読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

思考の道場

答えのない、問いのまわりをぐるぐると。

今更だけど『嫌われる勇気』を読んでーー生きやすさは「課題の分離」にある

こんばんは、沙妃です。最近は専らgoatを更新しているので、はてなブログに何書こうか少し悩み中。特に「考えまとめ」に入れているカテゴリーとの住み分けが難しくなってきた。

でもはてなブログでは、引き続き映画や小説のレビューを中心に、この「考えまとめ」ではノンフィクションの本レビューを中心に書いていきたいと思います。

 

goatの方はエッセイを平日毎日更新しているので、よかったらそちらの方もよろしくお願いします。(goatの方は文字数が少なくてあっさりめの味。)

 

思考の道場remix - g.o.a.t

 

 

さて、最近寝る前に大ヒットセラーの『嫌われる勇気』とその続編の『幸せになる勇気』をぱらぱらと読み返しています。『嫌われる勇気』の方は一年前くらいに読んで、そこからしばらく放っておいてました。

でも再び読んで、ああこれはなんども読み返すべき本だ、というか、読み返していくところに価値がある本だな、と実感しました。

 

『嫌われる勇気』では一見当たり前のことも書いてあります。読むと「なるほど確かにそうだな〜」と思うことも多い。でも、それを日常でやっていかないと意味がないというか、この本の真価はそれを日常に落とし込むところにあります。

 

「叱らない・褒めない」「幸せを感じるには他者への貢献感を持つこと」「過去を元に今を解釈しないこと」などなど、『嫌われる勇気』には様々な「はっ」とするポイントがありますが、以下では特に私が印象に残ったことを綴っていきたいと思います。

「課題の分離」と「踊るように生きる」ことについて。

 

 

嫌われる勇気―――自己啓発の源流「アドラー」の教え

嫌われる勇気―――自己啓発の源流「アドラー」の教え

 
幸せになる勇気―――自己啓発の源流「アドラー」の教えII

幸せになる勇気―――自己啓発の源流「アドラー」の教えII

 

 

 

「課題の分離」で、生きやすくなる

私がこの本を読んだあと、一番日常に取り入れていきたいなあと思った考え方は「課題の分離」です。

 

よく親が子供に「勉強しなさい」って言いますよね。のび太くんのお母さんがいっつも言っているみたいに。

 

でもあれ、アドラー心理学的にはNGだそうで。なぜなら勉強をしないことによる結果ーーいい大学に行けないとか、受験生になって苦労するとかーーを被るのは、その子の親じゃなくてその子自身だからです。だから親は、子供の課題には介入してはいけない。

 

私は人に感情移入しやすい方で、周りの人が悩んでたり落ち込んでたりするとけっこうそれに引きずられます。

もちろんその分親身になって話を聞くことができると思うんですが、その人が帰ってからもブルーな気分が続くのはちょっとしんどい。

 

そんなときは「課題の分離、課題の分離・・・」と唱えることにしています。あと、逆に自分が相談してあんまりわかってもらえなくて無性に寂しくなったとき、「でもこれは私の問題だもんな・・・」と考えるようにしています。

 

そうすることで、必要以上に誰かに引きずられたり、孤独を感じることがない。

人に感情移入しやすかったり、引きずられてしまう人は楽になる考え方だと思います。

 

踊るように生きる

『嫌われる勇気』においては、過去を今に持ち込むことを否定します。いわゆるフロイトのトラウマ的考えは通用しない。

「子供の頃お母さんが、あんたはほんとどんくさいんだから、と言い続けたから、だから今の俺は自分に自信がないんだ」というのは通用しません。

 

本の中で哲人は「踊るように今を生きよ」と言います。

踊っているときって、どこかにたどり着くために、移動するために踊っているわけではないですよね?

リズムにのったり、足を高く上げたり、指先をしなやかに動かしたり。そっちの方がよっぽど大事。

 

生きることも同じで、今を生きている結果どこにたどり着くかは、問題ではないんです。

 

私はこれを読んで村上春樹の『ダンス・ダンス・ダンス』を思い出しました。主人公の僕は、大切な人を失い続けて、自分が何を求めているのかわからず、何かを求めて生きるーー生を輝かせることができません。

そんな僕にあっちの世界で羊男は言います、「踊り続けるんだよ」と。立ち止まらないこと、と。

 

私は『嫌われる勇気』の「踊るように生きる」を読んで、真っ先にこの羊男の台詞が浮かびました。そして、羊男の台詞が腑に落ちた。

 

本を読む面白さって、思いもよらない本と本がある日偶然繋がって、それでより深く理解できるところにあると思います。

 

