思考の道場

答えのない、問いのまわりをぐるぐると。

ananの話。不安は具体的に行動するか、次元をずらすかどちらかで解消しよう

 

anan (アンアン) 2017/02/08[あなたの不安解消BOOK]

anan (アンアン) 2017/02/08[あなたの不安解消BOOK]

 

こんばんは、沙妃です。この間ふらっとセブンイレブンに入ったら、ananを発見。ananは数えるくらい…いや一回しか買ったことなかったんだけれど、「あなたの不安解消BOOK」というど直球なタイトルで、へ〜女性誌こんなドストライクに不安に向き合うタイトルって珍しいな…と思い(私が知らないだけかもしれないが)購入しました。

 

私は不安を感じやすいので、ついついこういうタイトルに釣られちゃう、というのもあるんですが。投資とか保険のことも載っていたので、手っ取り早くそのへんの知識得られるかなとも思い、レジの方へ。

 

さて帰宅してごはんを食べながら、ページをぱらぱらめくる。まず目に飛び込んできたのが「仕事のこと、将来のこと、社会のこと…。あなたは漠然とした『不安』を感じることはありますか?」の答えに98%がYes、の文字。

 

ふむ、まあそうだよね、未来はわからないんだもの。わからないものに対して、人が取る反応は二つ。一つは期待、もう一つは不安。

 

そんな20〜30代女性の不安第一位は恋愛と結婚。ふむ、まあ女性誌らしい。「好きな人ができない」「幸せになれる?」「浮気されたらどうしよう」「失恋から立ち直れない」「このまま一生独身だったら?」「彼がマザコンで…」「仕事を取るか子供を取るか…悩みます」

 

不安の声を見てみると、誰しも一つは当てはまりそうな悩みが書いてある。その不安に対する答えは「自分次第です」「幸せな結婚とは何かについて考えてみて」「今の気持ちを大切にしましょう」「待つより行動あるのみ」などなど。

 

…うーん、そこまで読んでぱたんと表紙に戻る。なんだろう、これじゃなかった感。拍子抜けというか、立ち読みでよかったなという後悔がむくむくと湧いてくる。

 

結局この雑誌を最後まで読み通すことはできなかった。というか、不安第一位の恋愛・結婚のところを読むだけで精一杯だった。なんだか「不安解消」どころか、「不安増幅」してしまったんです。

 

不安が言語化されることで、意識される

私は今、恋愛や結婚に対してそんなに不安を抱いていないんだけど、「浮気されたらどうしよう…」「仕事と出産、どっちを取ろう」みたいな悩みを読むと、不安が沸き起こってくる。今は悩んでいないけれど、そうやって悩む可能性はゼロではないからです。

 

ゼロではない、ほんの数%の可能性があれば、不安のタネはそれを栄養として育つ。

不安を解消するために不安をパターン化して、それを提示してくれるのはいいんだけれど、そのプロセスによって不安を意識してしまうという逆効果が起こってしまっています。

 

答えのようで、答えでない

「自分次第」「考えてみる」「大切にする」…どこかで聞いたことある、言葉たち。

これは別にananのせいではないと思うんだけれど、たくさんの人に当てはめようとするとどうしても「どこかで聞いた」言葉になりますよね。不安は言語化されるのに、それに対する言葉はふわっとしているから、不安は宙にふわふわ浮いたままになってしまう。

 

次元が閉じている

chikichiki303.hatenablog.com

上の記事でも書いたんだけれど、私の「不安解消法」はどうも次元をずらすことにあるようです。

 

次元をずらすというのは、例えば「結婚できなかったらどうしよう」という不安があるとします。

そうしたら結婚するために「女子力をあげる」「結婚相談所に登録する」という解決策を探るんじゃなくて、「そもそも結婚するのはなぜ?」とか「結婚したっていつまで一緒にいるかわからないよね」「結婚という制度はいつからできたんだろう」って考えるようなイメージです。

 

それは解決策ではないんだけれど、ちょっと次元の違う話(高い方がいい、というわけではなく、違うレイヤーという意味)をするだけで、私の不安はずいぶんとおさまることがあります。

