるほどの問題は出てこない分、どこかそのへんにいそうな夫婦関係、親子関係が出てくるからこそ、どこか背中がぞっとします。

 

人間関係を巧みに表す演出

ただのほんわかグルメ漫画じゃないのは、そういった家族関係の演出?描写?に拠っています。食卓に並べられたごはんを囲む、笑顔のお父さんお母さん子どもというのを、背景を真っ黒、人物を白抜きで描くことで、ああこの家族は演じてるんだな、幻想なんだな、ということが一目でわかります。

「この人と結婚することで、少なくとも周りからは幸せに見えると思った」という台詞は4巻あたりで出てきますが、こういうの、自分だってどっかでしてるんじゃないかなと思ってぞわぞわします。幸せって自分で決めるもんだって頭ではわかっているのに、どっかで「幸せって思われたい」って思ってる、それ、捨てきれないーなんて、登場人物の細かい台詞がいちいち自分に跳ね返ってくる。

 

芦原妃名子は、多くの人が持っている、普段は見ないようにしている些細な感情を掬い上げるのが本当に上手い。そして家族というテーマを扱う作者にとっては、グルメ漫画とは相性がいい。

家族になって、最も一緒にするようになることって、家の食卓を囲むことだと思うんですよね。目玉焼きにはソースをかける、焼きそばは大皿で真ん中にどんと出す、お味噌汁の具はたっぷり、などなど、食卓に一番その家族の個性だって出る。インスタント焼きそばばかり出る食卓も、三食出汁がきちんととってあって塩分控えめな味噌汁が出る食卓も、それぞれ何かしらの問題は抱えているわけで。その問題に向き合って、ほぐしていくのが、柚季たちが焼くパンの役割です。家族を描くときに、その象徴である食卓に焦点を当てるのは、だからなのか...と納得する次第です。

 

というわけで、ほんわかパン漫画だ~と思って手に取ると、思ったより胸が痛む漫画なのでお気を付けください。特に結婚した人とか、結婚する予定の人にとっては。でもオムニバス形式というか、比較的短いスパンで解決というか、希望が見える終わり方になっているので、そういった意味では読みやすいです。かの有名な「タラレバ娘」は怖くて読めない...という方にはおすすめです(かく言う私も怖くて途中で挫折した)。

 

そして私はこの漫画を読んで、今度パンを作りに行くことになりました。本当にごはん活字に弱いようです。パンの発酵を待つ柚季が「待つ」ことについて語っていて、それがよかったんです。

「レッドタートル」映画考察-あなただけのために、存在する映画

 


『レッドタートル ある島の物語』予告

 

レッドタートル、見てきました。一応ジブリ作品なのにびっくりするくらい?話題になっていないみたいで。ヒットしている「君の名は。」とは対照的な、静かで地味な映画だからでしょうか。それもそのはず、何となくは聞いていたけれど、本当に台詞が一つもなかった。見終わった後、どう捉えていいか何とも考えてしまう映画でした。でもあえてこの映画は、他の考察やレビューを全く見ない上で書いていきたいと思います。

(※ネタバレ含みます。が、シンプルなストーリーだし解釈も多様なのでネタバレしても、というか知ってからの方が楽しめる映画かもしれません。)

 

見たままなのか、その奥があるのか

無人島に流れ着いた男(名前すらない)が、その島でレッドタートルと出会い、生きていく物語。映画の前半は、男はいかだを作って何度も島を脱出しようと試みます。でもなぜだか、毎回いかだが壊れる。そんなとき現れた赤い亀、レッドタートル。いかだが壊れたのはレッドタートルの仕業だと思った男は、懲らしめます。死んだかと思いきや、そこには人間の女の姿が。男は島の外に出るのを諦め、島で女と生きていく決心をします。月日は流れ、彼らには一人息子も出き、三人で仲良く暮らします。津波に襲われたり、息子が島から出ていくのを見送ったりしながら、彼はやがてゆっくりと老いていき、人生の幕を閉じる。女は彼を看取ったあと、再び亀の姿で海へと帰ってゆく。

 

台詞がなくても、登場人物は少ないし、場所は同じだし、動きや表情も簡素なので物語についていくことは容易でした。でも容易だからこそ、そのまま物語を受け取ればいいのか、その奥に行けばいいのか、わからない。わからないからこそ、ずっと考えてしまう。そういう意味でとても受け手に委ねられている作品です。