心と頭が過去や未来を彷徨っているとき、私はそっと目を閉じてくるくる回っている(笑)自分を思い浮かべます。

どこにたどり着くかは、足がどこの地面に着地するかは、関係ないんですね。ただ、踊り続けるということ。

 

ダンス・ダンス・ダンス(上) (講談社文庫)

ダンス・ダンス・ダンス(上) (講談社文庫)

 
ダンス・ダンス・ダンス(下) (講談社文庫)

ダンス・ダンス・ダンス(下) (講談社文庫)

 

 

★★★

私は『嫌われる勇気の』著者、古賀さんのエッセイが好きでよく読んでいます。何だろう、自然体で、それでも当たり前だけれど忘れていることに気づかせてくれるような、文章で。

すごく誠実な人なんだなあ、というのが伝わってくる。私も誠実な文章を書き続けていきたい、と身がピリッと引き締まります。

 

古賀史健 (fumiken)|note

 

★★★

とここまで書いておいて、マックのwifi60分が切れて半分以上の文章が失われました。なんだろうこの喪失感。「失われた時を求めて」というプルーストのタイトルが脳裏をかすめた(そういえばあの本を全部読むのって結構人生の目標になるレベルだ)。

 

ラインの「がーん」ってスタンプここに貼り付けたい気分です(でも失われた文章は無事取り戻せました)。

 

★★★

他にもこんな記事書いています。

 

chikichiki303.hatenablog.com

 

 

chikichiki303.hatenablog.com

 

chikichiki303.hatenablog.com

 

 

chikichiki303.hatenablog.com

 

 

chikichiki303.hatenablog.com 

小説がもたらす開放感はどこから来る?柚木麻子『本屋さんのダイアナ』と、村上春樹『恋するザムザ』を読んで

作品レビュー

 

そういえば昔の頃はよく、現代日本の女性作家さんの小説をよく読んでいました。村山由佳あさのあつこ佐藤多佳子梨木香歩、とか。

いつの間にか読まなくなったのは、彼女たちが描く女性が自分と近くなってきたからかもしれない。なんだろう、感情移入しちゃうというか、近すぎてべったりしているというか。まあそれがもちろんこれら作品の魅力でもあるんだけれど。

 

逆に高校を過ぎてから、高校生が主人公なことが多いアニメや漫画を見られるようになりました。

 

というわけで最近はめっきり読まなくなった女性作家ものですが、この間ひさびさに手に取りました。それは柚木麻子『本屋さんのダイアナ』。

 

本屋さんのダイアナ (新潮文庫)

本屋さんのダイアナ (新潮文庫)

 

 境遇が全く違う二人が仲良くなり、離れ、また互いの背中を押すという心温まるストーリー。子供時代を離れ成長するにつれて、家族の関係とか就職とか恋愛とか決してハートフルではないできごとが彼女たちに訪れるので、一気に読んでしまいました。

 

でも最後は希望が見える終わり方なのに、読後感はそんなに明るくなれなかった。なんだろう、小説がもたらす開放感、みたいなのがなかったんです。

 

★★★

ちょうど同じ頃、村上春樹の翻訳本『恋しくて』に収められているオリジナル書き下ろし『恋するザムザ』を読みました。

 

恋しくて - TEN SELECTED LOVE STORIES

恋しくて - TEN SELECTED LOVE STORIES

 

 

これは、かの有名なカフカの『変身』を元にしたストーリー。ある日朝起きたら虫になっていた主人公の話が書かれたのが『変身』だとすれば、これは逆にある日朝起きたら人間の男になっていた『虫』が書かれています。

それだけでも大変コミカルなのですが、そんな人間になったザムザくんはその日なんと恋をします、人間の女の子に。

 

彼女のことはよく知らない、けれど彼女に本能的に惹かれてしまうザムザくん。それだけだとただのコミカルなラブ・ストーリーとして終わりそうですが、この話の背景としてドイツ軍のプラハへの侵攻がでてきます。これはそんな時代の話だよということが示唆される。でも虫だったザムザくんは、そんなこと知るよしもありません。

ただ、目の前の女の子をもっと知りたい、と思い、とりあえず生きることー人間の身体と動きに慣れて、食料を見つけることーへと動き出します。

 

私はこの話を読み終わった後、なんだかすごく開放的な気持ちになりました。それは、次元のズレがあったからだと思います。

自分の力ではどうしようもない現実(ここでは戦争)を前にしても、それとは違う次元、ここでいうと恋という極めて個人的な次元で生きようとするザムザくんは、個人が個人として生きる、という人間として根本のところを、戦争という次元が大きい話を作中に挟むことで際立たせています。

 

これは村上春樹の作品では多くでてくるもので、「大きな物語」と「小さな物語」という軸で語られます。1Q84などでは顕著に表れている。リトル・ピープルとそれと戦うという大きな物語と、主人公青豆の初恋の成就という、極めて個人的な物語が、そこでは絡み合う。