 

結婚だけが全てじゃない、そもそも結婚だって制度の一つにすぎない、そう思えること、私たちが当たり前だと思っている結婚という制度が通用しないところだってあるかもしれない、そう想像できる余地があることが、不安を和らげる私なりの方法です。

 

今回のananのような不安への対処法は、答えがふわっとしているにもかかわらず答えの次元は不安の次元と同じだったので、窮屈さを感じました。

逆に言うと同じ次元だと具体的なアドバイスに振り切る必要が、違う次元に持って行くならそっちに振り切る必要があるということ。

 

同じ次元で中途半端に答えていると、不安や質問は宙ぶらりんになってしまう。そんなことを実感したanan購入。

 

そんなことを言いたいがために、というか不安を解消したくて買ったのに逆にもやもやして、その原因を探りたくて2000文字も書いてしまった。

 

うーん女性誌を買うのはやっぱり難しい。そしてやっぱり、手っ取り早く不安を解消しようとしたら痛い目に遭うみたいだ。

 

不安は具体的に行動するか、次元をずらすか。私の不安との付き合い方は、まだまだのようです。

 

それでは、また。

教会みたいな古めかしい建物のなかにこそ、よくわからない現代アートは映えるーードイツの美術館から。

こんばんは、沙妃です。二月に入って、ちょうど寒い時期。一年前の今頃は、人生で一番長い(!)3週間の旅行に出る直前でした。

 

留学していたドレスデンから出発し、バスで2時間のチェコの首都プラハチェスキークルムロフ、そこからオーストリアのウィーンにこれまたバスで入り、電車でハンガリーブダペストに移動し、飛行機でミュンヘンに戻って来る・・・そんな(旅とは呼べない)旅行をしました。

 

旅行記的なのは書いていたけれど、案外まとまって記事を書いていなかったなというのと、写真を見ていたら懐かしくなったので、一年ぶりですが振り返り。

 

さて私の旅行のメインは美術館だったのですが、おもしろいなあと思ったのが、古い歴史を感じさせる美術館に、いまどき現代アートの展示がされていること。その組み合わせが私には新鮮で、印象に残っているのを覚えています。日本だと古い美術館には趣のある日本画だったり、モダンな建物には現代アートと、なんとなく相場が決まっているかんじが、それまでの私の印象でした。

 

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こちらはウィーンにある、オーストリア応用美術館。教会みたいに天井が高くて古めかしい建物なんですが、入り口を入るとびっくり、いきなりこのででんっとでかい現代アート?が出迎えてくれました。

 

「EVERYBODY ALWAYS THINKS THEY ARE RIGHT」人の幸せとはなにか、今幸せを感じるか、そういうのを可視化しようとしていた現代アート。「幸せになるヒント」みたいなガチャガチャがあって、それをまわすと幸せになるヒントが書かれたカードが落ちて来るんですが、私のは「Go Home and Have a Sex」でした。なんだか妙に現代アートっぽい。

 

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こちらはチェスキークルムロフという、チェコの小さい観光地。街並みがこぢんまりときれいで、アジア人観光客に人気のよう(私が行ったときは韓国人が多かった)。

 

こんなレトロな街に現代アートは特に期待していなかったのですが、街をぶらぶら歩いていると、こんなものを見つけました。

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「鏡よ鏡、世界でいちばん美しいのはだあれ?」

 

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「写真の中の幸せはホンモノなんかじゃない」

 

ストリートアートを発見。写真とスマホとインスタに夢中な現代人を思いっきり皮肉ってます。

 

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なぜか日本語を発見。これは一体何人がつくったのだろう。綴りがローマ字なんですよね。

 

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これはプラハの現代美術館の外にあった作品。作品というか、黄色いペンギンがどどどっと並んでいる。対岸にはチェコの歴史的街並みが広がっているから、それとビビッドなペンギン列のコントラストが際立っていました。

 