 

物語がシンプルかつ、台詞がないので、解釈は幅広い。私はというと、そのまんまと言えばそのまんまなのですが、人の一生を感じました。主人公?である男は、ある日突然嵐に遭って、無人島にやってきます。そしてそこで死ぬまで過ごします。私たちもこの地球に、ある日突然放り込まれるような形で、やってきます。なぜ生まれてきたのか何のために生きているのかよくわからないまま、それでも毎日あくせく働いたり、誰かを想って泣いたり笑ったりしながら一生を終えます。映画の男がなぜ船に乗っていたのか、どこに向かおうとしていたのか、どうやって無人島にたどり着いたのか、それらは一切語られないし、明かされません。でも彼は生きるために日々、魚を採ったり木の実を集めたり寝床をつくったりします。訳がわからないまま、それでも生きようとし、そして訳がわからないまま死ぬ。一見不条理な、全く訳のわからない人間の生を、この映画はそれでも温かく、丁寧に紡ぎ出していると思いました。

 

ある種の不気味さ

このように「レッドタートル」は島での家族の営みを丁寧に描きだしていますが、私は同時に不気味さを感じました。まず、彼らの顔がすごく簡素なんですよね。文字通りの意味で、目鼻口が黒い点で描かれています。彼らを取り囲む無人島の自然や海、星空は丁寧に描かれているからこそ、その異様に簡素な顔が際立って見えます。

 

簡素な顔では、そこから感情を読み取るのも難しい。普段人間に囲まれて、というか特定の人たちに囲まれている私たちは、街路樹なんかより遥かに多い情報を、誰かの顔から読み取っています。この映画では、それが禁止されている。自然と私たちは、彼らの行動や、彼らにはたらきかける周りの自然に目が行きます。ある程度の都会で人間に囲まれて過ごしていると、まるで人間がこの世のすべてのように感じてしまうけれど(というか意識するのは人のことばっかりになってしまうけれど)、人間も自然の一部でしかない。その当たり前なんだけれど、普段忘れている事実を目の当たりにするからでしょうか、この映画の不気味さというのは。

 

そういえばフロイトの「不気味なもの」という本では、不気味なものは自分が知らない、得たいの知れないものじゃなくて、既に知っているけれど忘れているものが回帰してくるから、不気味なのである、と書いてあった気がする。「人間も自然の一部でしかない」という忘れている事実が回帰してきたから、この映画を「不気味」に思ったのかなと書いてて思います。

 

あと不気味だったのは、色合い。なんとなく月光に照らされた海岸が赤かったり、レッドタートルの赤色が淡い色合いの中で際立ったりして、どことなく不気味でした。赤って血や火を連想させるからか、すごく原始的で、それも普段見なかったり、忘れたりしているからかな。

 

解消されない謎

一見明快なストーリーなんですが、細かく見ていくとけっこう疑問点が残ります。なぜ亀は赤いのか。そもそも人間なのか、亀なのか。男のいかだはなぜ毎回壊れたのか、それはレッドタートルによる仕業だったのか。成長した息子は、なぜ島を出ていったのか。そもそも彼は人間だったのか、彼も亀なのか。女は男を看取った後、なぜ亀になり島を離れたのか。

 

などなど。私はこれらの謎にあまり納得いく答えを見つけられていません。見つけて納得するとすっきりするけれど、解決された謎って、忘れちゃうんですよね。だから解消されない謎がある映画は、その人の中に残る。また見たいと思わせる。そういう意味で、この映画は見た人の心に一石を投げる映画です。

 

台詞とかフクザツな表情とか人間関係とか、そういうのをそぎ落とした映画は、あなたに委ねられているんだと思います。すぐに見返したくはならないけれど、数年後、また見たくなる。あなたが変化した分だけ、この映画の意味も、変化していく。全く万人受けしないけれど、よくわからないけれど、そんな「居心地の悪い」映画もたまには見たく、なるものだから。

【Webエッセイ】料理についての一考察

日々生きていくなかで最も必要なものって睡眠と食事だけれど、さて睡眠は睡魔が襲ってきたときに貪ればいいものの、食事はそうは行かない。買ってくるなり食べに行くなりつくるなり、睡眠に比べるとやや能動的に動く必要がある。