 

私が『本屋さんのダイアナ』を読み終わった後、あんまり風通しが良くなかったなあと思ったのは、作中で主人公たちに訪れる困難と希望が、どちらも同じ次元の話だったからだと思います。

その世界・その次元でしか話が進まなくて、無意識に読者はその世界の狭さ、抜け出せなさ、嗅ぎとってしまう。まあその世界・次元から逃げられないからこそ、一気に読ませるという臨場感が湧いて来るのですが。

 

私は次元のズレから来る、小説の開放感からはすごく勇気がもらえることがあります。大きな悪やどうしようもない社会にぶつかっても、次元の違う、限りなくささやかで個人的な営みを続けていくということ。それは村上春樹の有名な「卵と壁」のスピーチにも当てはまるし、前回書いた『この世界の片隅に』にも当てはまるものだと思っています。

 

それでは、また。

 

 

物語の功罪-物語ですくわれるもの、物語でうしなわれるもの

こんばんは、沙妃です。寒くて肌が痛いです。こんな日は家でこたつでまったりしたいですね、こたつないけれど。

 

さて今夜のテーマは、物語の功罪について。功罪っていうとなんだかカタイですね。私は物語が好きで、このブログでも物語そのものについて書いたりしています。人は物語のなかでしかいきられないんだなあとも思っています。自分のアイデンティティとか、人生の意味とか、国の歴史とか、全部物語の構造で成り立っている。

 

というと話がずれてしまうかもですが、物語、いわゆるフィクションってなんで存在しているんだろうとふと小説を読んでいて思いました。実際にはないことを、どうしてわざわざ細かく書くんだろうと。現実じゃなかったら、そんなのいらないんじゃないかって、いう人の気持ちもわからなくはない。

 

でも、自分で物語を書くことで気づきました。物語じゃないと、フィクションの形じゃないと書けないものがあるということ。物語だからこそ、書ける何かがあること。

 

私はふとしたときに、なにかの目的があるわけじゃないのに物語が書きたくなることがあります。なんでなんだろうと思ったんですが、物語によってすくいたい何かがあるんじゃないかと。物語にしないと言葉にならない感情とか、考えとか。物語にして初めて浮かび上がってくるものとか。

 

note.mu

 

これは前に書いた物語(の一部)ですが、これなんかは書き終わったあとで自分がなにを思っていたのかぼんやりとした輪郭がうかんだのかなと思っています。

災害とか戦争とか、身近な人の死とか、特に自分にとって激しい感情を残すできごとに遭遇したとき、人はなにも語れないーー事実ベースの話では語れないことがあると思います。

そういうとき、フィクションという物語の水準に話を昇華させることで、語れるものがある。救われる・掬われる感情や想い、考えがある。だから、フィクションだから意味がない、というのは私は思えません。それでしか語れない何かがあると思うから。

 

★★★

でも物語にするってことは、決していいことだけじゃないと思うんですよね。物語によって、うしなわれる何かがある。私がそう思ったきっかけは、アニメ映画『この世界の片隅に』を見たこと。

 


映画『この世界の片隅に』予告編

 

 

この映画は戦中の一市民を描いているので、空襲や原爆のシーンがあります。だからこの映画のテーマを「反戦」というとわかりやすい。主人公のすずさんは姪っ子を(自分のせいで)亡くし、お嫁にきて家で働くために必要不可欠な右腕をなくし、実家の家族を失う。

すずさんから大事なものを奪っていく戦争。私たちはいやが応でも戦争の悲惨さを再認識させられる。

 

でも一方で、この映画では全面的に戦争の話が出てくるわけではないんですよね。前半は特に、すずさんの細やかな日常が描かれる。

子供時代に絵がうまくて入賞したりとか、幼馴染の男の子が戦争に行く前に泊まりにきたとか、それが原因で夫の周作さんと初めてけんかしたりとか、そういう、今の私たちにも通ずるような、細やかな日常が。

 

戦中も、良い意味でなまなましい日常が描かれる。「空襲にあきた〜」という姪っ子や、防空壕でのすずさんと周作さんのキスや、幼馴染との一晩とか、小姑との関係とか。

 

そういったことを全て「これは反戦映画ですから」といってしまうと、こぼれ落ちてしまう気がする。すずさんという人が生きた「この世界」が。

戦争は戦争一色じゃなくて、今の私たちにも通ずる日常があったということ、退屈な日々もあったということ。

いろいろなものを失いながらそれでも日常を生きていたということ。そういった細やかな日常は、色鮮やかではないものの、いろんな色味を帯びている。一言で、物語にして「片付けて」「語づけて」しまうには、あまりにももったいない、すずさんの日常。