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これはドレスデンにある、小さい現代美術館。入ったらこんなぼろっちいと言っていいような古めかしい建物(失礼)で、こんなところで展示なんてやっているのか・・・?というかんじだったのですが、二階に上がったらちゃんとビデオアートを上映していた。ひたすら世界中のドアから出てきてドアへと消えていく、男の1日を撮った映像が、蜂の巣みたいにスクリーンにいっぱい映っていた。

 

え、ここ美術館…?ってくらい古めかしい建物と、うーんこのわけのわからなさが現代アートっぽい、っていう作品の組み合わせ。コントラストが絶妙だから、どちらも引き立つ。そのギャップに惹きつけられる。

 

何かを仕事にするときって、掛け算をすればいいって言われることがありますよね。

 

営業マンだけだとたくさんいるけれど、英語がしゃべれたらその分掛け算でライバルが減る、加えてアラビア語がしゃべれたらもっと希少価値は上がる。

 

そんな組み合わせの妙を、ヨーロッパの美術館から感じた旅でした。

 

それでは、また。

 

「西洋美術史B」と「経営戦略概論ⅡA」が繋がる、という面白さーー大学で学んだこと

こんばんは、沙妃です。最近wifi難民と化しています。wifiが上手く繋がって、電源があって、朝からやっていて、コーヒーが美味しくて、雰囲気良くて、駅から近くて・・・って意外に見つからないものですね。

なるほど、スタバがいつも混んでいるのもわかる気がする。

 

そんなこの記事も、アトレのwifiを見つけていざ!と意気込んでカフェに入るも、なぜか繋がらなくなる・・・という事態に発展しました。結局PCは閉じたまま、サラダだけ食べてすごすご帰るという。

2020年に向けてwifiが普及し始めているというものの、うーんもうちょっといろんなところで繋がらないかなあ。

 

★★★

さて、私は卒論を提出し何事もなければ三月に卒業するのですが、最近大学に入って何か変わったかなあ・・・なんてことを考えています。めっきり学校に行かなくなったので、もう記憶が薄れてきつつはあるんですが(早い)。

 

勉強の楽しさがわかった、と言えればいいんですが、実はそれって大学受験のときに実感しているんですよね。

小論文がメインだったから、ひたすら本を読んでは小論文を書いていたんだけれど、本や自分の経験から、出題されるテーマに対して自分なりの切り口で述べていく・・・というプロセスが楽しくて仕方ありませんでした。

 

そういえばこのブログも、その頃の小論文を書く、というか考えたことをメモするために始めたわけですし。

 

もちろん大学の勉強も面白かったは面白かったんですが、受験のときはわからずに、大学に入って初めて知った面白さの一つに「一見全く関係ない事柄がある日偶然繋がる」ことがあります。

 

一見関係ない知識が繋がっていく

大学3年の春休みから1年間くらい、私はすごく勉強が楽しかったのを覚えています。理由は今までばらばらだった知識が、一本の糸のようにすーっと繋がることが増えたから。

そっか、一見関係なさそうに見えるものだって繋がるんだと気づいてからいっとき、何を見ても興味深々でした。

なんだろう、砂漠が水を吸収するようなかんじで、知識を頭に吸収したいーーそんな気持ちでした。

 

「ためらい」という内田樹氏の本の中で気になっていたキーワードを、ゼミで読んでいたドイツの美学者の本の中で同じ時期くらいに見つけたときは、その偶然さにくらくらしていた。

 

前回の記事 でも書いたけれど、ジョブズのconnecting dotsのように、繋がるときはいろんなことが繋がるんだなあと知ったときって、こんなにも楽しいんですね。

 

でも一見関係のないものごとが繋がるためには、ある程度の知識を様々なかたちをした手持ちのコップに入れていく必要があると思います。

なんの役に立つかわからない本も、なんの役にもたたなさそうな授業も、その意味がわかるようになるまでには、必ずタイムラグが生じる。「西洋美術史B」と「経営戦略概論ⅡA」がいつどこで繋がるかなんて、その授業をとったときには、わからないようにできているんです。

 