料理は人類が今日食べることに必死になるという生活から解放されて以来、生活と趣味、娯楽の間を行ったりきたりしている。30分でつくれるレシピ、1週間作り置きメニュー、冷凍保存できる料理などの時短料理から、地産地消の野菜でしかつくらないサラダ、8時間コトコト煮込むビーフシチュー、学校から帰ってきたら木のバスケットの中に置かれている手作りシナモンロールまで、化ける、化ける、料理は化ける。

私はグルメではないので、食にお金をかけるくらいだったら他に使いたいなと思っている。かといってマックやはなまるうどんばっかり食べててそれでいいかと言われれば、それは飽きるし健康に悪そうだし後ろめたい。というわけであまりこだわりのない自炊が、毎月の食事の大半を占める。

料理ってめんどうくさい。まずよっこらしょと立ち上がってキッチンに立つまでに時間がかかる。なんで座りながら料理できるキッチンってないんだろうと思う。危ないからかな。たまに座りながら野菜切ってる人がいるけれど、見てはいけないものを見てしまったような、でもどこか羨ましいようなという、カップルのキスシーンを目の前で見たようなどぎまぎした気分になる。

とキッチンに立つまでがめんどうくさいんだけれど、いざ立ち上がるとそのあとは結構気分が乗ってくる。料理は段取りが大事とよく言われるけれど、本当にその通りだ。玉ねぎを水に浸している間にジャガイモを切ってレンジで温めて、その間にお鍋に水入れて火にくべて、とかやっていると、頭も動かすし身体もリズミカル?に動かすからか、なんだかすっきりとした気分になっている。料理をつくったという達成感もあるし、家族の分もつくったら役にもたつし、何より目に見えて、自分が一から作り上げたものが現れるというのが嬉しい。

卵エッセイの中で松浦弥太郎さんが、落ち込んだときはふわふわの卵焼きをつくって食べて、自分もやればできるじゃないかという達成感を取り戻すって書いていた。そうだ、落ち込んだとき、散歩に行くのもひたすら泣くのもカラオケ行くのも寝るのもいいけれど、料理もいい。

料理していると味見したり匂いかいだりしているうちにお腹が膨れてくるから、実はダイエットにもいいんじゃないかと私はひそかに思っている。

いつか、文字通りほっぺたが落ちそうな牛歩ほほ肉の赤ワイン煮込みを一日かけてつくってみたい。昔、好きだった人が知人の家の調理棚を見て、こうやって調味料が揃って並べられているのいいよねと言った。何に使うのかさっぱりわからない調味料や香辛料を私は揃えることができないし、本屋さんに平積みされているような丁寧な料理には程遠いけれど、それでも料理は自分を目の前に引き戻してくれる。料理好きなんて絶対言えないけれど、自分のペースで試行錯誤するのは楽しい。

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後片付けは、やっぱり面倒くさいんだけどね。




周りの目が気になるときは、自分に目が向きすぎているとき

あ、今気が利かないって思われたかな。

ばかだなって思われたかな。

失礼って思われたかな。

 

.......などなど。人に囲まれて、というか学校や職場という人間関係に囲まれていると、まあ一度くらいは考えてしまう、この問い。

 

周りが気になって仕方ないときって、ありますよね。自分にばかりベクトルが向いてしまう、そんなとき。

 

どうして自信が持てないのだろう、人から認めてもらいたい、自分自身を認めれるようになりたい、嫌われたらどうしよう、などなど。そして負のスパイラルにはまっていきます。

 

そういうとき、周りの人からどう思われているかが気になっているので、外に関心が向いていると思いがちです。だから「周りは気にするな」というアドバイスが多い。

 

でも実は、周りが気になるときって逆に、ベクトルがとことん自分に向かっているときなんですよね。要は関心が自分に向きすぎている。「私は周りからどう見られているんだろう」と、主語は「私」なんです。

 

そういうとき、「周りを気にするな」と思うのも間違ってはないけれど、私は意識して他の人に関心を向けてみるようにしています。あの人、元気かな?とか、あの人のこういうところ、好きだな、とか、そういう些細なところから。人は誰だって、多かれ少なかれ承認欲求を持っている。自分が人に認めてもらいたいように、他の人も認めてもらいたいんだな、と思えると、ふっと気が楽になるし、自分ができることに関心が移っていくはず。

 