 

物語は、複雑な現実やいろんな色の日常を、単純化してしまうこともあるということ。語って言葉にしてしまうことで、うしなわれることもあるということ。

 

逆にフィクションという物語にすることで、輪郭を帯びるものもあること。

 

この世界の片隅に』はフィクションの物語だから、もしすずさんみたいな人(たぶんたくさんいただろう)がいたのなら、もちろんこぼれ落ちてしまった日常はたくさんあるだろう。でもこの映画は限られた時間のなかで、限りなくていねいに日常を描いていたと思う。

 

物語の良さ(物語にして伝えられた戦中の日常)とその限界(映画で描かれなかったすずさんの、あったであろう日常)の間のぎりぎりをついてきたところが、私はこの映画ですごく評価したいところです。

 

物語が好きだとその良い面ばかり見たくなるんだけれど、こぼれ落ちてしまうものとか、力強い物語に絡め取られてしまう危険性とか、そういうものを忘れずにいたいなと思っています。とりあえず『この世界の片隅に』は2016年最も勧めたいアニメ映画です。

 

それでは、また。

 

★★★

そのほか物語に関する記事。

 

chikichiki303.hatenablog.com

 

 

chikichiki303.hatenablog.com

 

 

chikichiki303.hatenablog.com

 

 

chikichiki303.hatenablog.com

 

 

 

 

内向的・外向的のちがいは刺激に対する反応のちがい。『内向型人間のすごい力』感想とレビュー

考えまとめ

アニメ映画やマンガ、小説のレビューは書いているんですが、いわゆるノンフィクションの作品レビューは書いていませんでした。本を読むときはフィクションを読むことの方が多いから。でもこの間Glocal Lifeさんのブログで『内向型人間のすごい力』がおすすめされていて、気になって読んでみたら目からうろこだったので、私も紹介していきたいと思います。

www.glocallife.net

 

内向型人間の時代 社会を変える静かな人の力

内向型人間の時代 社会を変える静かな人の力

 

 

外向的(extravert)か内向的(introvert)かというのは、今まで自分がどっちなのかって意識したことがなかったのですが、この本を読んで自分は内向的よりだということがはっきりわかりました。勿論人のパーソナリティを簡単に二分することはできないけれど、革新的か保守的か、おしゃべりか聞き役かなど、いくつもの二分要素の軸を持っていると自分やまわりの人のマッピングができるので、持っておくことに越したことはないですね。

 

さて内向的人間について読んで何が目からうろこだったかというと、「人によって刺激に対する反応の大きさがちがう」ということです。

 

刺激に対する反応が大きければ内向的、小さければ外向的

 

刺激に対する反応の話に入る前に、そもそも外向的・内向的とは何ぞや?という話をしましょう。この本で述べられている外向的な人の特徴は

 

・すばやく行動・決定する

・一度に複数のことをこなす

・お金や地位などの報酬を求める

・仲間を強く求める

 

であり、内向的な人の特徴は

 

・ゆっくりと慎重に行動する

・ひとつの作業に集中するのを好む

・少人数でのおしゃべりを好む

・ひとりの時間を楽しむ

 

などです。(本の中では自分が外向的か内向的かを確かめる簡単なチェックリストもあります)

 

そして外向的か内向的かということに、刺激に対する反応の大きさが関わってきている。刺激というのは日光や電気など光の刺激、騒音といった物理的なものもそうだし、初対面の人に会うときの緊張やわくわく、大勢の前で話すときの不安や高揚感といった心理的な刺激も含む。

 

あれ、一見すると外向的な人の方がこういった刺激に対する反応が大きい気がしません?でも実は逆なんです。刺激に対する反応が大きくないから、刺激の大きいものー大勢の前で話したり、パーティーでたくさんの人としゃべったり、スカイダイビングとかギャンブルとかアドレナリンがどばーっと出そうなアクティビティーを好む。

 

一方刺激に対する反応が大きいから、外向的な人が好むこういった刺激の強いことは刺激が大きすぎるゆえに疲れてしまい、逆に読書や一人での時間など、刺激の少ないことを心地いいと感じるのです。

そして、人は自分がちょうどいいと感じる刺激の量を求めるんだそう。

 

これは脳レベルで違うらしくて、赤ちゃんでも同じ大きさの音で泣いてしまう子もいれば、あんまり反応しない子もいるという実験があり、刺激に対する反応の大きさは生まれたときから違うということが示唆されています。

 

私はこれを読んで目からうろこでした。私は初めての人に会うのは、楽しみわくわくというよりは不安とかどきどきの方が多くて、会う前なんかはいやだなあ、会いたくないなあと思ってしまいます。人前で話すのは必要に応じてやりますが、元々好むかというとそうではありません。家の中で退屈することはなくて、むしろ家の中でやることいっぱい、本を読んだりブログ書いたり掃除したり瞑想したりhtml勉強したりとたくさんあります。