コップに注いだ水は一定のところで溢れ出します。そのとき初めて、ほかのコップから溢れ出した水と混じり合うことができる。

「一見関係のないものごとが繋がる」という私のイメージは、別々のコップに水を注ぎ続けて、ある日溢れかえって混ざり合う、というイメージです。

 

もちろん学ぶことの楽しさや何かと何かが繋がるという楽しさは、大学でしか学べないのかと言われれば、そうではないと思います。

でも、自分の知識の範疇を超えた文献を読まされるという経験や、まとまった時間にじっくり知識を蓄えられるという自由、そういったものは大学で「得やすい」ものであるとは思います。

 

私は文学部、しかも独文学という研究者にでもならない限りどんな役に立つのかぴんとこない専攻を選びましたが、後悔はしていません。

「学んでいることに興味がもてる」「知識が繋がって楽しい」「今目の前の本が理解できれば何にもいらない」という気持ちになれたという経験は、ほかの誰にとっては無意味でも、これから自分が生きて、新しいことをやっていく中で前向きに取り組める、そして心をあたためてくれる経験だったからです。

 

だからといって、大学が全てだとは思いません。不必要な部分も、役にたたないこともたくさんある。

でも大学での経験が、すぐ活きないからといって不要だ、と片付けられるのはあまりにも乱暴だと思います。「興味がある勉強ができる」というのは(もちろんそうしない人もたくさんいるけれど)、大学で一番良いことだと思います。

 

なんだか話が脱線してしまいましたが、大学にこれから行く人とかこれから新しいことを学ぶ人、勉強ってつまらないなあと思っている人に届くと嬉しいです。

 

もちろん学ぶことが楽しくない時期だってたくさんあったのですが、「学ぶことは基本的に楽しい」と思えるって、人生の財産かもしれません。

何かと何かが繋がる」経験が、あなたにも訪れますように。

 

それでは、また。

 

★★★

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「○○になりたい」という生き方と、「○○を達成したい」という生き方。前者がわかりやすくて目立つけれど、本当はどちらでも良い、という話

サッカー選手になりたい、とか、医者になりたい、とか、アイドルになりたい、とか、そういうのはあんまりなかった。

 

世の中には〇〇になりたいって人と、目的のためなら手段はそんなに問わないって人と、きっと両方いるはずで。

 

私はどちらかというと後者で、そしてそのことに引け目を感じることもありました。友達で看護師になる人がいるんだけれど、彼女は高校生の頃から看護師になるって決めていて、今もまっすぐその夢を追いかけていっています。

 

そんな彼女たちを見て、いいなあ、眩しいなあ、と感じます。そのための道も、そのためにすることも、人への説明も、クリアでシンプルで、いいなあと思うこともある(もちろん彼女たちはその世界にいるからこそ見える悩みーー道が一本まっすぐ存在するからこそ、その道に合わなかったときに引き返すのが難しい、とか、本当にその職業だけでやっていけるの、とか)。

 

そんなとき、こんな記事を読みました。

 

古森剛 イノベーションに欠かせない「好奇心ドリブン」の学習法 | 未来を変えるプロジェクト by DODA

 

上記によると、人によって

①目指したい方向も、そのための道もはっきりしているタイプ

②目指したい方向ははっきりしているが、そのための道は柔軟なタイプ

③目指したい方向もそのための道も柔軟なタイプ

があるそう。そして、どれがいいとか、これは良くない、という話ではないということ。

 

そういえば私は前に、このスティーブ・ジョブスの有名なconnecting dots(点と点が繋がる)というのを聞いて、すごくほっとしたのを覚えています。そっか、こんなにビジネスで成功している人でも、そんなこと思っているんだ、と。私は今まで社会的に成功するためには、ここでいう詳細設計型の人生や、○○になる、という生き方じゃないとだめなんだ、って思っていました。

 

そしてconnecting dotsの意義は、振り返ったときに何かと何かが繋がると信じていると、頭の構造が変わって一見全然交わらない何かと何かが繋がりやすくなる、というマインドセット的なところにあると思います。

 