あとは、 やっていることの先にいる人。仕事って、職場の人のためにしているわけではありませんよね。必ず、自分が携わっているサービスを使っている人は外にいる。そのやっていることの先にいる人を見る。勉強だと自分のためにやるって意識が強いですが、その先にあるのは、誰かのために知識を役立てることだと思います。

 

外へのベクトルは、何も他の人だけに向けるものではありません。周りの景色や風景を落ち込んだ時なんかは、見てるようで全然見ていないものです。意識して周りに目を向けて、「何かを見る」だけで、心が落ち着くことがある。刻一刻と変わる夕空とか、鈍く光る欠けた月とか、アスファルトの隙間からひっそりと顔を覗かせる、野花とか。

 

そう、外に目を向けると、自分の存在を忘れられるから。

「我を忘れる」ほど 、何かに没頭して自分という意識が消えているときほど、楽しく生きられるというのは、どうやら真実で。それは「私」を生きているんじゃなくて、「今」を生きているからでしょう。

 

どうも人は、自分の存在を忘れているときが、一番調子がいいみたいです。

 

★★★

我を忘れるっていうことについては、この記事でもふれています。

 

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「聲の形」映画感想/考察と、監督インタビュー集-「顔を上げる」ということ

 

少し前になっちゃうのですが、映画「聲の形」を鑑賞してきました。前回までの山田監督映画「けいおん!」や「たまこラブストーリー」とはうって変わって、ずっしりとのしかかる映画に仕上がっていました。勿論それは悪いことではなくて、よりリアルに感じられるということでもある。映画を見て感じたこと、思ったことをつらつら書いていきます。※ネタバレありです。

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賛否両論の映画

公開日に見に行って思ったのが、きっと賛否両論の映画になるだろうということ。というのも焦点があたっているのが、耳の不自由な硝子をいじめていた将也なんですね。将也を中心に話は進んでいくので、見ようによっては硝子が都合よく描かれているように感じる。将也と友達になりたがったり、再会して許したり、好きになったり。

硝子の内面の葛藤も描かれていなくはないですが、映画がそこにフォーカスしていくわけでもないし、いじめていた人たちが反省する映画でもない。道徳的教育的見地から見ると、批判もあると思います。

 

でも監督がインタビューで言っているように*1、この映画は将也の物語。将也がどうやって最終的に「顔を上げるか」という話で、そこにフォーカスすると、とても丁寧に描かれた映画のように感じました。元々原作がある映画なので省略された部分はたくさんあると思います。その中で主人公の将也に焦点を当てたということに注目した上で、この映画を評価しています。

 

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「顔を上げる」ということ

この映画は文字通り、というか画面通り、将也に始まり将也で終わります。将也が橋から飛び降りようとしているシーンに始まり、彼が顔を上げて、周りの世界の美しさに気付くシーンで締めくくられます。将也に絞るとこの映画は、前回の「たまこラブストーリー」と同じく、シンプルなストーリーを基に進みます。「自分を許し、受け入れ、そして他者や世界を受け入れる」という話。とまとめちゃうととてもシンプルですが、シンプルなものほど実際に行うのはとても難しい。

 

将也は小学生のときに硝子をいじめたことがきっかけで、今度は自分がいじめられるようになります。その経験を経て、「自分は生きているに値しない」と思うように。その後高校生になって、硝子に再会しにいくところから、話は始まります。

将也の周りの人たちの顔には、大きくバッテン印がついています。そして学校の廊下を歩くとき、耳を塞いだり、顔を下に向けたりしている。他者が怖く、向き合えていないということを視覚的に表しています。そんな彼は硝子に再会しにいったことをきっかけに、小学校の頃の同級生と会い、今の自分がこうなった原因である過去に向き合うようになります。

 

将也は硝子にたいして罪悪感を持っているのですが、硝子だって彼に罪悪感を抱いているんですよね。そもそも硝子は小学生のころの将也にも、「友だちになりたい」と伝えています。将也はそもそもどういう子だったかというと、退屈しやすい子だったんですね。クラスのリーダー格だったから、ある意味自分の世界では、いろいろと思い通りに進む。ゲームが簡単だとつまらないように、思い通りになる環境は退屈しやすい。 