 

「人が一番恐れていることは退屈することだ」といわれることがありますが、私はあまりぴんとくることがありませんでした。それはこの本を読んで謎が解けました。

そっか、刺激に対する反応が大きくて、少しの刺激、他の人だったら退屈だと思う量の刺激も「楽しめる」んだと。

 

逆に不安を感じやすくてしんどいなあと思っていたのですが、これは小さい刺激にも反応してしまうからなんですね。

退屈は感じないが不安を感じやすいのは、自分が後からつくりあげたような、つまり後天的なものだと思ってて、特に不安を感じやすいのとか変えたいなあと思っていたのですが、この本によるとそれは元々持っている、一つの個性みたいです。

 

比べたってしょうがない

 

新しい環境や新しい人との出会いを楽しめる人、飲み会とかパーティーを楽しめる人がうらやましくて、私もそんな人になりたいなあと思っていました。なりたいというか、そういった人にわくわくした人にならなきゃと思っていました。

私のまわりはわくわくしてる人、社交的な人が多いので。

 

これは『内向型人間~』の本の中でも言われているんですが、今の社会においては外向的人間の方が良しとされているんですね。だから、内向的な人は自分を変えなきゃと思いやすい。

 

でも上で話したように、そもそも心地よいと感じる刺激の量が違うんだったら、外向的な人の活動レベルに合わせたところで楽しくも快適だとも感じないことがわかる。

だから、飲み会を楽しまなきゃ、とか、新しい人に会うのに積極的にならなきゃ、って無理に思わなくていいんです。

 

外向的な人と比べたって、そもそもが違うんだから意味がない。それよりも、自分が心地よいと感じる環境を大事にしていく、構築していくことの方が大事になっていきます。

特に今は、そしてこれからますますネットが発達してきて、前に出たくない、目立ちたくない人も発信できることができるようになってきているから。

 

もちろん「自分は内向的だから」って決めつけて、これを言い訳のようにして積極的に外へ出ていくことをやめちゃうのはもったいないことだとは思います。

ただまわりは外に出ていくことに、新しい人に出会うことに楽しみを覚えている中で、自分も楽しまなきゃって思う必要はないということ。

 

必要に応じて外に出ていくことはするけれど、その分自分の心地いいところでしっかり休むこと。内向的だということを悪いってとらえないようになるだけ、一つの個性だと捉えるだけで、こんなに生きやすくなるんだなあと思った次第です。

 

周りは楽しんでいるのに、一般的に楽しいといわれていることなのに、自分はあんまり楽しめてないな...ってことがある人、積極的に外へ出ていく人が億劫な人、そういった自分があんまり好きではない人には、おすすめしたい本です。

これは他にも内向的人間の長所をいくつも挙げているので。

 

もし、あなたが内向型ならば、持って生まれた能力を使ってフローを見つけよう。内向型は、持続力や問題を解決するためのねばり強さ、思いがけない危険を避ける明敏さを持っている。財産や社会的地位といった表面的なものに対する執着はあまりない。それどころか、最大の目標は自分自身の持てる力を最大限に利用することだったりする。......だから、いつも自分らしくしていよう。ゆっくりとしたペースで着実に物事を進めたいのなら、周囲に流されて競争しなければと焦らないように心がけよう。

 

スーザンケイン著、『内向型人間のすごい力 静かな人が世界を変える』(講談社+α文庫)

 

すごく勇気の出る著者のメッセージ。ペースを乱されそうになったとき、焦ったとき、不安になったときに見返したいですね。

私の今年の目標は「競争しない、比較しない」なのですが、それはこの本を読んだからでもあります。

shikounodoujyou.goat.me

 

このように自分(また周りの人)がどんな性格や傾向にあるのかを知っていくのは、自分の生き方を決める上でもすごく参考になりそうです。

 

それでは、また。

2016年によく読まれた記事たち

自己紹介

去年書いた記事の振り返りをしていなかったので、年が明けちゃったけれど振り返りたいと思います。google analyticsは2か月くらいしか使っていないので正確ではないのですが、以下のような記事がよく読まれました。それではどうぞ。

 

chikichiki303.hatenablog.com

 一番読まれた記事は、マンガ「orange」の考察記事。オレンジはストーリーよりも装丁に惹かれて読んでいたんですが、読んでいくうちにけっこう考察しがいがあるかも?と思って書きました。後悔のある人生はあるのか?という話。シリアスさとギャグっぽさのバランスがよい作品です。