まっすぐなりたいものに向かってる人は道もゴールも見えやすくてわかりやすい。だからこそこっちを目指せ、こっちを行きたい思う人が多い。その分競争過多になることもあると思います。

 

目指す方向やそのための道がはっきりしていない人は、この方向で正しいのか、今どの辺にいるのか、とかがわからなくて手応えがなかったり、不安になったりするかもしれません。私はそういうところがあります。

でももしかしたらそこはブルーオーシャンかもしれないし、人の縁や偶然を大事にして、今を楽しむこともできるかもしれません。

 

私の目指したい方向は「個人の尊厳と多様性の尊重を少しでも上積みすること」だけれど、そのための道がはっきりしているわけではないし、そこは柔軟にしていければいいかな、と思っています。

 

そんなんでいいのかな、と思うこともあるけれど、「どの生き方がいい」というわけではないんだったら、今自分が抱いている「目指したい方向」と「偶然とか縁」を大事にしていけばいいんじゃないか。

 

目指したい方向もそのための道もはっきりしている方が良しとされているように感じますが、本当はどっちでもいい。自分が一番学べる、楽しめる、方向で行くということ。

 

それでは、また。

 

★★★

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今更だけど『嫌われる勇気』を読んでーー生きやすさは「課題の分離」にある

こんばんは、沙妃です。最近は専らgoatを更新しているので、はてなブログに何書こうか少し悩み中。特に「考えまとめ」に入れているカテゴリーとの住み分けが難しくなってきた。

でもはてなブログでは、引き続き映画や小説のレビューを中心に、この「考えまとめ」ではノンフィクションの本レビューを中心に書いていきたいと思います。

 

goatの方はエッセイを平日毎日更新しているので、よかったらそちらの方もよろしくお願いします。(goatの方は文字数が少なくてあっさりめの味。)

 

思考の道場remix - g.o.a.t

 

 

さて、最近寝る前に大ヒットセラーの『嫌われる勇気』とその続編の『幸せになる勇気』をぱらぱらと読み返しています。『嫌われる勇気』の方は一年前くらいに読んで、そこからしばらく放っておいてました。

でも再び読んで、ああこれはなんども読み返すべき本だ、というか、読み返していくところに価値がある本だな、と実感しました。

 

『嫌われる勇気』では一見当たり前のことも書いてあります。読むと「なるほど確かにそうだな〜」と思うことも多い。でも、それを日常でやっていかないと意味がないというか、この本の真価はそれを日常に落とし込むところにあります。

 

「叱らない・褒めない」「幸せを感じるには他者への貢献感を持つこと」「過去を元に今を解釈しないこと」などなど、『嫌われる勇気』には様々な「はっ」とするポイントがありますが、以下では特に私が印象に残ったことを綴っていきたいと思います。

「課題の分離」と「踊るように生きる」ことについて。

 

 

嫌われる勇気―――自己啓発の源流「アドラー」の教え

嫌われる勇気―――自己啓発の源流「アドラー」の教え

 
幸せになる勇気―――自己啓発の源流「アドラー」の教えII

幸せになる勇気―――自己啓発の源流「アドラー」の教えII

 

 

 

「課題の分離」で、生きやすくなる

私がこの本を読んだあと、一番日常に取り入れていきたいなあと思った考え方は「課題の分離」です。

 

よく親が子供に「勉強しなさい」って言いますよね。のび太くんのお母さんがいっつも言っているみたいに。

 

でもあれ、アドラー心理学的にはNGだそうで。なぜなら勉強をしないことによる結果ーーいい大学に行けないとか、受験生になって苦労するとかーーを被るのは、その子の親じゃなくてその子自身だからです。だから親は、子供の課題には介入してはいけない。

 

私は人に感情移入しやすい方で、周りの人が悩んでたり落ち込んでたりするとけっこうそれに引きずられます。

もちろんその分親身になって話を聞くことができると思うんですが、その人が帰ってからもブルーな気分が続くのはちょっとしんどい。

 