だからこそ硝子が転校してしたとき、ラスボス!というゲームのシーンがありますが、あれには将也が彼女に興味を持ったきっかけが端的に表されている。単純な興味と好奇心だったはずなのに、彼はそれを上手く硝子に伝えることができずに、いじわるする形になってしまう。小学生の男の子が好きな女の子をからかうとはよく言いますが、将也の硝子に対する接し方も、それに近かったのではないでしょうか。

 

「あなたのこともっと知りたい」と将也は思っていますが、硝子もいやがらせに対して怒るわけでも、立ち向かっていくわけでもありません。将也にしては「のれんに腕押し」状態だったかもしれない。

そんな硝子に対してだんだんといらだっている描写もあり、遂に放課後の教室で取っ組み合いにもなります。この取っ組み合いが、将也と硝子が初めてぶつかったシーンだと思います。そして硝子にとっては、初めて自分の気持ちをぶつけられた他者なんじゃないでしょうか。だからこそ硝子は、将也のことを忘れてはいませんでした。硝子にとっては、将也は不器用でネガティブな形であれ、自分に対して向かってきた相手だったんだと思います。

 

将也が自分を許し受け入れていく大きな契機って何だったのかなと思っていたのですが、私は飛び降りようとした硝子を助けたときなんじゃないかと考えています。あの時の将也は無我夢中で硝子に駆け寄り、初めて下の名前で「しょうこ」と呼ぶ。

二人とも助かったあと、将也は硝子に「君に生きるのを手伝ってほしい」と伝えます。将也はこのことをきっかけにして、初めて自分から能動的に他者を求めた(求めていると気づいた)のではないでしょうか。「あなたが必要です」と伝えることは、その相手にとっても希望になりえます。

 

自分を許したり、受け入れるのって、他者が必要なんじゃないか。そんなのどうでもよくなるくらい、「あなたに生きていてほしい」と思えるということは、それくらい他者を受け入れているということです。「自分を許す→受け入れる→他者を受け入れる」という順番かと思っていたけれど、「他者を受け入れる→他者を受け入れた自分を受け入れる」ということもあり得るんじゃないか。

自分を受け入れられないと他者も受け入れられないように感じますが、そんなの飛び越えるくらい、誰かを大切に思う、必要とするということがある。将也にとって硝子はもう、罪悪感を抱く相手でも、謝らなければいけない相手でもなく、生きていくのに必要な相手なんだと。

 

でも将也が自分自身を受け入れられたと実感できたシーンは、ラスト学校の文化祭で顔を上げるところだと思います。このシーン、将也の周りの世界はとても美しく描かれている。みんなの雑多な笑い声、色とりどりの飾りつけ、笑顔。将也は初めて、世界がこんなに美しかったということに気付いたのではないでしょうか。

でも思えば、この映画では終始風景や背景はとても美しく描かれているんですよね。そう、世界はすでに将也を受け入れている。美しく包んでいる。でも自分が顔を上げないと、そのことに気付けない。どんな人にだって、「世界は既に美しく存在している」という事実は、私たちを支えてくれます。たぶん自分を受け入れるということは、世界に支えられていることに気付く、ということでもある気がします。

 

顔を上げるのも自分を受け入れるのも許すのも難しいけれど、世界はそこに存在している。将也がこのことに気付くラストシーンは、一番の見どころ、というか、今までのシーンが全てここに向かっていったように感じました。

 

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耳が不自由という「個性」

この映画では硝子の聴覚障害を「個性」として描こうと試みているのではないでしょうか。だからこそ、この話は障害やいじめといったテーマに終始しているわけではない。

それを一番描いているのは、同じく小学校のときの同級生、植野のシーンです。彼女は硝子の障害のために、硝子を慮ったり、優しくしたり、彼女に配慮するということがありません。それは傍から見ていると「やなやつ」なんですが、その分真っすぐ硝子にぶつかっていきます。「あなたが大嫌い」と真正面から言える人なんて、この世界でどれほどいるでしょう。そんなにいないんじゃないんでしょうか。

 

植野は硝子を、自分と同じ土俵にいる一人の女の子として見て、言わば将也を挟んでライバルになり得る相手として、対等に接します。だからこそ、転校生で耳が不自由という、将也の興味を惹く硝子がうとましいし、妬ましく感じます。また、将也と植野がぎくしゃくし出した原因として硝子を見て、嫌いになります。