 

chikichiki303.hatenablog.com

 後悔についてはこっちの記事でも触れています。こちらもよく読まれました。

 

chikichiki303.hatenablog.com

 

私の大好きな京都アニメーション山田尚子監督作品。彼女の作品はアニメーション映画を見るきっかけともなりました。「聲の形」は障害というテーマに真っ向から取り組んでいる一方、主人公が「顔を上げる」ようになるまでの青春物語でもあります。障害を個性の一つとして描いている意欲作。

 

 

chikichiki303.hatenablog.com

 じわじわと読まれている記事。ヨーロッパにいると壁の落書きがそこらじゅうにあります。たいていは名前を記載しているもおなんだけれど、ときどきはっとするような絵に出合います。街歩きが楽しいですね。チェコの有名な「ジョンレノンの壁」についても紹介しています。

 

 

chikichiki303.hatenablog.com

 美術館によく行くので、その楽しみ方を書きました。知識を得るというよりは、ぴんとくる絵に出合いに行くんです。美術館に行くとぐったり疲れるので、省エネモードでのまわり方なんかについても書いています。アートに関する記事は今年増やしていきたい。

 

 

chikichiki303.hatenablog.com

ちょうど一年前くらいに活字が読めなくなって、そのときに何をしたかを綴った記事。落ち込んだときや、好きなことから離れたくなったときに覚えておきたいことを書きました。

 

chikichiki303.hatenablog.com

chikichiki303.hatenablog.com

 それぞれマンガと小説のレビュー記事。どちらも家族というテーマについて触れています。いわゆる純文学の考察は人文学っておもしろい?でしていますが、マンガとか児童文学とか、やわらかい作品について考察するのも好きです。(純文学と違ってぐぐってもレビューが少ないから、自分で書きたくなるのもある)

 

 

chikichiki303.hatenablog.com

 こちらも山田尚子監督の映画。「たまこラブストーリー」は、新しいことを始めるとき、環境が変わるとき、不安になるときに見ています。ドストレートのラブストーリーですが、見るとじんわり一歩踏み出す勇気が出ます。演出が実写映画みたいなので、アニメ苦手な人にもおすすめしたい作品。

 

chikichiki303.hatenablog.com

 こちらはよく読まれたというわけではないんですが、個人的に気に入っている記事です。静かにたんたんと語ることの大事さというか、そういう声が聴こえる場所をつくっていきたい。声高に叫ばれる極端な「答え」よりも、静かに発せられる「問い」に耳を傾けていきたい。そういった意味で自分の原点にかえる記事でもあります。

 

よく読まれた記事9つと、お気に入り記事1つを選んでみました。お気に入りの記事みたいな記事をあんまり書いていないことに気付いたので、今年は多様性とか、問いの共有とか、アートの意味とかについてもっと触れていきます。もちろん作品レビューは引き続き。(何か取り上げてほしい作品の募集もしたいです)

 

あらためて今年もよろしくお願いします。

 

 

 

今年のブログに関するお知らせ

あけましておめでとうございます。2020年まであと3年というのがとっても不思議。オリンピックはあっという間にやってくるのでしょうか。

 

去年の頭からブログをメモから「見てもらうブログ」に変えて、早一年くらいが経ちました。細々と続けてこれたので、今年はもうちょい更新頻度を上げていこうかと思います。

 

ブログのテーマも特になく、書きたいことをその都度書いてきた形でしたが、これからはエッセイをここじゃなくてgoatブログに書いていくことにしました。ここで書いていたwebエッセイに加え、個人的なことも書いていきます。ツイッターに更新情報を載せていくので、エッセイを読んでくれていた方はそちらもフォローしてくれると嬉しいです。

 

https://shikounodoujyou.goat.me/

 

https://mobile.twitter.com/sophieagermany

 

はてなブログでは小説、アニメ映画レビュー、アートや美術館、多様性やこれからの時代の生き方などを引き続き書いていきます。

 

またnoteでは小説を、人文学ブログでは友人と小説を考察する対談を載せています。

 

https://note.mu/chikichiki303

http://jinbungaku.hatenadiary.com/

 

今年はGoatは月曜〜金曜、はてなブログは土日の更新にしようかと思います。更新時間は夜8時。どうぞよろしくお願いします。

憧れの克服と、一歩踏み出した久美子の成長と―『響けユーフォニアム』1期&2期10話までの感想・考察

作品レビュー

 

『響けユーフォニアム』は京都アニメーションの今季作品であり、かつ私が何回か触れてきた『聲の形』『たまこラブストーリー』の山田尚子監督が演出をしているアニメ。

chikichiki303.hatenablog.com

chikichiki303.hatenablog.com

chikichiki303.hatenablog.com

 