そんなときは「課題の分離、課題の分離・・・」と唱えることにしています。あと、逆に自分が相談してあんまりわかってもらえなくて無性に寂しくなったとき、「でもこれは私の問題だもんな・・・」と考えるようにしています。

 

そうすることで、必要以上に誰かに引きずられたり、孤独を感じることがない。

人に感情移入しやすかったり、引きずられてしまう人は楽になる考え方だと思います。

 

踊るように生きる

『嫌われる勇気』においては、過去を今に持ち込むことを否定します。いわゆるフロイトのトラウマ的考えは通用しない。

「子供の頃お母さんが、あんたはほんとどんくさいんだから、と言い続けたから、だから今の俺は自分に自信がないんだ」というのは通用しません。

 

本の中で哲人は「踊るように今を生きよ」と言います。

踊っているときって、どこかにたどり着くために、移動するために踊っているわけではないですよね?

リズムにのったり、足を高く上げたり、指先をしなやかに動かしたり。そっちの方がよっぽど大事。

 

生きることも同じで、今を生きている結果どこにたどり着くかは、問題ではないんです。

 

私はこれを読んで村上春樹の『ダンス・ダンス・ダンス』を思い出しました。主人公の僕は、大切な人を失い続けて、自分が何を求めているのかわからず、何かを求めて生きるーー生を輝かせることができません。

そんな僕にあっちの世界で羊男は言います、「踊り続けるんだよ」と。立ち止まらないこと、と。

 

私は『嫌われる勇気』の「踊るように生きる」を読んで、真っ先にこの羊男の台詞が浮かびました。そして、羊男の台詞が腑に落ちた。

 

本を読む面白さって、思いもよらない本と本がある日偶然繋がって、それでより深く理解できるところにあると思います。

 

心と頭が過去や未来を彷徨っているとき、私はそっと目を閉じてくるくる回っている(笑)自分を思い浮かべます。

どこにたどり着くかは、足がどこの地面に着地するかは、関係ないんですね。ただ、踊り続けるということ。

 

ダンス・ダンス・ダンス(上) (講談社文庫)

ダンス・ダンス・ダンス(上) (講談社文庫)

 
ダンス・ダンス・ダンス(下) (講談社文庫)

ダンス・ダンス・ダンス(下) (講談社文庫)

 

 

★★★

私は『嫌われる勇気の』著者、古賀さんのエッセイが好きでよく読んでいます。何だろう、自然体で、それでも当たり前だけれど忘れていることに気づかせてくれるような、文章で。

すごく誠実な人なんだなあ、というのが伝わってくる。私も誠実な文章を書き続けていきたい、と身がピリッと引き締まります。

 

古賀史健 (fumiken)|note

 

★★★

とここまで書いておいて、マックのwifi60分が切れて半分以上の文章が失われました。なんだろうこの喪失感。「失われた時を求めて」というプルーストのタイトルが脳裏をかすめた(そういえばあの本を全部読むのって結構人生の目標になるレベルだ)。

 

ラインの「がーん」ってスタンプここに貼り付けたい気分です(でも失われた文章は無事取り戻せました)。

 

★★★

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小説がもたらす開放感はどこから来る?柚木麻子『本屋さんのダイアナ』と、村上春樹『恋するザムザ』を読んで

 

そういえば昔の頃はよく、現代日本の女性作家さんの小説をよく読んでいました。村山由佳あさのあつこ佐藤多佳子梨木香歩、とか。

いつの間にか読まなくなったのは、彼女たちが描く女性が自分と近くなってきたからかもしれない。なんだろう、感情移入しちゃうというか、近すぎてべったりしているというか。まあそれがもちろんこれら作品の魅力でもあるんだけれど。

 

逆に高校を過ぎてから、高校生が主人公なことが多いアニメや漫画を見られるようになりました。

 

というわけで最近はめっきり読まなくなった女性作家ものですが、この間ひさびさに手に取りました。それは柚木麻子『本屋さんのダイアナ』。

 

本屋さんのダイアナ (新潮文庫)

本屋さんのダイアナ (新潮文庫)

 