でも硝子はそう言われても、冷たくされても、植野にぶつかっていくことができません。「私が悪いから」「私は私が嫌い」と自分を責めます。自分を責めるというのは一見反省していてよいことに見えつつも、目線が自分に向かっていて、相手に向いていないんですよね。そのことを嫌い、「私に向かってきて」と伝えられたのが、植野なんだと思います。硝子と将也が「好き」という感情でぶつかっていくように、硝子と植野は「嫌い」という感情でぶつかっていく素地があるのです。

 

よく好きの反対は嫌いじゃなくて無関心と言いますが、「嫌い」という感情は「好き」と同じくらい、場合によってはそれ以上のエネルギーを使います。「嫌い」と伝えることは同時に、「あなたのことそれだけ関心を持っている」と伝えることでもあります。

 

ラストの方で植野が硝子に手話で「ばか」と伝え、それに対して硝子が「ばか」と返すシーンがあります。植野は手話で伝えることで「あなたともっと話したい」というメタ・メッセージを送り、硝子はばかと言われて落ち込んだり、自分を責めたりすんではなくて、「ばか」と返します。同じ言葉を返すということは、「あなたの言葉を受けとった」というメッセージであり、同等の言葉を言うことで初めて植野に向かいにいったということではないでしょうか。

 

コミュニケーションの基本はキャッチボールであり、同じ言葉をおうむ返しにして、「私はあなたの言葉を受け取った」と伝えることだとも言います。だからこそ、この「ばか」とお互いに言うシーンは、この映画において最もその後の可能性を秘めていたシーンだと感じました。硝子は引け目を感じることなく、植野と対等に接していくことができるようになるんじゃないでしょうか。

 

普通は個性とみなされないものを個性として描いたものとして、「魔女の宅急便」が挙げられます。キキは空を飛べるけれど、スランプだってある。その個性を活かしてどう他者と、自分と向き合っていくか、というのは魔女ではない私たちの普遍的なテーマでもあります。

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耳が不自由ということを理由に引け目を感じたり、他の人が慮って距離を置くのではなく、それを踏まえた上で「だから何なのよ」とぶつかっていく植野みたいに、個性として捉えていくことは、新たなコミュニケーションの可能性を示唆しているのではないかと思います。

 

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橋と水

映画で頻出するのが橋、そして川などの水です。将也と硝子が待ち合わせするのは橋の上が多い。橋は離れている二つの場所を架けるので、歩み寄りたい二人の心情を表していると思います。

水はどうでしょうか。川に飛び込んだり、水の中に入るシーンが多いのですが、私は何だろう、いろんなものを取っ払って原点に帰る、というようなイメージを抱きました。お母さんのお腹の中にいるときに、戻るみたいに。

水の中では目も耳も呼吸も不自由になるので、水は障害になりえます。でも逆に、水に包み込まれている。人と人との間の空気や距離も、水みたいなもので、コミュニケーションを阻害するけれど、でもそれがないと伝わらないし(音は空気を伝わるし)、私たちを包み込んでいる世界も空気や何かとの距離なんですよね...うーん水については色んな解釈ができそう。まだ釈然としないので、考える余地ありな部分です。

 

後味の悪さ

 この映画を見終わったあと結構ぐったりしてしまったんですが、それはカタルシス的描写が少なくて、後味の悪さが残ったからだと思います。悪い意味ではなくて、「考えさせられる」という意味でです。将也も硝子も植野も、誰一人としていい人が出てきません。自分もいじめてしまう、自分を嫌いになってしまう、自分可愛さゆえ傍観者になってしまう可能性があると思ったからこそ、誰もが映画の中の誰かであり得ると思いました。それだけ普遍的な人物の描き方をしているところが、この映画の、この監督の強味だと思います。

 

映画の尺のわりに登場人物が多くて一人ひとりの描写が深くできなかったり、途中中だるみしたり、もう一度見るのにエネルギーが要ったりともったいないかなあと思った部分もありますが、これまでのシンプルなストーリーの骨子の上に、コミュニケーションの難しさ、障害の捉え方、いじめの問題、家族のあり方といった複雑な要素を重ねて、より複層から成る映画になっていたのは、今後山田監督がつくる作品への更なる拡がりと可能性に思えます。

 

まだまだ演出面など考察できていない部分がたくさんあったり、見逃して勘違いしている部分もあるかと思うので、気付いたら随時更新していきます。

 