一期を見たときに衝撃をうけてからというもの、2期を楽しみにしていました。(最近よく衝撃をうけている気がする、アニメに。)高校の吹奏楽部が全国を目指すというストーリーで、汗と青春とスポ魂と感動か...ちがうな...と思っていたのですが、その思い込みは良い方向で裏切られました。

もちろん全国を目指すというところにブレはないんですが、人間関係とかそういうのにもっと焦点が当たっているんですよね。なんだろう、もちろんアニメらしく、というか物語らしくきれいにまとまってはいるんだけれど、どうしようもない人間関係の生々しさが描かれている。それが演出と構成によって、ダイレクトには伝えられないものの、丁寧に掬い上げられている。

 

2期においてもそれは変わらず。ドラマとしてはテンポが遅く、淡々と話が進んでいく回が多いものの、クライマックスになった回の盛り上がりに効いてくる。個人的にそれが2期の10話だったので、1期も併せてレビューを書きます。『響けユーフォニアム』における私のテーマは「姉との関係性」です。

 

ちなみに劇場版もあるので、予告でアニメの雰囲気だけでもどうぞ。


『劇場版 響け!ユーフォニアム~北宇治高校吹奏楽部へようこそ~』予告

 

憧れの克服

 

私は一期のテーマを憧れの克服と見ています。姉、麻美子に憧れて始めた吹奏楽。本当はお姉ちゃんと同じトロンボーンがやりたかった久美子。でもなんとなく、勧められるがままにユーフォニアムを手に取ります。それを小学校高学年から、高校まで続けてきた。でも姉の麻美子はその間に、受験をきっかけにトロンボーンを辞めてしまいました。久美子は流されるまま、高校でも吹奏楽部に入り、部の雰囲気に乗っかるような形で全国大会を目指します。

 

そんな久美子が変わったのは、麗奈に出会い、「特別でありたい」という彼女の気持ちを受けとめてから。熱に浮かされたように久美子は「上手くなりたい」という思いにとりつかれます。ここで久美子は、ユーフォニアムを頑張って吹いている意味を明確に見出したかのように見えます。麗奈のように特別でありたい、特別であるために、私も麗奈みたいに上手くなりたい、と。

でもこれって、トロンボーンを吹いていた姉に憧れていた小学生の久美子と、動機はそんなに変わらないんですよね。憧れの対象が姉→麗奈に変わっただけで。

 

「特別になりたい」「上手くなりたい」というそんな思いを挫くかのように、顧問の滝先生から、練習していた難しいパートのところは本番で吹くな、と言われてしまう。

ここで初めて、久美子は「悔しくて死にそう」という中学校のときの麗奈の気持ちを理解します。久美子が麗奈に「追いついた」瞬間です。

その後、父の後を継いで、父に「勧められて」吹奏楽部の顧問になったという滝先生との会話をふまえて、久美子は姉麻美子に「ユーフォ続けてなんか意味あんの?」という問いに対して「だってユーフォ好きだもん」と答えます。憧れの対象であった姉、ユーフォをやっている理由だった姉に「ユーフォをやる意味・理由」を伝えることで、久美子は憧れを克服し、自分なりの理由を見つけます。

 

誰かに憧れて何かをする、というのは、何かを始めるきっかけになったり自分を成長させる機会になるけれど、憧れの対象を失った久美子がなんとなくユーフォを続けていたように、そして新たに麗奈という憧れの対象を手に入れた久美子が、自分のペースを乱していったように、モチベーションが他者に左右されるという危険をはらんでいます。

そういった憧れを乗り越え、より強固な、しっかりとした「ユーフォが好き」という気持ちに気付いたシーンには、久美子の成長がよく表れています。誰のせいにも、誰のおかげでもなく、自分のためにユーフォを吹くと決めた久美子は、京都府大会に臨みます。

 

自分の本音をぶつける、一歩踏み出した久美子

さて、1期の「ユーフォが好き」と姉に宣言したのをふまえて、私は姉・麻美子と久美子の関係は一区切りついたものと思っていました。ところがどっこい、麻美子は2期の方がじゃんじゃか出てくるではありませんか。

 

久美子と麻美子は決して仲がいい方ではありません。そんな二人が和解するのがやっとの2期10話。焦げた味噌汁の鍋(なぜ焦げる?)を洗い落としながら、そして隣で久美子が料理をしながらの会話。

「自分で決めてこなかった」「吹奏楽を辞めたことを後悔している」「大人ぶってわかったふりして、自分の本心をおさえて、賢く振る舞ったつもりだった」ということを久美子に語ります。鍋の焦げ目が取れていくにつれ、二人の間のわだかまりも消えていきます。

 

そしてこのシーンの意味が効いてくるのが、というか姉・麻美子との関係がなぜ描かれてきたのか、というのが畳みかけるようにわかるのがこの10話後半、ユーフォのあすか先輩との対決です。