 境遇が全く違う二人が仲良くなり、離れ、また互いの背中を押すという心温まるストーリー。子供時代を離れ成長するにつれて、家族の関係とか就職とか恋愛とか決してハートフルではないできごとが彼女たちに訪れるので、一気に読んでしまいました。

 

でも最後は希望が見える終わり方なのに、読後感はそんなに明るくなれなかった。なんだろう、小説がもたらす開放感、みたいなのがなかったんです。

 

★★★

ちょうど同じ頃、村上春樹の翻訳本『恋しくて』に収められているオリジナル書き下ろし『恋するザムザ』を読みました。

 

恋しくて - TEN SELECTED LOVE STORIES

恋しくて - TEN SELECTED LOVE STORIES

 

 

これは、かの有名なカフカの『変身』を元にしたストーリー。ある日朝起きたら虫になっていた主人公の話が書かれたのが『変身』だとすれば、これは逆にある日朝起きたら人間の男になっていた『虫』が書かれています。

それだけでも大変コミカルなのですが、そんな人間になったザムザくんはその日なんと恋をします、人間の女の子に。

 

彼女のことはよく知らない、けれど彼女に本能的に惹かれてしまうザムザくん。それだけだとただのコミカルなラブ・ストーリーとして終わりそうですが、この話の背景としてドイツ軍のプラハへの侵攻がでてきます。これはそんな時代の話だよということが示唆される。でも虫だったザムザくんは、そんなこと知るよしもありません。

ただ、目の前の女の子をもっと知りたい、と思い、とりあえず生きることー人間の身体と動きに慣れて、食料を見つけることーへと動き出します。

 

私はこの話を読み終わった後、なんだかすごく開放的な気持ちになりました。それは、次元のズレがあったからだと思います。

自分の力ではどうしようもない現実(ここでは戦争)を前にしても、それとは違う次元、ここでいうと恋という極めて個人的な次元で生きようとするザムザくんは、個人が個人として生きる、という人間として根本のところを、戦争という次元が大きい話を作中に挟むことで際立たせています。

 

これは村上春樹の作品では多くでてくるもので、「大きな物語」と「小さな物語」という軸で語られます。1Q84などでは顕著に表れている。リトル・ピープルとそれと戦うという大きな物語と、主人公青豆の初恋の成就という、極めて個人的な物語が、そこでは絡み合う。

 

私が『本屋さんのダイアナ』を読み終わった後、あんまり風通しが良くなかったなあと思ったのは、作中で主人公たちに訪れる困難と希望が、どちらも同じ次元の話だったからだと思います。

その世界・その次元でしか話が進まなくて、無意識に読者はその世界の狭さ、抜け出せなさ、嗅ぎとってしまう。まあその世界・次元から逃げられないからこそ、一気に読ませるという臨場感が湧いて来るのですが。

 

私は次元のズレから来る、小説の開放感からはすごく勇気がもらえることがあります。大きな悪やどうしようもない社会にぶつかっても、次元の違う、限りなくささやかで個人的な営みを続けていくということ。それは村上春樹の有名な「卵と壁」のスピーチにも当てはまるし、前回書いた『この世界の片隅に』にも当てはまるものだと思っています。

 

それでは、また。

 

 

物語の功罪-物語ですくわれるもの、物語でうしなわれるもの

こんばんは、沙妃です。寒くて肌が痛いです。こんな日は家でこたつでまったりしたいですね、こたつないけれど。

 

さて今夜のテーマは、物語の功罪について。功罪っていうとなんだかカタイですね。私は物語が好きで、このブログでも物語そのものについて書いたりしています。人は物語のなかでしかいきられないんだなあとも思っています。自分のアイデンティティとか、人生の意味とか、国の歴史とか、全部物語の構造で成り立っている。

 

というと話がずれてしまうかもですが、物語、いわゆるフィクションってなんで存在しているんだろうとふと小説を読んでいて思いました。実際にはないことを、どうしてわざわざ細かく書くんだろうと。現実じゃなかったら、そんなのいらないんじゃないかって、いう人の気持ちもわからなくはない。