最後に、監督のインタビューがけっこうウェブでも見れるので、リンクを。

 

映画「聲の形」監督に聞く「開けたくない扉を開けてしまった感じでした」 - エキレビ!(1/4)

 
 

【Webエッセイ】淡々と、その言葉を。

言葉、ことば、コトバ。

人が人へ、紡ぐもの。

ひっそりと咲く花のごとく、そこにそっと佇むもの。

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言葉は人を傷つける。自分を縛るし、相手だって縛ることがある。一生あの人の一言が忘れられないこともある。
言ったことの根拠や具体例を示せと言われて、ぐっと黙ってしまうこともある。
言葉にした瞬間に、ぽろぽろ落ちていく感情が大海原を漂っている。

だから言葉は嫌い。

なんて言えたらきっと、楽だろう。

言葉じゃ伝わらないことがある。言葉じゃなきゃ伝わらないことがある。とかそういうことを言いたいわけじゃない。

言葉が好きだ、文字が好きだ。でも言ってはいけないかなとか、誰かを傷つけるかな、とか気にしてしまうことがある。

言葉が怖くなることがある。

でもそれじゃきっと、届けたい人への言葉だって、届かなくなっちゃう。だれかを傷つけることがあっても批判されることがあっても、淡々と綴っていけば、いつか届けたい人に届くことはあるんだろうか。

一人の人を信じるのと同じくらい、言葉やその力を信じるのは難しい。

淡々と綴ること。淡々と信じること。言葉への信頼が揺らぎそうなときは、でもやっぱり、淡々と紡いでいくしかないのかもしれない。


【Webエッセイ】その瞳で食べられたら、いいのに。

秋の夜長には、エッセイが読みたくなる。

のかどうかはわからないけれど、定期的にエッセイが読みたくなる時期があり、だからここ最近は書く方も、めっぽうエッセイめいたものになってしまっている。

エッセイめいたものはなんだろう、パソコンじゃなくて、スマホでぽちぽち書きたくなる。前にも書いたけれど、スマホの方が頭と指先が直に繋がっているかんじがするのだ。

★★★
私が主に読みたくなるエッセイは二つある。一つは旅行エッセイ、もう一つは食エッセイ。

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今読みたくて仕方ないのは食エッセイの方で、食欲の秋だからだろうか、ああなんか美味しいもの食べたいと思うの同じくらい、いや場合によってはそれ以上に、美味しいものについて書かれた文章が読みたいと思う。舌は肥えていないし、薄味が好きだし、美味しいレストランの開拓なんて全然しないのに、「そとがわは、こげ目がつかない程度に焼けていて、中はまだやわらかく湯気のたっているオムレツ」と目にすると無性にそんなオムレツが食べたくて食べたくて、仕方ない。じんわりと潤ってくる口の中を前にして、これを欲望と言わずになんと言おう。

ちなみに私はこの有名な食エッセイ「巴里の空の下オムレツのにおいは流れる」を読んで早速ばたばたとオムレツをつくった。悪くはなかったけれど、読んだときほどオムレツは美味しくなかった。

グルメじゃない私だけれど、食について書かれた文章を読みたいと思うこの欲望は何なのだろう。そう、単純に快感なのだ、オムレツについて書かれた文章を目が味わうのが。

★★★
家にある食エッセイで残っているのは、なぜか全部卵料理をめぐるもの。なんだろう、卵ってオムレツにも卵焼きにも卵かけごはんにもすき焼きのたれにもケーキにもなって、その妖美な形や変形ぶりに、そそられるんだろうか。

ちなみに書かれた食べ物で一番食べたくなるのは、ドーナツである。ドーナツとコーヒーを買って車の中でかじったとか小説に出てきただけで、今すぐドーナツを買いに走り出したくなる(最近はコンビニに売ってるので可能になりましたね)。

そういえば阪大から出ている「ドーナツの穴だけ残して食べる方法」みたいなタイトルの本もあったし、ドーナツも卵と同様、人に省察を迫るというか、きっと語りたくなる何かがあるのだ。

と書いているだけで、ドーナツが食べたくなってきた。真夜中のドーナツは数ある夜の営みの中でも、最も罪悪感にまみれた快感。でも今日は既に一個食べたから、諦めないと。

ドーナツの夢、見られますように。