 

あすか先輩は1期~2期を通じて、よくわからない人物として描かれてきました。言うなればラスボスのような存在。あすかは母に反対され、全国大会を目前に吹奏楽を辞めようとします。「戻ってきてください」という久美子に対し、あすかはノーと言う。理由は「部のためにならないから」。

久美子は「みんな戻ってきてほしいって言っている」と伝えますが、あすかに「ほんとにそうなの?」と聞き返され、「傷つかないように、いつも人に踏み込まないようにしている」という、久美子の弱点を指摘します。

 

ちなみにこのとき、二人の顔は影半分、光が当たっているところ半分と、くっきり分かれています。何でだろう、と思っていたのですが、これは二人が本音で話していないことを表しているのではないかと。そして本音で話さない限り、あすかを説得できないというのが、蜘蛛の巣にひっかかった蝶の奥に描かれる久美子を通じて、示唆されています。

 

でも久美子は、前日の麻美子との会話ー「後悔のないようにしなさいよ」ーを思い出し、あすかに想いを伝えます。「私はあすか先輩と一緒に吹きたい」「あすか先輩と舞台に立ちたい」と。「みんな」でも「誰か」がでもなく、「私が」と久美子は伝えることで、一歩踏み出す。

自分の想いを伝えることは傷つくことの危険性を常にはらんでいるけれど、久美子は後悔しないために、そして、「わかったふりして、大人ぶって」自分のやりたいことを貫かなかった麻美子と同じ道をあすかに選ばせないために、自分の気持ちを伝えます。

 

ちなみに、「自分の」気持ちを伝える前の久美子は画面の左側、下手にいて、あすかは画面の右側、上手にいます。このときの会話はあすかが優位に立っているので、それが演出にも表れていますね。

その後、あすかが左側に去ろうとしているのを久美子が止める形で、二人の立ち位置は逆転、今度は久美子が画面右側、上手に来ます。そして演出どおり、久美子の説得がインパクトをもたらします。

また、二人を捉える画面も、ここで二人を斜めに切り取っています。顔もアップになり、画面もダイナミックに切り替わる。普段は「あつくない」久美子が声を荒げ、泣き叫ぶこのシーンのダイナミックさを、二人を映す角度で伝えているんじゃないかと思います。

 

このように、人の感情やシーンを言葉で表すんじゃなく、細かい演出や構図で表しているのがこのアニメが優れているところだと思います。

 

「私があすか先輩と一緒に吹きたいんです」というこの台詞は、かつて吹奏楽を辞めようとしていた麻美子に、伝えることのなかった久美子の気持ちです。「お姉ちゃんと一緒に吹きたい」と久美子は思っていた、でもそれを、素直に伝えることができなかった。お姉ちゃんが辞めるのを、止めることができなかった。この後悔を、姉と和解した久美子が今度はあすかに伝えることによって、久美子は後悔を乗り越え、傷つくリスクを抱え込んだ上で、一歩踏み出すことに成功しました。紛れもなく、久美子が成長した名シーンでしょう。そして、1期から描かれてきた「姉との関係性」が、ここに来て完成された、言うなれば姉を乗り越えたシーンでもあるでしょう。

 

細かい演出

響けユーフォニアムは人の感情や人間関係、状況を、画面の構図や細かい演出で表しているのが面白いです。上記のほかにも、例えば1期では水道の蛇口をきゅっと閉めるシーン、靴紐を結ぶシーン、髪をしばるシーンなどが出てくるんですが、これは吹奏楽の演奏の前など、緊張が高まるシーンのその緊張を、上手く表していると思います。

 

また人間関係でいうと、2期の9話ではあすかの友人香織と、あすか、久美子の三人で歩くシーンが出てきます。久美子・あすかと、香織の間には、階段の手すりが映っている。これは、香織とあすかは一線を隔てていること、また、久美子はあすかと同じ側にいるので、これからあすかの領域に踏み込める、ということを示唆しているシーンでもあります(実際このあと久美子はあすかの自宅へ行き、あすかの本音を聞きます)。

 

細かい演出が多いから、何度も見たくなってしまう。そして何より、背景も人物も抜かりない細やかさ。久美子の声はだるそうで、家族に対しては一オクターブ低くて、それが何とも現実的で生々しい。彼女たちの生を、「今」を、こんなにも「つくりもの」の代表である「絵」で表現できているのは(ボキャブラリーに乏しいですが)すごいとしか言いようがありません。

アニメアニメしているわけでもないので、アニメ特有の仕草や演出が苦手な人にもおすすめです。スポ魂が苦手な人も大丈夫です。久々に作品レビューであつくなってしまいました。