 

でも、自分で物語を書くことで気づきました。物語じゃないと、フィクションの形じゃないと書けないものがあるということ。物語だからこそ、書ける何かがあること。

 

私はふとしたときに、なにかの目的があるわけじゃないのに物語が書きたくなることがあります。なんでなんだろうと思ったんですが、物語によってすくいたい何かがあるんじゃないかと。物語にしないと言葉にならない感情とか、考えとか。物語にして初めて浮かび上がってくるものとか。

 

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これは前に書いた物語(の一部)ですが、これなんかは書き終わったあとで自分がなにを思っていたのかぼんやりとした輪郭がうかんだのかなと思っています。

災害とか戦争とか、身近な人の死とか、特に自分にとって激しい感情を残すできごとに遭遇したとき、人はなにも語れないーー事実ベースの話では語れないことがあると思います。

そういうとき、フィクションという物語の水準に話を昇華させることで、語れるものがある。救われる・掬われる感情や想い、考えがある。だから、フィクションだから意味がない、というのは私は思えません。それでしか語れない何かがあると思うから。

 

★★★

でも物語にするってことは、決していいことだけじゃないと思うんですよね。物語によって、うしなわれる何かがある。私がそう思ったきっかけは、アニメ映画『この世界の片隅に』を見たこと。

 


映画『この世界の片隅に』予告編

 

 

この映画は戦中の一市民を描いているので、空襲や原爆のシーンがあります。だからこの映画のテーマを「反戦」というとわかりやすい。主人公のすずさんは姪っ子を(自分のせいで)亡くし、お嫁にきて家で働くために必要不可欠な右腕をなくし、実家の家族を失う。

すずさんから大事なものを奪っていく戦争。私たちはいやが応でも戦争の悲惨さを再認識させられる。

 

でも一方で、この映画では全面的に戦争の話が出てくるわけではないんですよね。前半は特に、すずさんの細やかな日常が描かれる。

子供時代に絵がうまくて入賞したりとか、幼馴染の男の子が戦争に行く前に泊まりにきたとか、それが原因で夫の周作さんと初めてけんかしたりとか、そういう、今の私たちにも通ずるような、細やかな日常が。

 

戦中も、良い意味でなまなましい日常が描かれる。「空襲にあきた〜」という姪っ子や、防空壕でのすずさんと周作さんのキスや、幼馴染との一晩とか、小姑との関係とか。

 

そういったことを全て「これは反戦映画ですから」といってしまうと、こぼれ落ちてしまう気がする。すずさんという人が生きた「この世界」が。

戦争は戦争一色じゃなくて、今の私たちにも通ずる日常があったということ、退屈な日々もあったということ。

いろいろなものを失いながらそれでも日常を生きていたということ。そういった細やかな日常は、色鮮やかではないものの、いろんな色味を帯びている。一言で、物語にして「片付けて」「語づけて」しまうには、あまりにももったいない、すずさんの日常。

 

物語は、複雑な現実やいろんな色の日常を、単純化してしまうこともあるということ。語って言葉にしてしまうことで、うしなわれることもあるということ。

 

逆にフィクションという物語にすることで、輪郭を帯びるものもあること。

 

この世界の片隅に』はフィクションの物語だから、もしすずさんみたいな人(たぶんたくさんいただろう)がいたのなら、もちろんこぼれ落ちてしまった日常はたくさんあるだろう。でもこの映画は限られた時間のなかで、限りなくていねいに日常を描いていたと思う。

 

物語の良さ(物語にして伝えられた戦中の日常)とその限界(映画で描かれなかったすずさんの、あったであろう日常)の間のぎりぎりをついてきたところが、私はこの映画ですごく評価したいところです。

 

物語が好きだとその良い面ばかり見たくなるんだけれど、こぼれ落ちてしまうものとか、力強い物語に絡め取られてしまう危険性とか、そういうものを忘れずにいたいなと思っています。とりあえず『この世界の片隅に』は2016年最も勧めたいアニメ映画です。

 

それでは、また。

 

★★★

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